見もの・読みもの日記

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日本を考え、ヨーロッパを考える/大衆の反逆(オルテガ)

2014-05-29 22:45:55 | 読んだもの(書籍)
○オルテガ・イ・ガセット著、神吉敬三訳『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1995.6

 大衆社会論の古典とされるオルテガの『大衆の反逆』。一度は読んでおこうと思いながら、ずいぶん長い年月が経ってしまった。しかし、不思議なもので「いま」読んでよかったと感じるのが古典というものである。

 本書の成り立ちをよく知らないのだが、もっとガッチリした起承転結の学術書かと思っていたら、エッセイ集のような趣きがあった。短い各章は、思っていたよりも独立性が強く、どこを読んでも面白い。

 はじめに「今日のヨーロッパ社会」では「大衆が完全な社会的権力の座に登った」という現状認識が示される。本来、社会を支配統治するなど及びもつかない大衆の支配という異例の事態。それはデモクラシーではない。大衆は法を持つことなく、物理的な圧力を手段として自己の希望と好みを社会に強制している。今日の社会では、凡俗な人間が、凡俗であることの権利を敢然と主張し、一切の非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なもの、特殊な才能を排除している。…冒頭のわずか20ページほどを読んで、うーむ、これは、まさに「今日の日本」の姿ではないかと思って、寒気がしてきた。

 同じことを、1995年、文庫版「あとがき」に訳者の神吉敬三氏が書いている。「オルテガが警鐘を鳴らす人間と社会の大衆化現象がもっとも顕著に見られるのが、実は今日の日本ではないか」と。慌てて、原著の刊行年を確認したら、1930年(昭和5年)だった。著者のオルテガ・イ・ガセットは1883年(明治16年)生まれ。え、そんなに古い人物だったのか、と驚いた。

 オルテガは人間を「選ばれた少数者(貴族)」と「大衆」に分けて考える。これは決して社会階層の謂いではないということが、ネットで読める本書の書評・感想の多くで繰り返されている。そんなに誤読する人が多かったということかな。オルテガのいう「貴族」とは、自らに多くを求め、絶え間ない緊張、不断の修練を生きる苦行者である。自分を超えた規範に奉仕するという、やむにやまれぬ必然性を自分の内側に持っている。「一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである」という洞察は鋭い。私は深く共感する。一方、大衆は、自分以外のものに目を向けない。

 かつての大衆はそうでなかった。過去の平均人は、自分の周囲に、困難、危険、窮乏、運命的な制約を見出しながら生きていた。ところが、19世紀の技術革新と自由主義デモクラシーは、天真爛漫に満たされた大衆人、別の言葉でいえば「甘やかされた子供」「慢心しきったお坊ちゃん」の時代をもたらした。ここで私の脳裡を何度も去来したのは、申し訳ないが、安倍総理といまの日本の政治家たちである。あれこそ、政治的権力を手中にした「大衆」の権化そのものではないか、と思う。

 なお、徹頭徹尾「大衆」への憎悪が繰り返されている本かというと、そうではなくて、ヨーロッパ人(ただしオルテガはスペイン人だから、ヨーロッパの辺境人である)が、ヨーロッパ文明をどう見ているかという、私があまり考えたことのない点が学べたのは興味深かった。著者は「ヨーロッパの没落」をいう人々に抗弁し、ヨーロッパ文明は人類を支配する地位を今なお失っていないと考える。「支配する」とは、人々に献身すべき規範を与え、仕事を与え、空虚な生への逸脱を防ぐことである。「支配」に呼応するものは「服従」だが、「服従」とは「忍従」ではなく(ここは原文=英文が知りたい)命ずる者を尊敬して「その旗の下に情熱をもって集まること」だという記述にも共感する。

 最後のヨーロッパにおける「国家」の形成を考える段も面白かった。そうかー(概念的には)原野の一部を壁で囲い「公共広場」をつくることから、その周囲に「都市」が作られていくのか。ちょうどJMOOCで「日本中世の自由と平等」を学び、久しぶりに網野善彦のいう「アジール」を考え直した後だったんだけど、さまざまな権力集団の隙間に「無主・無縁」の空間が現れるというのとは、ずいぶん似て非なるものなんだな。

 多くの人々が必然と考える「近代国民国家(モダーン・ネーション)」が、歴史上の一段階に過ぎないことを喝破している点も新鮮。スペイン・フランスを例にあげて、我々が必然の存在と考えがちな血縁的・言語的共同体というものは、「国家的統一の原因ではなく、結果である」と説く。「国家(ステート)」とは、ある人間集団がある事業を共同で行うために他の人間集団を招請することである。だから、昨日こうだったということではなく、一緒になって明日やろうということが、我々を統合し、国家(ステート)たらしめる。いい言葉だ。内政においても外交においても、こういう姿勢の政治家が今の日本にほしい。

 そして、著者がヨーロッパ国民国家の未来に見ているものは、当然ながら「超国民国家(スーパーネイション)」である。そこでは「西欧の生がつねに特質としてきた複数性」は、失われることなく、効果的に存続することを要求している。これが1930年の思索なのかあ。ヨーロッパについての認識が少し変わる。

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