見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

金と銀の言いまつがい(ほぼ日刊イトイ新聞)

2006-12-09 21:31:07 | 読んだもの(書籍)
○『金の言いまつがい』 東京糸井重里事務所 2006.12/『銀の言いまつがい』 同 2007.1

 寒い寒い雨の土曜日。近所(新宿)の本屋で買い出しをしてきたあとは、ふとんでダラダラしながら、軽めの活字を読んでいた。

 前作『言いまつがい』が出たのが2004年の春。およそ3年ぶり、今回は2冊まとめての刊行だが、水準が落ちていないのが嬉しい。笑える。

 子供のほほえましい「言いまつがい」、外国語に苦労する中老年世代の「言いまつがい」、いろいろあるけど、私は、ビジネス系の「言いまつがい」が好きだ。あり得ないような爆笑「言いまつがい」多数。「失礼しましましま」とか「ただいま、変わり者が参ります」とか。「忙しくて」「疲れて頭が朦朧としていて」と書いているけど、みんな、大変なんだなあ。このあと、どうなったんだろう、と考えると、そこはかとない人生の哀愁を感じる。

 日本語以外でも、こういう笑える「言いまつがい」ってあるのだろうか?と思った。そりゃ、あるんだろうな。時々見に行く『ジョージのブログ』に紹介されている「ブッシズム」なんて、ブッシュ大統領の「言いまつがい」集そのものである。
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東海の秘仏/名古屋市博物館

2006-12-07 22:59:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
○名古屋市博物館 特別展『比叡山と東海の至宝-天台美術の精華』

http://www.museum.city.nagoya.jp/tenji18/061021/1020.html

 仏像展企画目白押しの2006年秋も、いよいよフィナーレ。結局、全部は行けなかったが、この展覧会は、最後の週末になんとか間に合った。

 本展を構成するコンセプトは2つ。1つは、天台宗開宗1200年の記念イベントである。そのため、天台宗の諸寺院から、有名な寺宝が集められている。愛知・瀧山寺(ここは行った!)の天台大師坐像(頭上に薬缶のフタみたいな「禅鎮」を載せている)とか。岐阜・横蔵寺(ここも行った!)の十二神将立像とか。滋賀・延暦寺の維摩居士座像は、あ~『最澄と天台の国宝』展で、見た見た!とすぐに思い出した。左右にはねた八の字髭が、「三銃士」か何かに出てきそうな、洋風紳士の顔立ちなのである。

 もう1つのコンセプトは、地元・東海地方の知られざる名宝を集めたこと。愛知・密蔵院の薬師如来立像(意外と小さい仏様だった)を用いたポスター、チラシには、「秘仏が語る1200年」という大胆なコピーが、小さな活字で入っている。実際、会場には「○○寺の秘仏本尊である」等の解説を付けた仏像がいくつも並んでいる。

 まあ、宗教的な理由で秘仏であるものと、管理の手が行き届かないので結果的に公開していないものとがあると思われるが、どちらにしても、ふだん見ることのできない仏像を拝めるのはありがたい。春日井市・密蔵院(妙なホームページを持っている)の十一面観音立像(県文)や、同じく春日井市・高蔵寺の薬師如来坐像(市文)など、なかなかよかった。で、春日井ってどこ?(東海地方は不案内)

 岐阜県郡上市の長瀧寺に、南宋時代の韋駄天立像(と南宋版大蔵経)があるとか、名古屋市・聖徳寺に『白描因果経』(これ、生気があってうまいなあ!!)が伝わっていることは、今回おぼえた耳寄り情報。いつか役に立つことがあるかもしれない。「秘仏」を見に来た身に、最後の三重県松阪市・朝田寺(ちょうでんじ)の、曽我蕭白筆『唐獅子図』双幅は、できすぎのおまけ。しかし、この朝田寺は、生きた信仰の寺で、観光で行くのは、ちょっと怖いかもしれない。→詳細
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応挙と蘆雪・後期/奈良県立美術館

2006-12-06 08:23:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○奈良県立美術館 特別展『応挙と蘆雪-天才と奇才の師弟-』

http://www.mahoroba.ne.jp/~museum/okyo/okyo/index.html

 ここだけの話――というほどの秘密ではないのだが、1泊2日の出張で京都・奈良から帰ったあとの週末、私は再び奈良に出かけてしまった。どうしても、この『応挙と蘆雪』の後期が見たかったからである。行ってよかった。いちばん見たかったのは、応挙の『大瀑布図』だったのだが、ほとんどの作品が展示替えになっており、新しい展覧会を見るような気分で楽しむことができた。

 最初に目が留まったのは、蘆雪の『山姥図』。真っ赤な怪童を連れた、奇怪な容貌の山姥を描いたものだ。蘆雪晩年の「過剰演出」「グロテスク趣味」の代表と言われることもあるが、実物を見てみると、それほど不快な印象ではない。全体のトーンは落ち着いているし、山姥のつぎはぎだらけの着物に、琳派ふうの華やかな文様が、装飾的にあしらわれているのが面白い。クリムトを思い出したら、唐突に過ぎるだろうか。

 2階の最初の展示室は、応挙と蘆雪の唐子図の競演だった。蘆雪の『唐子琴棋書画図』は、悪童どもの悪戯ぶりを描いたものだが、左端の2人の子供は、ひとまわり小さな後ろ姿となって、画面の奥に駆け去ろうとしている。1人目の子供は、泣いているように顔を押さえ、2人目の子供は、前の子をいじめようというのか、それとも優しく抱きとめようというのか、両手を広げて後を追っている。蘆雪がたびたび描いた「背を向けて走り去る子供」には、亡き子に寄せる彼の思いが表われているのではないかと指摘されていることは、前期のレポートで述べた。後期のこの作品は、鮮やかな色彩(とりわけ、駆け去る子供の赤い上衣)が胸に突き刺さるようで、前期の『唐子遊図』以上に哀しさを誘う。

 不思議なもので、前期は「蘆雪を見に来た」と言いながら、応挙にハマってしまった。後期は「応挙を見に来た」と言いながら、蘆雪のことばかり書いている。応挙の作品をひとつ取り上げるとしたら、『雲龍図』だろう。六曲一双屏風に、2匹の龍を描いたものだ。その龍の、のたくりかたが妙にリアルなのだ。油絵みたいというか、パルプマガジンの挿絵みたいというか。とにかく日本画の域を超えた量感と質感がある。応挙の『孔雀牡丹図』も、つまらない絵だと思っていたが、いろんな画家の孔雀を見たあとで、この絵の前に戻ってみると、孔雀の尾羽の正確な量感(重過ぎもせず、軽過ぎもせず)に圧倒される。すごいわ、応挙の「写生」って。

 さて、最大の見もの、応挙の『大瀑布図』は、最後の最後にあった。巨大な軸装で、展示ケースの天井ギリギリから掛けても、全長の2割くらいが床に着いて、L字形に折れ曲がってしまう。しかし、これはこれでいいのである。この絵は、上の8割は、垂直に流れ落ちる大瀑布を描いたあと、軸端の2割は、滝壺から水平に流れ去る水流を描いている。だから、途中で折れ曲がるように掛けるのが正しい――という説を、どこかで聞いた記憶がある。

 ところが、今回の展示ケースは、下の方に少し「目隠し」があるため、軸全体が見えるようにケースから離れて立つと、軸端が見えなくなってしまうのだ。う~残念~。これじゃダメでしょう。この絵は、庭の松の木に掛けたという伝説もあるそうだが、私なら、お座敷で鑑賞したい。そうしたら、自分の座っている畳の上に、どろどろと轟音の鳴り響く滝壺が示現し、膝のあたりにさらさらと水面が広がっていく幻想を味わえるだろう。
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国宝漢籍と近世名家の自筆本/天理図書館

2006-12-05 05:11:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
○天理大学附属天理図書館 特別展示『教祖120年祭記念展』

http://www.tcl.gr.jp/tenran/kinen/120nen/index.htm

 出張で天理図書館に行ってきた。先方の職員に会って、いろいろ話を聞くのが目的だったが、今年、同図書館は、教祖120年祭(教祖・中山みきの没後120年)を記念して、1年間にわたる貴重書の展覧会を行っている。折りしも先週は、国宝3点を含む豪華『漢籍』展が行われていたので、仕事のあと、展覧会場を見せてもらった。

 連れの同僚は「12月のインキュナブラのほうがいいなあ」と言っていたけど、インキュナブラ(15世紀本)なんて明版じゃないの(と、井上進先生のようなことを言ってみる)。今回は12~13世紀初の宋版が2点出ているのだ。

 入口を入ってすぐの単独ケースに飾られていたのは、重要美術品の『永楽大典』。大型で、黄色い絹の表紙が美しい。極上の白い料紙に端正な細字が記されている。原稿用紙ふうの朱の罫線は、よく見ると、実はこれも手書きである。案内してくれた方は、30数年勤めていても、これを見るのは2回目です、とおっしゃっていた。

 それから、国宝の『欧陽文忠公集』『劉夢得文集』が並ぶ。どちらも宋版。前者は、当時の版本には珍しく、挿絵(版画)が添えられていることで有名なものだ。後者は、足利義満の蔵書印(号・天山)を有する。また、国宝『南海寄帰内法伝』は、海路インドに渡った唐の義浄の著。展示品は奈良時代初期の写本(巻子)で、胆の据わった男性的な手跡である。案内の方は「永楽大典の字もいいけど、この字もいいでしょ?」と自慢げだったが、その気持ち、うなづける。

 このほか、『長恨歌伝』に「弘前医官渋江氏蔵書記」の印が押されているのを、私は見逃さなかった(鴎外の史伝小説で有名、渋江抽斎の旧蔵書である)。『白氏文集』には「金澤文庫」印あり。解説によれば、唐の会昌年間(白楽天の同時代!)に留学僧が書写して持ち帰ったものを、鎌倉時代に写した伝本だそうだ。すごい!

 併設の『近世名家の自筆本』がまたすごくて、荻生徂徠、伊藤仁斎、賀茂真淵、本居宣長、近松門左衛門、井原西鶴、等々。とにかく、儒学者、国学者、国語学者、文学者、蘭学者まで、近世名家総ざらいという感じである。とりわけ、子安宣邦さんを感激させたという伊藤仁斎のノートを前にしたときは、身が引き締まる思いだった。

 これだけの資料を集め得たのは、宗教法人関連ということで、一般の大学図書館とは比較にならない予算の潤沢さもあるだろう、と想像されるけれど、かつて、これらの貴重な資料が二束三文に近い値段で売り出されたとき、外国に流出させてはならないという使命感で買い集めた、という経緯をお聞きしたことも付記しておこう。

 案内の方は、我々を”一般人”と思ったらしく、20分くらいで展示室ツアーは終了。連れはともかく、私は、もっとじっくり見たかったのだが、既に公開時間は終了していて、我々のためだけに開けてくれたので、我儘は言えない。未練を残しながら、展示室を後にした。
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みんなで見仏/東京国立博物館

2006-12-04 01:06:48 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 特別展『仏像 一木(いちぼく)にこめられた祈り』

http://www.tnm.jp/

 先週の話になるが、ようやく本家の『仏像』展に行ってきた。前期の見ものが、京都・宝菩提院願徳寺蔵の菩薩半跏像。後期が滋賀・向源寺蔵(渡岸寺観音堂)の十一面観音菩薩立像。どちらも見に行ったことがあるが、どちらを取るかといえば、渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音にお会いしたかったのである。私のまわりは、おおむね同意見で、10月頃は「行くなら後期。まだ行っちゃダメですよ」と忠告してくれる若い友人もいた。

 ところが、今回、一緒に見に行った”見仏の友”のうち、なぜか金沢在住の友人は2回目で、「え?前期は来なかったの?」と訝られるし、別の友人は「僕は3回目です」と言うし。もうひとりは、高倍率を突破して、「みうらじゅん・いとうせいこう仏像トーク」を聞きに行ったというのだから、全くよく出来た仏友たちである。自分の未熟を恥じ入った次第。

 それはともかく、渡岸寺の十一面観音は美しかった。斜め前(向かって左)から眺めるのがベストショットだと思う。前から見ると幼児体型なのだが、後ろに回ると、腰の細さ、腰の位置の高さ(腰布がヒップハンガーみたいだ)が、畏れながら、たいへん色っぽい。ひとつ残念だったのは、照明が強すぎると思われたこと。位置によっては、見る者の邪魔になっていたのに加えて、観音の印象が白っぽくなってしまった。この観音は、磨き上げたような黒い肌が魅力なのに。

 そのほかでは、唐招提寺の木像が並んだコーナーで、やはり足が止まる。木目が露わで、「一木にこめられた祈り」のタイトルそのままの霊気と迫力を感ずる。

 今回、初見で、いいなあと思ったのは、奈良・珹寺(れんじょうじ)の聖観音菩薩立像。腰のひねりかたが優美。胸から膝までを飾る長い瓔珞も美しい。『芸術新潮』11月号の表紙を飾った奈良・融念寺の地蔵菩薩は、西洋の貴婦人のように、右手で衣の裾をそっとつまむ。細面のわりにふくよかな頬も、若い女性のようだ。あやしい。

 島根・大寺薬師の四天王とか、広島・古保利薬師堂の四天王(2体)などは、その存在は知っていても、なかなか訪ねる機会が無かったものだ。東京まで出開帳していただいて、本当にうれしかった。

 それにしても会場は、若者が多かった。仏像だけではなくて、書画でも焼きものでも、最近、東洋美術の展覧会は、驚くほど若者が多い。逆に、たまに西洋美術を見に行くと、おじさんや老夫婦が多いのである。ニッポンって不思議だなあ。

 それから、我々の間で話題になったのは、駅貼りポスターに添えられた「白州正子が、井上靖が、土門拳が、みうらじゅんが愛した」という爆笑コピー。ところが、チラシでは「みうらじゅん」のところが「水上勉」に差し替えられている。広報部内で、いろいろ葛藤や妥協があったのかな~なんて、要らぬ想像を誘われてしまった。
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再び、ニューヨーク/空の帝国、アメリカの20世紀(生井英考)

2006-12-03 08:04:54 | 読んだもの(書籍)
○生井英考『空の帝国、アメリカの20世紀』(興亡の世界史19) 講談社 2006.11

 書店で本書を手に取って開いたとき、「1908年に描かれたニューヨークの近未来想像図」という口絵が目に入った。ノスタルジックな摩天楼の間を、怪鳥のような飛行船が、空を圧して行き交う図版である。その地上はるかな浮遊感(非現実感)に、先日、エンパイアステートビルの展望台から眺めたニューヨークの風景が思い出されて、本文を読んでみようという気持ちになった。

 著者の専門は「視角文化論」である。それゆえ、アメリカの20世紀を論じた本書でも、写真や絵画を切り口に、数々の興味深い考察を行っている。1903年、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。その情景を捉えた有名な記録写真に、著者は「何ともいえず渺々と虚ろで孤独な気配」を感じ取る。それは「現代的な科学技術システムが整備される前の」「職人気質の寓意像」であった。

 そして、新しい世紀が始まったが、当初、アメリカは、ヨーロッパ諸国に比べると、空軍の整備に消極的だった。それを決定的に変えたのは、パールハーバーの衝撃である。第二次世界大戦における、戦略爆撃の採用、原爆の投下、そして、ヴェトナム戦争、SDI(通称スターウォーズ計画)、湾岸戦争、コソボ介入と続き、9.11同時多発テロ(2001年)を経て、今日のイラク戦争に至る。

 20世紀とは、アメリカの(あるいはアメリカの戦争の)世紀であった。20世紀の戦争は航空戦であり、航空戦の本質は、「空」と「地」の極端な非対称にある。攻撃する側にある者は、攻撃を受ける側の恐怖を想像することができない。ここに、20世紀の戦争の「記憶」を語り継ぐことの困難がある。

 本書は、20世紀アメリカの政治史、軍事史、産業技術史、文化史など多方面にコミットし、「空軍のメンタリティ」の歴史的形成、女性の動員、空を描いた文学と映画、宇宙開発と空軍の関係など、興味深い問題が多数、取り上げられている。率直にいうと、「あとがき」で著者も認めているとおり、どの問題も十分な解答が用意されているとは言い難く、読み手にはフラストレーションの残る本である。しかし、にもかかわらず、本書が提起している多くの問題は、どれも魅力的である。

 私が、とりわけ面白く読んだのは、この20~30年間の同時代史である。レーガン大統領はアメリカ国民にとってどのように魅力的だったのか、クリントン政権は何をしたのか、ベトナム戦争以後、軍の再建の柱となったワインバーガー・ドクトリン(これを継承するのがコリン・パウエル)とはいかなるものか、等。

 9.11に関しては、同時多発テロという「事実」の後、アメリカ国民に起きた「変容」の深刻さ。事件の後、マスコミには、さまざまなイメージが溢れ出た。残酷なものから、黙示録的に審美的なものまで。それらを知る(むしろ、見る)ことを強いられた人々は、深い心的外傷(トラウマ)を負い、トラウマは彼らを愛国者に駆り立てた。あたかもベトナム戦争など無かったかのように。

 著者は言う、「かつては無知ゆえに政治に搾取されるのがお決まりだったとするなら」「知り過ぎたがゆえに利用されやすく、心理的に総動員されやすくなったのが現代」である。そして、もちろん現代の政治家は、トラウマのこうした性質を意図的に利用しようとしている、とも。

 ニューヨークも、このとき変わった(再生した)のだという。90年代の道徳的に退廃したニューヨークから、団結と友愛のニューヨークに。移民たちの夢と希望を迎え入れた「美しきアメリカ」の首都に。ふーん、そうなのか、と思って、私は再び、あのエンパイアステートビルから眺めた灰色の街並みを思い起こすのである。

 蛇足。この「興亡の世界史」シリーズは、かなり”買い”だと思う。『清帝国とチベット問題』の平野聡が改めて論じる『大清帝国と中華の混迷』、イスラム史の羽田正が『東インド会社とアジアの海』をどう描くのか、姜尚中の『大日本・満州帝国の遺産』など、楽しみな巻が多い!
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霊験仏(れいげんぶつ)/県立金沢文庫

2006-12-02 20:59:12 | 行ったもの(美術館・見仏)

○金沢県立金沢文庫 特別展『霊験仏-鎌倉人の信仰世界-』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 この秋は、なぜか各地で仏像展が開かれている。先日は、長岡まで遠征して『新潟の仏像展』を見てきたわけだが、個人的には、この展覧会が第2弾となる。

 もともと神奈川県域は、古寺社や神像・仏像の名品が多いところだが、今回は、特に霊験仏(信仰者に何かの利益をもたらす仏像)に着目した展示となっている。1階のホールには、横須賀・満願寺の菩薩立像地蔵菩薩立像がおいでだった。菩薩像は、きかん気いっぱいの丸顔で、まるで相撲取りのようだ。高く結い上げた髷は宋風だが、彼の地の高度な都市文明の匂いはなく、突き出た腹、太い二の腕は、東国武士の嗜好を感じさせる。

 2階の展示室も、ズラリ仏像が目白押しである。見覚えのある仏像、寺の名前もあるし、県外(茨城、福島など)から請来されたものもある。海岸尼寺の十一面観音は、久々のお出まし。脇侍の小さな不動・毘沙門天を連れているのが、お母さんと子供のようだ。鎌倉・辻薬師堂の十二神将(戌神)は、黒光りしたボディに凄みと迫力があって、なかなかいい。めずらしいところでは、裸形の阿弥陀如来立像(埼玉・個人蔵)があった。「股間の蓮華文に鎌倉時代の様式的特徴がよく表われている」みたいな解説が添えてあったが、そうなのか!?

 さすが「文庫」の仏像展と思ったのは、平型の展示ケースに関連文書が並んでいたことだ。これはこれで楽しいと思う。説法の台本など、僧侶の実用品だったとおぼしい、小型本(しかも複本多数)が多い。長谷寺縁起の関係で、東博から、『三宝絵』(国宝)が出陳されていた。この装丁は「固定式旋風葉」っていうのかな?(違ったらごめんなさい)

 同時公開の金沢文庫蔵『文選集注』(国宝)も見ることができた。修復はされているが、原本の紙はぼろぼろである。たびたびの戦乱の中をよく伝わってきたなあと思う。やさしい手跡は、平安時代、日本で書写されたものだそうだ。

 同じ日、鎌倉国宝館の特別展『武家の古都鎌倉-世界遺産登録にむけて-』もまわってきた。既知のものが多かったが、武家にかかわる絵巻類(江戸ものだが)が、けっこう面白かった。

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資本主義の夢/映画・フラガール

2006-12-01 20:31:54 | 見たもの(Webサイト・TV)
○李相日(り・さんいる)監督・脚本 映画『フラガール』

http://www.hula-girl.jp/index2.html

 久しぶりに映画を観て来た。好意的な批評が聞こえていたので、公式サイトをチェックしてみたら、『パッチギ!』の李鳳宇(り・ぽんう)氏がプロデュースした作品と分かり、これは見にいこう、と思った。

 舞台は昭和40年の福島県いわき市。次第に斜陽化する炭鉱の町に、新たな産業として、「常磐ハワイアンセンター」設立の話が持ち上がる。町のため、家族のため、自分の可能性を信じて、炭鉱娘たちがフラダンスに挑戦することになった。

 「常磐ハワイアンセンター」は、行ったことはないけれど、テレビCMを見ていた覚えがある。私にとっては同時代の物語だ。けれど、映画が始まったときは、ちょっとびっくりした。つぎあてをしたセーターに、もんぺ(?)姿の女子高生。昭和40年の日本って、まだあんな時代だったんだっけなあ。もう少し豊かで開放的だったような気がするのは、私が東京育ちのせいもあるけれど、おぼろな記憶(小学校に上がる前)を、無自覚に偽っているのかもしれない。

 ストーリーはよく出来ていて、素直に泣ける。スクリーンで圧倒的な存在感を見せ付けるのは、いずれも女性たち。ダンスの先生役の松雪泰子の奔放ぶりも、昔気質な母親役の富司純子も、それぞれカッコいい。脇役の男性たちも味わい深くて、どの配役も成功していると思う。最後は、ハワイアンセンターのオープン初日、フラガールたちに贈られた万雷の拍手で、ハッピーエンド。

 うーん。この感じは、一時期の中国映画に似てるなあ、と私は思った。たとえば、チャン・イーモウ監督の『あの子を探して』とか、チャン・ヤン監督の『心の湯』とか。普通の人々が集まって、意識的に一致団結するわけではないけれど、結果的に、少しずつの善意や努力が集まって、何か困難を乗り越えるというストーリー。問題の根本的な解決ではないかも知れないけれど、とにかく「よかったね」と言い合って、ひととき、温められた心を大事に持ち帰るような映画。

 というわけで、この映画、中国では受けるだろうと予想する。日本もかつては貧しかったし、資本主義社会の庶民も大変なのよ、というあたりを見てほしいものだ。
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