見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2011東京・師走の銀杏

2011-12-18 10:12:15 | なごみ写真帖
今年は落葉が遅い気がする。

先週末の都内某所(職場)


今週末の新宿駅近傍(自宅の近所)


寒さで身体も頭も働きが鈍っているのと、年内〆切の仕事に追い立てられているのとで、
記事更新がとどこおっているが、なんとか今日でケリをつけて、
来週末は、晴れ晴れと遊びにいくことが目標。

ということで、PCの画面を宿題に切り替える…。

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大河ドラマの作り方/謎とき平清盛(本郷和人)

2011-12-13 23:30:37 | 読んだもの(書籍)
○本郷和人『謎とき平清盛』(文春新書) 文藝春秋 2011.11

 テレビを見なくなった、と言いながら、逆に「これ」と思ったドラマは、狙って見るようになった。『坂の上の雲』の話題はもうしばらく封印して、とりあえず来年の大河ドラマ『平清盛』である。私は、記憶に残っている最も古い大河ドラマが1972年の『新・平家物語』で、あまり文学・歴史の話をしなかった理系の父親が、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり…」を解説してくれたことを覚えている。そのせいもあってか、長じても平家びいきなのだ。

 来年の大河に特徴的なのは、脚本家の肉声が少ないわりに、時代考証担当のお二人、高橋昌明氏と本郷和人氏の露出が多めなこと。本郷先生は、すでに『平清盛』公式サイトにもご登場済みで、その談話が面白かったので、著書を読んでみることにした。

 冒頭で、いきなり曰く、「大河ドラマ『平清盛』の時代考証その2、本郷と申します」。第1章と第2章は、このノリで、大河ドラマにおける時代考証の役割を考える。ドラマの本質はフィクションである。素晴らしいストーリーを立ち上げるには、多少の譲歩や改変はあってよい。しかし、歴史の捉え方の根本的な誤りには「職を賭して」異議を唱えなければならない、ということを、実例を挙げて解説する。こんな考証の下に、こんなシーンを撮っているのか!と放映が楽しみになるような裏話、多々あり。

 第3章以下が、著者の清盛論。ただし、個人としての清盛よりも、「平家とは何者か」「平家は武士か貴族か」「武士とは何か」というのが、本書の主たる関心である。最後の点を考えるには、当然「貴族とは何か」という問いにも答えなければならない。この時代、貴族の序列は、(1)上級貴族、(2)中級実務貴族、(3)院の近臣(受領層)、(4)中級貴族(諸大夫)、(5)下級官人(六位以下の地下人)で、世襲を原則とし、任官コース・出世速度に厳然とした区別があった。ところが、平家は、正盛・忠盛が(3)か(4)の任官コースであったのに対し、保元・平治の乱の後、清盛は破格の栄達を遂げる。それは、平家が公家とは異質なもの=「武家」と考えられたことを意味する、というのが、著者の見解である。

 平家が天下を掌握する直前、信西(藤原/高階通憲)は、公家・武家・寺家が王家(天皇・上皇)の下に集結する「権門体制」の完成を目指した。しかし、平治の乱以降、軍事力(武家)が権力の帰趨を左右するようになると、権門体制の崩壊が始まる。ついに清盛は、武士政権=「福原幕府」を樹立する。これを学んだのが、源頼朝の鎌倉幕府である。

 このように、本書を読んでも、吉川英治が描いた、日吉山王の神輿に矢を射るような、泥臭い清盛のイメージは立ち現れてこない。そのかわり、古代から中世へという長いパースペクティブの中で、清盛がキーパーソンであったことは理解できる。貴族の世から学ぶべきものを学び取った上で、治承3年(1139)のクーデタによって、後白河院政を停止し、武家政権という、全く新しい政治のかたちを生み出す。そのことの画期性に比べたら、源氏と平家の争いなんて、確かに、コップの中の嵐みたいなものかもしれない。

 ただし、著者の見解と「時代考証その1」高橋昌明先生の見解は、異なるところもあるそうだ。高橋先生は、平家=公家を持論とされているというし、平家幕府(武士政権)は「福原幕府」以前の「六波羅幕府」で既に成立していたと考えてもいる。あと、本書のメインテーマではないのだが、「招婿婚」について、高橋先生がこれを承認しているのに対し、著者が「高群(逸枝)氏が主張する史論は、理念が先行しすぎているのでは?」と疑問を呈しているのも面白いと思った。いわゆる女性史学って、もう少し検証が必要かもなあ。

 そして、こんなふうに見解の異なるおふたりが、時代考証その1、その2をつとめて、ドラマは大丈夫なのか?と思ったが、そこは大人だから、なんとかするのだろう。むしろ、複数の視点が組み合わさることで、ドラマに深みが出てくれたら、いうことなしなんだけど。
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NHK土曜ドラマスペシャル『真珠湾からの帰還』を見て

2011-12-11 22:01:22 | 見たもの(Webサイト・TV)
○NHK土曜ドラマスペシャル『真珠湾からの帰還~軍神と捕虜第一号~』(2011年12月10日)

 打ち明けて言ってしまうと、2010年の大河ドラマ『龍馬伝』で後藤様(象二郎)を演じた青木崇高氏が主演することを知って、じゃ、見てみるか、くらいに軽く考えていた。テレビを見る習慣がどんどんなくなっているので、気をつけていたつもりなのに、最初の10分は見逃してしまった。しかし、見始めたら一気に引き込まれて、1時間半があっという間。一昼夜たっても、まだ、感動と呼ぶのも軽すぎるような、片付かない気持ちが重たく残っている。

 ドラマは、1941(昭和16)年12月8日、5艇の特殊潜航艇「甲標的」に乗り込み、真珠湾攻撃に参加した10人のうち、ただひとり生き残って、米軍の捕虜となった酒巻和男少尉の実話に基づく。戦死した9人は「九軍神」と讃えられ、捕虜になった酒巻の存在は極秘とされた。私は全然知らなかったが、ネットで「九軍神」を検索すると、当時の写真や新聞紙面がけっこう見つかる(画像検索、すごい!)。

 酒巻氏には『捕虜第一號』(新潮社、1949)という著書もあるので、おおよそ事実に基づいているのかな、と思う。だが、ドラマは事実そのものではないだろうし、ある必要もない。こういう極限状況におかれた人間が、何を考え、どういう振舞いをするか、納得できる映像を作り出すのは、制作者と俳優の力量である。

 「死を覚悟することと、死を願うことは違う」とか「命の使い方が分からなければ、分かるまで生きればいい」とか、終盤にちょっとカッコいいセリフがあるにはあるが、全体としては、淡々とした進行で、そこがよかった。変な煽りがないかわりに、ずっと緊張の糸の途切れるところがなかった。主演の青木崇高は期待以上。視線ひとつに万感の思いを込めることのできる役者さんだと思う。あと、男泣きが似合うよなあ。大河ドラマでは、セリフが聴き取りにくい印象があったが、今回は問題なし。大河は、大声ばかり出させていた演出が悪かったのかもしれない。

 エンディングでは、今も真珠湾の水底に沈む「甲標的」の画像に「その戦果はなかったとされている」というスーパーが流れた(ただし異説もあり)。実在の酒巻氏は、終戦の年にはまだ27歳で、1999年、81歳までご存命だった。ドラマのエンディングに「トヨタ・ド・ブラジル社長に就任」と流れたので、戦後の日本に居場所を持てなかったのかな…と思ったりもしたが、最後は愛知県豊田市の自宅で亡くなられたそうだ。人間の生きる意味をいろいろ考えさせられるドラマだった。

 制作はNHK名古屋放送局。NHKの組織体制ってよく分かってないけど、地方局が、これだけクオリティの高いドラマを作れるって、いいことだな、と思った。
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手仕事の個性/朝鮮陶磁名品展(静嘉堂文庫)

2011-12-09 23:22:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館  静嘉堂の東洋陶磁 PartIII『朝鮮陶磁名品展-高麗茶碗、漆工芸品とともに-』(2011年10月1日~12月4日)

 これも最終日に駆け込み参観。公式ページはもう消えてしまったが、「仏教に信仰篤く貴族文化が花開いた高麗時代に誕生した高麗青磁、その技法を受け継いで誕生した粉青(三島手)のやきもの、朝鮮王朝の国家理念である儒教を象徴する白磁と青花(染付)磁器など」朝鮮陶磁の流れを優品でたどる展覧会である。静嘉堂の東洋陶磁といえば、最初に思い浮かぶのは、やっぱり中国(清朝)磁器で、第二に日本の茶陶。朝鮮陶磁を持っているという認識はあまりなかった。それもそのはず、「朝鮮陶磁コレクション展は、10年ぶりの公開」だという。なるほど、同館のサイトに、2001年夏、『朝鮮陶磁展-青磁・粉青・白磁・高麗茶碗-』が行われた記録がある。

 まず、会場入口に置かれた『青磁象嵌葡萄文瓢形水注』(高麗、12~13世紀)が、デカすぎて驚く。水を入れたら、片手で容易に持ち上げられそうにない。いや、そんなに重くはならないのかもしれないが、か弱い女性なら胸に抱きかかえたくなるような、たっぷりした量感がある。口のあたりが焼けたように白茶けて見えるのは、釉がかかっていないのだった。初見かと思ったら、私は、2006年、東京美術倶楽部の創立百周年記念展で見ていた。

 高麗青磁は、中国・越窯青磁の影響で成立し、その後も汝窯や耀州窯の影響を受けた。高麗青磁は釉層が薄いので、胎土の色が透けて、灰色、時にはピンクがかって見える。これを「翡色」と称したらしい。『青磁鉄絵牡丹唐草文梅瓶』は、私の好きな磁州窯に似ていたが、福建の泉州磁灶(じそう)窯や広東の広州西村窯など、華南からの影響を受けているという。やきものの世界は、まだまだ複雑で奥深い。

 高麗青磁が大小とりまぜて30余点。申し訳ないが、どれも整い過ぎて、ちょっと退屈な感じがした。いかにも三菱財閥のコレクションと言いますか…。朝鮮時代の粉青(素地に白化粧をして、灰青色の釉をかけたもの)も、はじめは同じ印象が続いた。どれも茶室の床の間には似合いそうだが、私の目は、つい「民藝」的な美を探してしまうのだ。いいな、と感じたのは、ほとんど無釉に見える『粉青象嵌魚文瓶』。あと『青花草虫文瓶』など、風船のようにまるまるした本体に細い首を取りつけた白磁の瓶。ちょうど三体並んでいて、その首の傾きが少しずつ異なるのが、手仕事らしくて、愛らしかった。

 『青花鹿文八角瓶』『鉄砂鶏文瓶』そして『飴釉面取瓶』の並びもよかった。よく似た形が並ぶと、中心線の歪みが分かってしまうのだが、それが却って個性を感じさせる。きちんと作った末の歪みであるところがいい。

 この展覧会は、完全に朝鮮陶磁だけだと思っていたので、展示目録を渡されて、はじめて「高麗茶碗、漆工芸品とともに」という副題があることを知った。その副題のとおり、展示の終盤には、螺鈿や鮫皮、華角張の箱が出ていた。特に大小の螺鈿箱は、いずれ劣らぬ名品。舌切り雀のお爺さんになったつもりで、持って帰るならどれ?と悩んでみた。

 茶碗はやっぱり井戸茶碗だな。「越後」は、そのへんに捨て置かれてもおかしくない、ふてぶてしい迫力を感じた。内箱蓋表の書付「越後殿」に依る命名だそうだが、なぜ「越後殿」と呼ばないのかな?と素朴な疑問。高台脇の「みごとな梅華皮(かいらぎ=鮫皮)」が見どころ。蟹が吹いた泡のような生々しさがあった。
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ヒーロー千変万化/愛染明王 愛と怒りのほとけ(金沢文庫)

2011-12-08 21:30:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展 興正菩薩叡尊鎌倉下向750周年記念I『愛染明王 愛と怒りのほとけ』(2011年10月15日~12月4日)

 最後の週末に駆け込みで参観。愛染明王の仏像・仏画の名品を紹介する展覧会。仏画が10幅程度あり、彫像は数体だった。チラシになっている個人蔵・鎌倉時代の愛染明王像が、屈指の優品だと思うのだが、残念ながら、これは前期のみで見ることが叶わず、会場に掲げられたポスターを未練がましく眺めてしまった。背景のチョコレート色と、茶ばんだ赤の調和的な色彩。明王の肉体を飾り、豊かにこぼれおちる宝珠を受けて、大きく花弁を開いた蓮華座。黒釉掻落みたいな精緻な龍文の壺。すごいなあ、これ。パワーと叡知を備えた華麗なヒーローを描きたいと思った絵師の気持ちが、時代を超えて伝わる。

 実見できた作品の中では、奈良博の『両頭愛染曼荼羅』(不動明王と愛染明王の一身両頭図)が印象的だった。台座の下にいる、大きな三鈷杵を口いっぱいに咥えた獅子がかわいい。なんだ、これは!的な驚きを感じたのは、『愛染田夫本尊』と題された、江戸時代の2幅の絵画(奈良・西大寺蔵)。どちらも蓮華座の上に吽字形に身体をひねった蛇が描かれている(片方は、さらに曲芸のように三鈷杵の上に乗っている)。あやしすぎる。

 小さな『愛染明王懸仏』(鎌倉時代、個人蔵)は、新宮市・熊野速玉大社の摂社、神倉神社で出土したもの。稚拙な表現だが、眉根を寄せ、大きく開いた口は怒りの獅子吼、ビリケンさんみたいな三角頭は怒髪天を衝く表現なのだろう。そのギャップがほのぼのして愛らしい。称名寺伝来の『愛染明王坐像』(鎌倉時代)は30数個のパーツでできているそうで、その工芸的な精巧さに感心する。

 金沢文庫の文書資料(称名寺聖教)から、愛染明王に関する修法のあれこれを紹介しているのも面白かった。降伏法では、怨敵が自筆で姓名を書いたものを愛染明王の頭頂の獅子の口に置くのが「下品」の法、本尊の口に置くのが「中品」の法、行者(修法者?)の口に置くのが最上の秘法だとか。覚えておこう…役には立たないだろうけど。
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中心はいらない/新しい世界史へ(羽田正)

2011-12-07 20:52:46 | 読んだもの(書籍)
○羽田正『新しい世界史へ:地球市民のための構想』(岩波新書) 岩波書店 2011.11

 著者が信頼のおける歴史学者であることは百も承知だが、本書のタイトルには少し引いてしまった。理念だけ先走ったトンデモ本だったらどうしよう、と思って、読み始めるのをためらっていた。

 そんなとき、東大本郷キャンパスで行われた『デジタル化時代における知識基盤の構築と人文学の役割-デジタル・ヒューマニティーズを手がかりとして-』というシンポジウム(11月29日)を聞きに行き、結局、長尾真氏(国立国会図書館長)の講演「国会図書館のデジタル・アーカイブへの取り組みと人文学への期待」しか聞けなかったのだが、図書館・ミュージアム・アーカイブズ等が、横断的なデジタル・アーカイブを形成することによって、全く新しい人文学の誕生が期待できること、羽田正氏が提唱する「新しい世界史」なども、そのひとつと言えるかもしれない、みたいな言及を、ちらっと長尾館長がなさったのである。そうか、そこにつながるのなら読んでみよう、と腹が決まった。

 本書の構成はきわめて明快である。はじめに、私たち(日本人)が知っている「世界史」がどのように形成されてきたかを、帝国大学における「日本史」「東洋史」「西洋史」三講座の鼎立や、学習指導要領の変遷に従って述べる。現代人に必要な「新しい世界史」は、グローバル化した世界で起きる様々な出来事を理解し、地球市民として問題に取り組むための教養でなければならない。そう考えたとき、現行の世界史は、以下の点で時代に合わなくなっている。
 
(1)日本人の認識に基づく世界史である。→世界の人々と共通認識を形成できない。
(2)自と他の区別や違いを強調する性格を持つ。→世界の諸地域の問題を「彼らの」ではなく「自分たちの」問題として捉える姿勢が弱い。
(3)ヨーロッパ中心史観から自由でない。→地理的なヨーロッパと、概念的な「ヨーロッパ」が区別されずに用いられている。概念的な「ヨーロッパ」は、進歩、民主主義、科学などあらゆる正の価値を付与され、その対抗概念として「オリエント」や「アジア」が想定されており、自他の区別と「ヨーロッパ」の優位を主張する点で、第二の問題点を含有する。

 そこで、新しい世界史をめざす試みは、「中心性の排除」と「関係性の発見」という二つの着眼点が重要になる。前者の最大の課題は、ヨーロッパ中心史観からの脱却である。しかし、ヨーロッパ中心史観を解体しようとして、別の中心(イスラームとか中国とか)を持ち込むのでは、もとも子もない。また中心を相対化するために周縁に視点を据えようとして「逆に周縁を中心とする世界史を構想してしまう」ことも避けるべきである(そうそう! よくぞ言ってくれた)。ジェンダーやサバルタンについても同様のことが言える。女性史という研究分野は存在してよいが、女性だけに焦点を絞って世界史を語ろうとすれば、それは逆の意味での中心史観になりかねない(同意。羽田先生、周到でバランスがいいな~)。

 後者では、具体的なモノ(原料・産品)の生産・流通に着目した世界史や、海域世界史が、一定の成果をあげている。しかし、研究者に、つねに開かれた空間を描く構想力がなければ、従来の世界史認識にとどまってしまうことは、前者と同断である。著者は、「現行の世界史は、政治的、経済的、文化的を問わず、世界のどこかに中心を置いてストーリーを語ろうとする傾向がある」と述べているけれど、「中心」への依存って、現代人の宿痾みたいなものかな…。伝統的な道徳律とか信仰みたいな内面化された規範がないから、外に「中心」を必要とするのかもしれない。

 最後は、著者自身が書こうとしている、新しい世界史の構想ノート。(1)ある時期の世界の人間集団を横に並べて見取り図を描く。(2)いくつかの時代について作られた見取り図を現代世界と比較する。時系列にはこだわらない。(3)モノや情報を通じた横のつながり(影響関係)を意識する。素人の感想を言えば、私はこういう世界史に、とても親近感を抱く。私が学校教育で習った世界史は、当然ながら時系列史だった。しかし、ひとたび学校を出てしまうと、小説やテレビドラマ、あるいは展覧会などを契機に、意外なモノや人物が同時代の地球上に存在していたこと、相互に影響を与えていたことが分かって、わくわくすることは少なくない。

 終章の、世界史をジクソーパズルにたとえた比喩は感銘深かった。「イスラーム世界」というひとつのピースの色やデザインをいくら論じても、「世界史」という全体の図柄の中にそのピースを置いた途端に「人々のイスラーム理解は、もとに戻ってしまう」。ああ、こういうことってあるな、と思った。だから、全体のデザインを根本的に変えなければいけないのだ。長尾真先生のいう「デジタル化時代における知識基盤」の構築も、単なる効率化や量的拡大ではなく、人文社会科学知の刷新を支えるものでありたい、あってほしい、と思った。

 著者は冒頭で「歴史学に元気がない」と書いているけれど、本書を読む限り、そんなことはない。法人化やら少子化やら、日本の高等教育(特に人文科学)をめぐって、最近、景気のいい話を聞いたことはないけれど、にもかかわらず、日本の大学、人文科学は十分に「熱い」と思った。

 なお、本書だけでは、叙述が観念的で理解しにくいと感じる向きには、同じ著者の『東インド会社とアジアの海』(講談社、2007.12)の一読を勧めたい。本書を読みながら、4年前の、手に汗握るようなスリリングな感動が随所でよみがえり、ヨーロッパ中心主義から自由になるって、つまりあの解放感のことか、と思った。『イスラーム世界の創造』(東大出版会、2005)は、学術書だし、私の苦手分野だから…と思って敬遠していたが、あらためて読んでみようかと考えている。
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清末の実務官僚/李鴻章(岡本隆司)

2011-12-05 01:49:54 | 読んだもの(書籍)
○岡本隆司『李鴻章:東アジアの近代』(岩波新書) 岩波書店 2011.11

 岩波新書の新刊棚に「李鴻章」の文字を見つけた時は、嬉しいのと驚いたのと(あり得ない!)で、声を上げそうになった。著者は言う、日本人の中国認識はかなり偏っている。諸葛孔明は知っていても、李鴻章を知らない現代日本人は少なくあるまい、と。全くそのとおりだと思うが、私は、かなり異例な現代日本人で、年来の李鴻章ファンなのだ。何しろ、今夏の中国旅行では、李鴻章の墓苑を訪ねようとしたくらいである。

 本書の叙述に従い、年譜ふうに紹介すると、李鴻章(1823-1901)は、清朝末の軍人政治家。安徽省出身。郷試合格後、23歳のとき、湖南省出身の曽国藩(李鴻章の父と進士合格の同期だった)に師事する。ある意味、この縁が李鴻章の生涯の半ばを決めてしまった、というのは、本当にそうだな、と思った。曽国藩の幕僚となって、太平天国、ついで捻軍の平定に功をあげる。この間、曽国藩の湘軍に倣って淮軍を組織する。

 曽国藩の湘軍が、太平天国との死闘によって精鋭を失い、末期には極度の財政難に陥って、解散を余儀なくされたのに対し、富裕な江南デルタを戦場とし、ドル箱・上海を掌中にした李鴻章は次第に主役の座にのぼっていく。1870年の天津教案(外国人襲撃事件)の処理を、曽国藩から引き継いだことが、その転機となる。

 以後の李鴻章は、子飼いの軍事力(淮軍、北洋艦隊)を背景に、次々清朝にふりかかる外交的な難題を、獅子奮迅の働きで捌いていく。清朝宮廷は、公式には総理衙門という機関を設けて外政に当たらせようとしたが、端的に言ってしまえば「財力」も「兵力」も持たない総理衙門では、責任ある回答をすることができず、結局、諸外国は李鴻章となら交渉ができることを見抜き、彼を「事実上の外務大臣たらしめた」って、面白いなあ、この表現。

 1873年、日清修好条規の締結。台湾、琉球問題。朝鮮半島の動乱と天津協約。西北のムスリム反乱をめぐる「海防」「塞防」論。ベトナムと清仏戦争。そのいずれにも、李鴻章は関わっている。とりわけ、東アジアの近代は、李鴻章がこだわった「邦土=邦(朝鮮・琉球などの属国)+土(中国各省)」体制が実質的に崩壊し、新たな体制に組みかえられていく過程に他ならない。最後の旧体制人・李鴻章の言葉を注意深く聞くことによって、「属国」とは何であったかを知ることができる。

 著者は、最後に曽国藩の評を引いて、李鴻章は、官僚として仕事することが面白くて「命がけで」官僚をつとめた人物である、と述べている。「官僚として」というのは、高邁な理想やイデオロギーとは縁が薄く、せいぜい一歩先か半歩先を見越して動いていたということだと思う。だから、孫文や梁啓超のように、後世に思想的な影響を与えることもなく、歴史家に取り上げられることも少ないのだろう。けれども、凡百の官僚と比べれば、その「一歩先」は十分に過激思想だった。科挙の中に「洋務」コースを作るとか、各省に「洋学局」を設けるとか、後世から見れば微温的すぎる建議も、伝統世界を一歩も出ない士大夫たちから激烈な非難を浴びたという。そりゃあ「くさる」よなあ…。

 西北地域の経営について、乾隆帝の新疆平定以来、多額の労力と金銭を費やしながら何の利もあげてこなかったことを指摘し、反乱政権を承認して朝貢させようとしたこと、これはかなり革新的なシフトチェンジだったと思うが、実現はしなかった。また、日本が、中国の脅威となり得ることを早くから認識し、「(日本を)西洋人に『外府』として利用させてはならない」と語っている。これらは「一歩先」のように見えて、結果的に、21世紀の今日まで積み残された問題である。後者の指摘なんて、思わず「西洋人」に「アメリカ」を代入して読んでしまった。

 1895年の下関条約、1901年の辛丑条約(北京議定書)の調印。わが李鴻章は(著者にならってこう呼ぼう)最後まで自分のツケは自分で払った。それが大政治家の自負というものかもしれない。

 およそ文学的な要素がない、という李鴻章の生涯だが、私は本書から2つの印象的なエピソードを知った。ひとつは佐藤春夫に「李鴻章」と題した小説があること。堀口大学の父である若き外交官・堀口九萬一の眼に映った李鴻章を描いたものだという。詳しい内容は紹介されていないが、「なるほど、李鴻章の人あしらいというのは、こういうものなのか」という著者の感想が気になる。読んでみたい。

 それから、以下は李鴻章76歳の挿話。進士同期合格の知人に「翰林院に入って宰相の肩書もありながら、文事にたずさわる役職につけない」ことを揶揄され、激怒して杖で殴りかかったという。富貴・権勢を極め、「事実上の外務大臣」であった李鴻章だが、公式には一地方官に過ぎなかった。そのコンプレックスは、生涯、彼についてまわった。自負とともに悔いの残る人生。こういう成功者らしからぬところが好きなんだな、私は。

※李鴻章の郷里訪問の顛末は、こちら
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クリスマスリース2011

2011-12-03 21:13:30 | なごみ写真帖
今年も、いつもの花屋さんで購入。



昨年(2010年)のリース

私が、いわゆるクリスマスカラー(赤と緑)のリースを避けているわけではなくて、この花屋さん自体が、あまりそういうリースを店頭に置かないのである。今年、気づいた。

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「適応」の通過儀礼/就職とは何か(森岡孝二)

2011-12-03 00:26:46 | 読んだもの(書籍)
○森岡孝二『就職とは何か:〈まともな働き方〉の条件』(岩波新書) 岩波書店 2011.11

 自分の半生を振り返って、個人的・世代的な運不運を評価できる年齢になってきたが、バブル真っ只中に就職(転職)できたことは、幸運だった。いまの学生が〈まともな〉しごとを得るために費やしている時間とエネルギー、特に精神的な重圧の大きさを見ていると、とても私には耐えらなかっただろうと思う。

 本書は、経済学(労働時間論)を専門とし、私立大学の教員である著者が、学生の就職活動や雇用の実態を、調査研究と観察の両面から論じ、まともな賃金、まともな労働時間、まともな雇用、まともな社会保障を実現するための改善方策を示したものである。

 まず、最近の就活スケジュールが具体的にどうなっているかを初めて知って、本当に「うつ」になりそうだった。本書には、さまさまな国際比較データが掲載されており、9割近くが「卒業前」に就職活動を開始する日本の慣行は、決してスタンダードではないことが分かる。ヨーロッパ諸国(11カ国)の平均は4割弱で、「卒業頃」+「卒業後」の合計のほうが多い(51頁)。それから、OECD加盟国の中で、2000年の年間賃金を100としたときの物価調整をしない名目賃金の推移が、長期的に低下しているのは日本だけというグラフにも暗澹たる気持ちになった(89頁)。男性正規の時給を100としたときの、女性正規、男性パート、女性パートの時給は、それぞれ、67.0、44.0、39.9で、フルタイム/パートタイムの時給格差が大きいのも日本の特徴だという(98頁)。

 さらに、統計には表れにくい、さまざまな「からくり」。一見、好条件に見える初任給が、殺人的な時間外労働を前提とした金額であったり、大手企業が、労働組合や過半数代表者と結んでいる三六協定(142頁、2008年10月)のムゴさ。1日15時間延長可能って、つまり24時間働かせてもいいということか…。これでは労働法規なんて、あってないようなものではないか。

 それでも職を得たいと思う若者は、企業文化への「適応」を余儀なくされる。本書に紹介されている『社会人基礎力養成講座』(同講座事務局編↓下段)という新書の中味を読んで、のけぞってしまった。残業で午後11時帰宅となったとしても、上司に「明日までに企画を10個出しなさい」と命じられたら、「なんとか頑張って、10個の企画を考えようと思う」は不正解で、「ここはやる気を見せるチャンス! 最低20個を目標にできるだけ多く考える」が正解。しかもこれが(冗談でなく)「主体性」の問題だという。えええ~、それは組織文化への「従属性」だろ、主体的な判断ができるなら、自分の健康をおもんばかって、さっさと寝ろよ、と私は思う。

 「社会人基礎力」は経済産業省が言い出した言葉だが、文科省が推進する「キャリア教育」も『小学校キャリア教育の手引き』『中学校キャリア教育の手引き』によれば、「適応」がキーワードになっている。本田由紀氏は、学校教育が職業生活においてもつ意味を「適応」と「抵抗」に分けて論じているが(そうでしたね→著書)、後者の側面は、すっぽり抜け落ちているようだ。

 それなら、自分の身は自分で守るしかない。著者は、これから社会に出る学生に対し、労働知識の大切さを説き、加えて「大学までに身につけた常識を失わないでもらいたい」と説く。一昔前なら「常識」は、実社会の側にあったが、いまはそうと言えないらしい。

 そして、社会全体が〈まともな働き方=ディーセント・ワーク decent work〉(いい訳だな)を実現するために、最も実効性のある解決策は、ワーク・シェアリングであると提言する。確かに、○○分野の新規雇用創出とか言っているよりは、まだしも実現可能性は高いと思うのだが、経済界が動かないのは何故なんだろう。結果を度外視して「頑張る」ことを美徳や誇りとする伝統的な倫理意識が、邪魔をしているんじゃないかと思ったりする。

※トンデモ本?

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「進歩的」という偶像/革新幻想の戦後史(竹内洋)

2011-12-01 00:54:48 | 読んだもの(書籍)
○竹内洋『革新幻想の戦後史』 中央公論社 2011.10

 著者は1942年生まれ。佐渡島で育ち、1961年に京都大学に入学。短いサラリーマン生活を経て大学院に進学し、学園紛争このかたの大学キャンパスと知識人の風景をずっと見てきた。それゆえ、「自分史としての戦後史」を、忘れられかけた「革新幻想」の猛威(インフルエンザみたい)を解き口に描いたのが本書である。

 第1章は、佐渡島出身の二人の政治家、有田八郎(1884-1965)と北吉(れいきち、1885-1961)を論じる。戦後、再軍備反対・憲法擁護を唱えた有田は「悔恨共同体」を代表し、再軍備賛成の北は「無念共同体」の代表と言える。講和条約の調印(1951年9月)直後の世論は、再軍備賛成のほうが多かった。ところが、1955年体制以後、第三の感情がせり出してくる。生活が豊かになれば、それでいいではないか、という「花(理念)より団子(実益)」感情である。「理念と方便の区別がつかない曖昧な戦後日本」が始まる直前に現役を退いた二人の政治家が、そっと追憶されている。

 第2章は、1946年創刊の雑誌『世界』について。「悔恨共同体」を代表するメディアとして圧倒的な人気で迎えられたが、オールドリベラリストの関与で、一時、編集方針が不鮮明になる。編集長・吉野源三郎は、平和問題談話会を立ち上げ、日教組に食い込むことによって、購読数の倍増に成功する。面白いのは、日教組の平和運動への熱狂が、冷やかな目で描かれていること。「『平和教育』は『修身』や『教育勅語』『軍国主義教育』の罪を贖いながら、結果としてそれら戦前教育のシンボルの機能的等価物となった」。使命感を掻き立てるものなら何でもいいんだよなあ、教育者って。

 第3章は、日教組と密接な関係を持つ「進歩的教育学者」(以下、本書では独特の用法で使われる)の牙城であった東大教育学部について。お家騒動記のような生々しさ。大学って、つくづく前近代的な組織だと呆れながら読んだ。しかし、その中にあって、独自路線を取る教育社会学講座が発生し、進歩的教育学者に憎まれながら、潮木守一さんみたいな実証的で堅実な学者を輩出する。このダイナミズムも、優秀な頭脳、強靭な個性の集まる大学という組織の面白いところ。

 第4章、1953年の旭丘中学校(京都)事件。共産党の政治理念に偏向した教育が行われているとのクレームが保護者から申し立てられ、教育委員会が3人の教諭に異動を勧告する。しかし教諭らが転任を拒否したことから紛糾し、一時は、教員らの自主管理授業と教委の補習学校に、生徒が分裂する騒ぎとなる。ここでも著者は「民主主義を担う子ども」像が、戦中期の「少国民」像の反復であることに注意を促している。

 第5章、福田恆存が『中央公論』1954年12月号に発表した論文「平和論の進め方についての疑問」は、「進歩的文化人」が蔑称や揶揄の対象になり始めるきっかけを作った。当初は猛反発の嵐で、保守反動と目された福田は、論壇から村八分にされたと語っている。でも、私は福田を読んでみたくなった。本章に紹介されている戯曲「解ってたまるか!」は、ものすごく面白そうだ。

 第6章、小田実とべ平連。前章の最後に「進歩的文化人に引導を渡したのは、保守派からの進歩的文化人攻撃というよりも、進歩的文化人の鬼子であるノンセクト・ラジカルであった」という結論が示されてあり、本章はこれを補完する。サルトルの来日、三島由紀夫の自刃、全共闘運動の沸騰などが、慌ただしく回顧される。

 第7章、著者は1960年代半ばに生命保険会社に就職する。そこで見たものは、アジビラ的なホワイトカラー疎外論とは全く異なる現実のサラリーマンの猛烈な仕事ぶり、近代経営学に基づく企画室や社長室の設立ブーム、複雑な専門知識を駆使できる「実務型知識人」のプレゼンスなど、「新しい知」の時代への地殻変動だった。しかし、2年ほどのサラリーマン生活を経て、大学院に戻ってみると、キャンパスには「わたしが会社で感じたような知の変容を感知するところはほとんどなかった」という。ここは、ひたすら苦笑。1960年代に実社会で起きていた知の変動が、半世紀遅れて、ようやく大学キャンパスに到達したのが、昨今の状況かもしれない。

 第8章(終章)、石坂洋次郎。石坂作品が持つ、明るくスマートなモダニズムは、戦後世代の憧れを掻き立てた。そして、進歩的知識人の「革新幻想」は、大衆モダニズムの下支えによって成立していた。

 著者は終章に「戦後日本の(見えない)宗教戦争」を図示する。近代主義という「市民宗教」は、罪悪・悔恨共同体、社会党、日教組に連結し、日本主義という「庶民宗教」は、無念・復興共同体、自民党、文部省に連結する。市民宗教は、戦後民主主義の公式カリキュラム(タテマエ)だったが、背後には、伝統主義という非公式カリキュラム(本音)が随伴していた。

 ところが、庶民宗教としての日本文化を全く内面化していない日本人が登場する。1960年代以後に生まれた「新人類」がそれである。…って、私はその世代なのだが、竹内先生から見ると、われわれは「脱」日本人世代ないのかー。不満だが、否定できない感じもする。そして、庶民宗教という対抗軸が無くなってしまえば、市民宗教としての大衆モダニズムも、ただの大衆エゴイズムに堕落し、社会全体が「幻像としての大衆」に操られる状態が続いている。2009年の政権交代も、先日の大阪ダブル選挙も、そんな気配が濃厚だった。「劣化する大衆社会」の抜け道はどこにあるのだろう。
コメント
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