見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

素顔に戻る季節/京都 冬のぬくもり(柏井壽)

2011-01-08 22:13:05 | 読んだもの(書籍)
○柏井壽『京都 冬のぬくもり』(光文社新書) 光文社 2010.12

 年が明けたら京都へ行くぞ!と思っていたのだが、寒波と正月疲れで気持ちが萎えてしまった。今日もぬくぬくとコタツで読書。本書は、京都人である著者が、冬の京都の歳時記やおすすめ町歩きコース、冬の味を語ったもの。夏→秋→冬ときたシリーズの3作目である。

 観光のハイシーズンである夏や秋については、京都人のおすすめを聞くまでもない。聞いたとしても、だいたい1泊か2泊の週末旅行で、美術館の企画典やら、お寺の特別拝観やらを当て込んで行くので、それ以上のものを盛り込む余裕がない。けれど、本当に「京都」の魅力を味わうなら、冬がいちばんだと昔から思っている。一年中で最も観光客の少なくなる季節。「京都は京都を演じなくても済むわけで、ホッと一息ついて、素顔に戻る」という著者の表現は、言い得て妙だと思った。

 「冬の町歩き」に紹介されているコースも、烏丸通り(五条から御池辺りまで)と寺町通り(三条辺りから丸太町まで)。一般のガイドブックが取り上げるような、観光有名寺院は特にない。しかし、橘行平邸址と伝える因幡薬師(ここは行った)とか、「送り鐘」で知られる矢田地蔵尊とか、街中にひっそり守り伝えられた古寺社が紹介されている。富岡鉄斎や北大路魯山人が揮毫した看板を見て歩くのも楽しそうだ。

 初めて知った豆知識に「十二月十二日」(石川五右衛門の命日)と書いた紙を逆さに貼ると泥棒除けになるというのがある。年末の短い期間にだけ見られる習慣だそうで、機会があったら探してみたい。それから、保津峡に近い水尾の里は柚子の名産地(日本の柚子の発祥の地)で、花園天皇がこの地に植えたとの説があるそうだ。これも初耳。食べてみたいと思ったのは、洋菓子・桂月堂の「瑞雲」。よしよし、次回の京都旅行では、ぜひこの烏丸通り~寺町通りを歩いてみよう。

 京都の本だと思って読み進んだら「冬近江の愉しみ」という1章が設けられていてびっくりした。著者は、本書に先立つ「夏」「秋」本でも、同様に近江(滋賀県)の魅力を紹介しているらしい。近江好きの私には、嬉しい付録だった。本書には、2010年秋、大津市歴史博物館で開かれた『大津 国宝への旅』と「黄不動」特別公開の様子がレポートされている。人の少なさに「もったいないやら、ありがたいやら」と困惑する著者。ほんとにねえ、2009年、京都・青蓮院の「青不動」特別公開には大勢の観覧客が訪れ、話題になったというのに。でも、このユルさが近江の魅力である。

 秋の大津祭も楽しそうだな。ミニ祇園祭みたいな趣きがあるそうだ。行ってみたいが、10月(2011年は10月8-9日)は行事が多いんだよなあ…。あと「終い弘法」「終い天神」も一度行ってみたいが、全ては定年退職後の楽しみに取っておくしかないだろうか。

 ところで、京都市は、2000年当時、年間4000万人であった入洛観光客数を、2010年までに5000万人に増やす「観光客5000万人構想」を宣言し、目標より2年早い2008年にこれを達成したそうだ。さんざん貢献している私が言うのもなんだが、京都の魅力を保つためには、もうやめてくれ、という感じ。観光客を年間3000万人まで減らします、っていう公約を掲げる政治家は出てこないものだろうか。
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私は悪人である/かくれ佛教(鶴見俊輔)

2011-01-08 00:57:39 | 読んだもの(書籍)
○鶴見俊輔『かくれ佛教』 ダイヤモンド社 2010.12

 1922年生まれの鶴見さんが、第一線の運動家、評論家として活躍していたのは1960~70年代くらいだろうか。私はその頃の著者をよく知らない。けれど、先だって、著者が80歳から87歳の間に書いたエッセイ『思い出袋』(岩波新書、2010.3)を読んでファンになった。こういう老人に私もなりたい、と思った。本書はさらに、85歳から88歳の間のインタビューをもとに構成したもの。冒頭に、石畳の街頭に杖をついて、しかし背筋を伸ばし、正面を見据えて立つ著者の全身近影が掲げられている。

 本書のテーマは宗教である。著者は、自分の立場を「かくれキリシタン」にちなんで「かくれ仏教徒」と表現する。ハーバードの神学校で学んだ著者だが、キリスト教徒にはならなかった。キリスト教は、つねに自分が正しいと思っていて、「あなたは間違っている」という。その点で、マルクス主義もウーマン・リブも、ヨーロッパに学ぼうとした、明治以降の日本政府も同じ一派である。

 厳しい母親に育てられた著者は「マゾヒスト」に育った。さらに子どもの頃、張作霖爆殺事件を知って「日本人は悪いやつだ」と思った。「私はもともと人間として悪い奴」である上に「悪い日本人の一部」だ。そこに、結果として、仏教に親近感を持つ下地があったという。笑ってしまった。昨今不評の自虐史観の極みではないか。しかし、自虐史観が日本人を萎縮や卑屈に導いたと考えるのは短絡的にすぎる。「私は悪人である」という自覚の徹底から、どれだけ強靭で、かつ自由で独立不羈な精神が生まれてくるか、著者の一例をもっても分かろうというものだ。

 著者は、キリスト教の一部にも仏教に似た立場があることを、イエスはキリスト(救世主)ではなくブッダ(自覚を得た人間)と呼ぶべきではないか、と説いた木下尚江を引いて述べる。しかし著者は、戦時中の僧侶や牧師が、戦争を支持し、人を殺していいと触れまわっていたことに、今も不信感をもっている。「私の葬式のときは、友人の僧侶や牧師に説教などしてもらいたくない。一代の終わりまで」。この執念深さを、私は爽快だと思う。

 本書には、古今東西、多種多様な人物が登場する。法然、親鸞、良寛など、歴史上の高僧とともに、著者の精神的遍歴に直接の影響を与えた家族(父、母、姉)、友人、恩師なども登場する。戦前の学習院では、軍人の大官の子どもたちが威張りかえっていて、それを不快に思った少年たちが「白樺」に集まった。軍人批判で教師や生徒父兄を怒らせたのが柳宗悦で、それをかばった教師が西田幾多郎とか、意外な有名人と有名人が、イモヅル式につながっていたりする。河合隼雄とは存命中のつきあいもあったが、没後に著作を読んで受けた影響も大きく、「私は河合隼雄没後の門人」という表現を使っている。牧口常三郎、戸田城聖は、創価学会の前身、創価教育学会の創立者である。著者は創価教育学会の影響を受けた家庭教師との出会いを好意的に語っている。

 仏教の教理そのものへの言及は少ないが、私は、ほとんど慣用句として耳になじんでいた「寂滅為楽」という言葉を、あらためて美しい言葉だと感じた。田村芳朗の「しじまをたのしみとなす」という和訳も美しい。それから、仏典に出典をもつ「犀のように一人で歩め」という言葉。参った。脚注には「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」とある。優しくて、かつ厳しい言葉だと思う。
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楽し、めでたし/山口晃展 東京旅ノ介(銀座三越)

2011-01-06 23:13:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
銀座三越 『山口晃展 東京旅ノ介』(2010年12月28日~2011年1月10日)

 山口晃さんの個展を初めて見に行った。意外と小さい作品なんだな、というのが第一印象。あの緻密さだし、原作品は、もっと洛中洛外図屏風みたいに大きいのかと思っていた。私は彼の作品を見ていると、日本の古典文学でいう「引き歌」を思い出す。どこかで見たことのある、懐かしいパーツで人目を引きながら、全体としては、全く見たことのない風景を創り出してしまう手法である。

 冒頭には『東京圖 六本木昼圖』(2002年)や『百貨店圖 日本橋 新三越本店』(2004年)など、東京のランドマークをモチーフにした作品が並ぶ。金雲に縁取られた画面に、古今の風俗の人々が仲良くひしめく様子は、新春に似つかわしくおめでたい。こういうのって、画家が勝手に着想して描いているのか、頼まれたのか、どっちなんだろう、と思っていたら、あるトークイベントで「三越さんに『山口さん、暗いのはあきまへん』と言われまして、賑やかに描きました」と語っていらっしゃるのを発見した(※フェリシモ:神戸学校)。

 戦国武将をモチーフにしたクール系の作品群には、代表作『最後の晩餐』も。桔梗紋を背にした武将が明智光秀であるらしいことは分かったが(これも「へうげもの」つながり)、ほかの人物は? たぶん何か典拠にしている肖像画や史料があるんだろうなあと思う。いや、ないのかもしれないけど…。

 それから、絵葉書大の小品を主とする『日清日露戦役擬画』シリーズ。これを見て、記憶によみがえったのは、2005年、ていぱーく(逓信総合博物館)で行われた特別展『梨本宮妃殿下コレクション~日仏絵はがきの語る100年前』。日清日露戦争当時って、まだ写真よりも絵画が重要なメディアだったので、写実的だったり風刺的だったりする、さまざまな戦争絵画が残っている。山口さんは、それらに触発されたのじゃないかな、と思う。でも黒鳩の冑をかぶったクロパトキン(たぶん)とか、説明がないと分からないだろうなあ、と思う。

 後半では、日本経済新聞の連載エッセイ「美のよりしろ十選」を紹介。山口晃さんが、日常風景の中で「美のよりしろ」と感じるものは、「ハンディカムの蓋を開けたところ」「浜松町-羽田モノレールの車内」「波板(半透明の建築材)」「寺にある小屋(拝観券やお札類の販売所)」「電柱」等。モノレール車内の座席配置に「桂離宮の新御殿上段の間の桂棚」を思い起こし、「波板」について「小堀遠州あたりに託すと、さぞかし奇麗さび極まるしつらえに結実させてくれるだろう」と述べる。一瞬、からかわれたかと思って唖然とし、それから、うーんと唸る。個人的には、「寺にある小屋」に膝を打ってしまった。そうそう、茶室みたいに見事な趣きの小屋ってあるよね、と。このエッセイ、早く本にならないものかな。全部読みたい。
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司馬遼太郎と朝鮮/故郷忘じがたく候(司馬遼太郎)

2011-01-04 23:31:35 | 読んだもの(書籍)
○司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』(文春文庫) 文藝春秋 2004.10

 一昨年と昨年の暮れは、NHKのスペシャルドラマ『坂の上の雲』を楽しんで見た。原作について、いろいろ議論があることは承知しているが、私が小説『坂の上の雲』を読んだのは、ずいぶん前のことなので、あまり深く関わらないでおこうと思っていた。

 そうしたら、先日読んだ和田春樹氏の『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の100年史』が、冒頭で『坂の上の雲』を取り上げていた。一般に「司馬史観」とは、明治期の日本(日露戦争まで)を肯定的に評価し、その後はだんだん悪くなっていったと看做すものである。和田氏によれば、小説『坂の上の雲』(1968-72年発表)には、朝鮮のことは全く出てこない。出てくる朝鮮人の名前は東学党のリーダー全琫準だけで、高宗も閔妃も登場しない。日清・日露戦争とも、朝鮮をめぐって起きた戦争であるにもかかわらず、だ。

 けれども和田氏は、この小説のところどころに現れる作者の感慨を手掛かりに、「(司馬氏は)すでにその途中で、この明治の人々の努力がとんでもない方向に進んでいくのではないかということを感じ始め」「最後になると、問題はロシアではなく朝鮮だとますます思うようになったのではないか」と推察する。司馬遼太郎は、『坂の上の雲』を書き始めた1968年春、慶長の役に際して日本に連行された朝鮮人陶工の子孫、14代沈寿官(ちん じゅかん)氏に会い、紀行と空想を取り交ぜた小説『故郷忘じがたく候』を書いた。「『坂の上の雲』という作品の中には朝鮮人は出てきませんが、この世界の外側に沈寿官14代が立っていて、司馬氏の方を見つめている」というのが和田氏の見立てである。

 沈寿官? 私は思わず、自分の財布の中を覗き込んだ。2011年1月19日から日本橋三越で始まる『歴代沈壽官展』(※ポスターの表記に従う)の招待券を年末に手に入れたばかりだったので。14代沈寿官氏の語るところによれば、彼らの祖先は慶長の役において島津勢に捕まり、船に乗せられて薩摩(鹿児島)に漂着した。故郷の自然に似た苗代川のあたりに居を定め、祖国の言語風俗を保つことを許され、作陶の技術を活きる糧として年月を重ね、やがて薩摩の国名を冠した「薩摩焼」を生み出す。

 けれども、明治後、薩摩陶業が藩の保護を離れると、朝鮮人の姓を持つ14代沈寿官氏は(たぶん13代も)、少年時代に日本人から理不尽ないじめを受けた。「自分が日本人でないなどとは夢にもおもったことがなかった」沈寿官少年は、喧嘩も勉強も一番になることで、周囲に自分の存在を認めさせていき、最後に「血というのはうそだ」という「世界のどの真理よりもすばらしい真理」をつかんだ。――と小説にはあるのだが、ここは分かりにくい。元来、司馬氏の小説は、歴史上の人物を、その細かな心の動揺まで、自家薬籠中にしているような爽快感があると思うが、この沈寿官氏の述懐に関しては、どこか真意をつかみかねている感じがする。

 ふと気になって、『街道をゆく』シリーズの「韓のくに紀行」を調べてみたら、1971-72年発表だから『坂の上の雲』の執筆(連載)終盤と重なっている。小島毅氏は『父が子に語る近現代史』で、司馬氏が紀行現場のすぐ近くにある東学農民戦争の史跡を取り上げていないことを指摘しているが、司馬さんは、近代以降の日朝(日韓)関係を気にかけつつも、まだ書く準備ができていない、という自覚があったのではないか…と私は想像した。

 本書には、明治初年、会津藩討伐のため奥州に派遣された世良修蔵の死を描く『斬殺』と、細川ガラシャと夫・忠興を描いた『胡桃に酒』を収録。後者は、正月に読んでいたマンガ『へうげもの』と思い合わせて、面白かった。この話は、また別稿にて。

※参考:沈壽官(15代)窯
同家の歴史についても詳しい。
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三・一独立宣言の奇跡/これだけは知っておきたい日本と朝鮮の100年史(和田春樹)

2011-01-03 23:54:09 | 読んだもの(書籍)
○和田春樹『これだけは知っておきたい日本と朝鮮の100年史』(平凡社新書) 平凡社 2010.5

 2010年2月~3月に日朝国交促進国民協会(著者が事務局長をつとめる)がおこなった6回の連続講座をまとめたもの。2010年は、日本が大韓帝国を併合した1910年からちょうど100年になる。そこで、韓国併合の前史を含め、「日清・日露戦争から韓国併合」「三・一独立宣言」「抗日戦争」「終戦」「朝鮮戦争」「金正日体制」という6つのトピックで、100年を振り返る。講演そのままの、です・ます調で書かれていて、読みやすい本だ。

 和田春樹氏の言動に対しては、激しい拒否反応を示す人々がいたり、研究者からも批判があることは承知しているので、実は少し用心して本書を読んだ。しかし、過去の人々に対する評価が(倫理的に)厳しいなあ、と思われるところはあっても、論理の破綻や牽強付会は感じなかった。

 本書のよい点は、日朝の100年にとって重要な「テキスト」が、詳しく引用されていることだ。ひとつは「三・一独立宣言」である。1919年3月1日、ソウルのパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者ら33人が集まって「独立宣言」を読み上げ、万歳三唱をした(※詳しくはWiki)。私は、この事件のことも知っていたし、タプコル公園に行ったこともある。しかし、宣言の全文を読むのは初めてで、その格調と内容の高邁さにびっくりした。日本の侵略は糾弾されているが、日本が独立を認めれば、それ以上の追及はしないという。そして、朝鮮の独立が認められなければ、東洋の平和は保障されず、(日本、中国を含めた)東洋全体が共倒れになることを懸念している。どうして虐げられた人々の側から、こんな理想主義的な宣言が出てくるのか。そして、もう一回、ここに戻って対話を始められないものかと、無理なことをを考えたりもした。

 しかし、当時の日本の新聞は、朝鮮人が独立万歳を叫んだことを報道するのみで、宣言の内容を全く無視した。宣言の全文が日本で最初に発表されたのは、石母田正の著書(1955年)であり、広く知られるようになったのは、1970年代からだというが、まだ今日でも「広く知られるようになった」とは言い難いのではないだろうか。

 重要なテキストの二つ目は昭和天皇の終戦の詔勅である。これは、一部原文を省略して大意の解説のみの箇所もあるが、ほぼ全文の梗概に沿って解説がされている。私は、この詔勅も、細切れの引用には何度も接してきたが、「テキスト」として頭から終わりまでを読むのは初めてのことで、非常に興味深かった。有名な「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ビ」のあとが、迫水久常の原案では「永遠ノ平和ヲ確保セムコトヲ期ス」だったものが、安岡正篤によって「萬世ノ為ニ大平ヲ開カムト欲ス」(宋儒・張横渠の言葉を典拠とする)に変えられたことも初めて知った。迫水案のほうがよかったと思うのに。

 さらにいうと、2009年11月放映のNHKスペシャル「秘録・日朝交渉」は、2002年9月と2004年5月に行われた金正日・小泉純一郎による日朝首脳会談の議事録を外務省から入手し、紹介している。この(特に第2回会談の)議事録を読むと、両首脳が率直かつ真剣に対話を交わしていることに感銘を受ける。金正日は頭の鈍いデブではないし、小泉純一郎も人目を驚かすパフォーマンスだけを考えていたわけではない。けれども私たちは、この会談のセンセーショナルなダイジェスト映像だけを何度も何度も見せられ、したり顔の評論家の「解説」だけを聞いて、何か分かったような気になっていなかったか。

 千人の意見を聴き、百冊の解説を読むよりも、まずは原テキストに当たること。歴史を学ぶに際し、そんな当然の教訓をあらためて噛みしめただけでも、読む価値のある1冊だと思う。
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古い問題設定/日本人の階層意識(数土直紀)

2011-01-02 22:34:45 | 読んだもの(書籍)
○数土直紀『日本人の階層意識』(講談社選書メチエ) 講談社 2010.7

 はっきり言うと物足りない本だった。本書が素材としているのは、おなじみ「国民生活に関する世論調査」と「社会階層と社会移動調査(SSM調査)」である。

 前半では、「学歴には(収入と関係なく)階級帰属意識を高くする影響力がある」という事実が問題にされる。しかも、この30年間(1970年代→2000年代)、四年制大学への進学率は20パーセント台から50パーセント台に跳ね上がり、高学歴(大卒)の稀少価値は減少しているにもかかわらず、学歴が階級帰属意識を引き上げる影響力は上昇している。著者はこれについて、大卒者を「父親も大卒」グループと「父親は非大卒」グループに分けて比較した結果、前者のほうが高い階層帰属意識を持つことを示し、進学率の上昇により高学歴継承者が増えたことによって、学歴が指示する階層的地位により強くコミットする個人が増えた、と結論する。

 うーん。素人から見ても、なんか検証手続きが不満。まず、最新(2005年)のSSM調査において「大卒」に括られる対象者の年齢がバラバラ(20~70歳)で、大学進学率が低かった(大卒が稀少価値だった)頃に学生時代を過ごした人たちが多数含まれていることが忘れられているように思う。大学進学率と階層帰属意識の相関関係を調べるなら、対象グループが実際に進学~卒業・就職した時期の進学率がどうであったか、および、その意識が、社会人経験を積んだ後も保たれているか、あるいは変化していくか、という問題設定があるべきではないか。

 また、社会へ出て間もない若者が、父親の帰属階層=自分の帰属階層と認識するのは自然なことだが、父親を学歴で分けるより、その職業(社会的地位)や収入によって分けたほうが、もっと明確な影響関係が表れたのではないかと思う。

 前半の続き、地域と階層意識の考察でも、都道府県別の大学進学率と階層帰属意識の比較はあまり意味がないと思うなあ。もうちょっとミクロに、たとえばホワイトカラーの多い新興住宅地と、中小家内企業の従事者が多く大学進学率の低い地域をサンプルで比較するほうが有意味だったのではないだろうか。

 後半では、2005年のSSM調査が「望ましい配分原理」を聞いたところ、1位:努力、2位:実績、3位:必要、4位:平等だったという事実を紹介。実は、立ち読みでは、ここからが面白そうだったので、本書を購入したのである。しかし、著者が、日本人の「努力」好きを「チームプレーを強いられる社会」と結び付け、実績主義→個人プレーに短絡している感があることにも納得できない。努力至上主義の個人プレーもあれば、実績主義のチームプレーもあり得ると私は思うので。

 本書について、決定的な不満は、考察対象が「男性」に限られていることだ。1975年までのSSM調査が男性しか対象にしていないので仕方がないのだが、2010年に刊行する図書として、この内容で「日本人の階層意識」を名乗っていいのかは大いに疑問。それから、近年、ホワイトカラーの内部で増大している新しい格差、非正規雇用者の問題が、終章近くにようやく顔を出すだけというのも、全体を通じて問題設定が古すぎると思う。

 著者は、戦後数十年の急激な経済成長期に比べれば、今後は社会構造も安定し、メディアの発達によって、人々の社会全体に対する情報・知識も正しいものとなっていくだろうと述べているが、この点も私は全く同感できない。産業の情報化・グローバル化によって、社会構造はますます流動化しそうだし、「メディアの発達」は、時として必要以上に被害者意識の強い、誤った階層帰属意識を人々(特に若者)にもたらしているような気がする。新年から悲観的すぎるだろうか。
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地方の自立とナショナリズム/近代国家への模索(川島真)

2011-01-01 23:28:08 | 読んだもの(書籍)
○川島真『近代国家への模索:1894-1925』(岩波新書:シリーズ中国近現代史2) 岩波書店 2010.12

 シリーズ第2巻は、日清戦争勃発の1894年から孫文死去の1925年までを扱う。ちょうど中間に、近代中国の起点とされる1911年(辛亥革命)が設定されている。私は、特に中国史の専門教育を受けた人間ではないが、日清戦争から辛亥革命までの前半は、筋書きも登場人物も、小説やドラマで「お馴染み」なので読みやすかった。

 ただ、やはり通俗ドラマの歴史理解とは、いろいろ異なる見解を教えられるところがあって興味深い。たとえば、日清戦争で日本海軍が優位に立った説明として「北洋艦隊の予算の大部分を西太后が頤和園の造営に充当したため」というのが人口に膾炙しているが、著者は「真偽のほどは不明」としている。また、日露戦争において、清はロシアの満州からの撤退を望んでいたため、日本に対して「友好的中立」の立場を取り(実質的には日本支援)、バルチック艦隊の航行状況が清の沿岸部の大官から日本領事に伝えられていたとか、地方大官から日本への献金が相次いだ(袁世凱からは銀2万両!)というのも初めて知る話だった。私は中国ドラマの影響もあって、袁世凱は悪者だと思ってきたが、本書を読むと、やっぱり激動の時代が求めた新しい人材だったということを強く感じた。

 ものごとの善悪は、なかなか単純には語れない。列強による瓜分の危機は、中国に近代国家としての一体感を目覚めさせるが、そのことが、清朝皇帝とはゆるやかな連帯の関係にあったモンゴル・チベット・新疆等への(漢人優位の)介入になったり、中央集権的な近代国家モデルを導入しようとした光緒新政は、かえって地域社会に混乱を招き、清の滅亡を早めたのではないか、という指摘にも考えさせられるものがあった。

 中央集権か地方分権かというのは、どうやら中国の近代化を通じて、ずっとつきまとう課題のようだ。特に本書が扱う時代は、「おわりに」で総括されているように「『地方』としての省が主導的な役割を果たした時代」であったと言える。これは、日本の近代史との決定的な違いではないかと思う。むかし、1つの国家の中に複数の政権があるという状況が、どうにも理解できなかったなあ…。彼ら地方政権は、中央政府に対して自立的であろうとするけれど、山東問題や21ヵ条要求などの外交問題についてナショナリストとして振る舞うことに「矛盾はない」ということが。これは、近代国家への過渡期の姿ということもできるが、ある種の「可能態」を示していると見ることもできるように思う。

 後半の辛亥革命以降は、清末以来の重要人物が次々に退場(死去)し、新旧交代を準備する幕間の時代。日本の書物ではあっさり扱われることが多いと思うが、本書は細かい内外の動きを追っていて面白かった。特に、中国政府がさまざまな国際会議において精力的な外交努力を重ねていたことがよく分かった。国際社会における地位の確保が、内政の安定と密接に結びついていたためだろう。

 認識を改めたことのひとつは、かつて近代と現代の分岐点とされた、1919年の五・四運動が「昨今ではそうした区分をすることは稀」と片付けられていたこと。あ、そうなんだ。それから、孫文は帝政ロシアを倒したソ連を高く評価しており、「国民党の形成過程におけるソ連のボルシェヴィズムの影響はきわめて大きい」という指摘も、ちょっと意外だった。いや、専門家には意外じゃないのかな。

 小さいが興味深い写真図版を多数掲載。中でも、梅谷庄吉(1868-1934)が撮影した辛亥革命のフィルム(記録映画)が残っているということに驚いた。
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