見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

小さないれもの/香合百花繚乱(根津美術館)

2018-03-19 22:55:17 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 企画展『香合百花繚乱』(2018年2月22日~3月31日)

 ずいぶん昔、根津美術館では「茶入れ」の展覧会を見たことがある。よその美術館では「茶釜」とか「茶杓」の展覧会もあったが、「香合」をこれだけ(約170点)集めた展覧会は記憶にない。体系的に整理されているので、いろいろと勉強になった。

 「香合」は「香」を入れる蓋付きの容器で、茶の湯の道具のひとつである。冒頭には、直径40センチくらいある円形の『堆黒屈輪文香合』が展示されていた。大きすぎて、旅館のおひつか湯呑入れみたいだ。こうした「大香合」は、大香炉と組み合わせて、仏教儀礼で用いられた。一般の香合はてのひらに乗るくらいのサイズである。初期の香合は堆朱や堆黒の唐物漆器が多い。平たいコンパクト型、中央が膨らんだマカロン型、立方体もある。明清時代の『宝珠香合』(素材:牙)は、クルミのようなかたちで、表面は氷裂文のようだった。

 やがて、黄瀬戸や志野、織部、信楽など国産のやきものの香合がつくられるようになった。『黄瀬戸宝珠香合』は、白い薄皮に抹茶を散らした饅頭みたいでかわいい。寛永年間には、中国のやきもの(古染付)の香合が現れた。中国の薬容器を転用したものもあれば、日本の茶人の求めに応じて焼かれたものもあるそうだ。また、日本産や蒔絵や中国産の螺鈿の香合も用いられた。本展覧会に限ってかもしれないが、中国産の香合は、虫や動物のデザインが多いように感じた。『螺鈿虫文』(コオロギ?)とか『螺鈿蟷螂文』(カマキリ)とか。『古染付犬荘子香合』はナメクジみたいな姿態の犬が蓋の上に載っている。

 中国産のやきものの香合は、祥瑞、呉州赤絵、交趾など、多様な展開を見せる。少数だが青磁の香合もある。日本産では鎌倉彫も忘れてはならない。やきものは京焼、楽焼など。近代の茶人は、鑑賞陶磁器として「発見」された唐三彩や、砂張の容器も香合として用いた。仁清の『色絵ぶりぶり香合』は私の大好きな品。内側のブルーが美しい。『交趾大亀香合』は×印の口を持つ亀がかわいかった。

 興味深かったのは、香木と練香の各種材料をが参考展示されていたこと。麝香は毛皮を丸めたボールのようなかたちで、ほかに丁子やウコンなどがあった。薫陸(くんろく)というのは乳香なのか。展示ケースには「協力 麻布香雅堂」のキャプションあり。全て見るだけで、香をかがせてもらえなかったのは残念だった。

 私はお茶を全くやらないので、パネルの説明を読んで、茶の湯では炭と灰の中でお香を焚くということを、恥ずかしながら初めて知った。そうかー。ただ部屋の中に置いておくものだとずっと思っていた。そして11月-4月の炉の季節には練香を使い、やきものの香合を使うこと、5月-10月の風炉の季節には香木を使い、漆器など木製の香合を使うことも初めて理解した。そうすると、当然やきものの香合には、正月や早春の意匠が多くなるだろうな。「ぶりぶり」もそのひとつか。

 展示室2の「釜-茶席の主の姿-」は企画展と合わせて楽しめるテーマ。20点余りの釜を見ることができる。私は口が小さく、やや平たい肉まんみたいなかたちの釜が好き。展示では「天明釜」と呼ばれるものがそうかなと思ったが、天明は栃木県佐野市の地名に由来し、一定の形態を指すものではないらしい。しかし、縦に長い筒形とか六角形とか、造形が自由なことに驚いた。茶の湯って面白い。

 1階が主に工芸なので、3階・展示室5は「歌詠みの書」と題して、中世から近世の懐紙や短冊を展示。展示室6は「花月の茶」で、床の間には柴田是真の『雛図』が掛かっている。
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東夷の小帝国/戦争の日本古代史(倉本一宏)

2018-03-18 23:52:04 | 読んだもの(書籍)
〇倉本一宏『戦争の日本古代史:好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書) 講談社 2017.5

 近代日本は間断なく戦争をしてきたが、「明治維新」以前の日本は、ほとんど対外戦争の経験がない。古代の日本(および倭国)が海外で実際に戦争を行ったのは、4世紀末から5世紀初頭にかけての対高句麗戦と、7世紀後半の白村江の戦いの2回しかない。その後は16世紀末の秀吉の半島侵攻のみである。ただし、秀吉の「唐入り」も近代日本のアジア侵略も、実は古代の「対朝鮮観」を淵源としていることが、本書では徐々に明らかにされる。

 はじめに4~5世紀の高句麗好太王との戦い。朝鮮半島では最初に高句麗が政治的成長を遂げ、次に百済が馬韓(半島西部)を統一する。続いて辰韓(半島南東部)に興った新羅は、高句麗に従属せざるを得なかった。弁韓(半島南部)は統一されないまま小国が乱立しており、倭国の対半島交渉の中継点もここにあった。さて高句麗と抗争を続ける百済は、倭国に軍事援助を求めてきた。このとき倭国に贈られたのが、石上神宮に伝わる七支刀である。本格的に国家間の外交というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに乗って無謀な戦争に踏み込み、大敗を喫した、というのが著者の評価である。

 この結果、実際に戦った高句麗よりも去就に定まらなかった新羅に対して強い敵国意識を抱くようになり、それは8世紀に編纂された『日本書紀』にも反映されているという。これは『日本書記』の記述を読む上で重要な指摘だと思うのだが、4~5世紀の高句麗との戦いって、教科書でどのくらい教えられているのだろう?(むかしの話だが、私は習った記憶がない)

 5世紀は倭の五王の時代である。五人の王は、中国の南朝に朝貢を行い、朝鮮半島南部における軍事指揮権(六国諸軍事)を認められた。中国(宋)にとっては遥か遠方の小国の求めであるし、百済に対する軍事指揮権は最後まで認められなかったが、7世紀後半に百済が滅亡し、新羅が朝鮮半島を統一したことで、後世の日本が朝鮮半島全体に支配権を主張する根拠につながった。

 7世紀の東アジアは激動の時代で、中国では隋に代わって唐が全土を統一した。新羅は、百済・高句麗による侵攻に対抗して、唐に保護を求める。これに対して倭国では「新羅を懲らしめる」云々という議論がされていた(日本書記)というから、外交感覚の鈍さは国柄なんだと思う。そして百済から救援要請が届くと、白村江に出兵するが、唐の水軍の餌食になってしまう。著者の描写では、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃をくりかえす」という、日本の対外戦争の典型的な悪癖が展開されている。しかし、中大兄と鎌足が戦争に踏み切った真の理由は、対外的な危機感を煽ることで、中央集権的な軍事国家をつくることだったという推測は面白い。もっと端的に、既得権層である豪族の力を削ぐこと(裁兵)だったというのも面白い。

 8世紀には渤海と連携した藤原仲麻呂が新羅征討計画を表明するが、仲麻呂の失墜(恵美押勝の乱)によって中止となる。以後、新羅との交渉は交易が中心となるが、新羅を一方では朝貢国と、また一方では敵国と認識する伝統は後世に受け継がれる。9~10世紀には、しばしば新羅の入寇が起こり、11世紀には刀伊(女真族)の入寇があった。このときは大宰権帥が藤原隆家でほんとによかったと思う。京の貴族たちは高麗の関与を疑い、「新羅は元敵国である」「高麗は神功皇后が自ら征伐した国であり、その復讐をしたいと思っている」等々の文言を残している。

 以上、日本古代における対外戦争と、外国勢力の侵攻に対する対応を解説したあと、短い最終章は、その後の「戦争の日本史」に触れる。13世紀の蒙古襲来と撃退の成功は、寺社勢力の宣伝によって「神風」思想を人々に蔓延させた。そして異国に対する屈折した心理は、モンゴルそのものよりも日本侵攻の尖兵となった高麗に対して強く及んだ。恐ろしいものを表す民俗語彙に「ムクリコクリ(蒙古・高麗)」というのがあるのか。知らなかった。

 16世紀には秀吉の朝鮮侵攻があった。この事件の余波は、いろいろな側面から語ることができるが、近代の挑戦植民地化と大陸侵略に重大な影響を与えたことは看過できないと思う。寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ」なんていう歌を詠んでいるのか。醜悪である。前近代のアジアには、基本的に対等な外交関係が存在せず、どちらが上位の国家であるかをせめぎ合ってきたことは分かる。しかし、前近代の認識を近代に持ち込むことは、もうやめにしたい。
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万博のコレクターたち/太陽の塔からみんぱくへ(国立民族学博物館)

2018-03-15 23:37:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立民族学博物館 開館40周年記念特別展『太陽の塔からみんぱくへ-70年万博収集資料』(2018年3月8日~5月29日)

 国立民族学博物館は、1974年に創設され、1977年11月に開館した施設であるが、開館に先立ち、1970年の大阪万博のために「日本万国博覧会世界民族資料調査収集団」(EEM:Expo'70 Ethnological Mission)が1968年から1969年にかけて収集した世界の民族資料約2,500点を所蔵している。本展は、EEMが収集した民族資料約250点と、関連する書簡や写真を展示し、収集活動の様子と当時の世界を描き出すものである。

 はじめにEEMが活動した1960年代が、どんな時代だったかを振り返る。米ソ両国の軍拡競争、ベトナム戦争と反対運動、先進国の急速な経済成長、公害と環境問題など、昨年の国立歴史民俗博物館の企画展示『「1968年」無数の問いの噴出の時代』と重なる部分もありつつ、無数の問いの行きついた先は「経済性が最優先される社会」だったことを確認する。その中で、東大文化人類学研究室の大学院自治会の手紙に目が留まった。「現在の社会にい来る以上は「きれいな金」などはあありえないでしょう。問題なのは、むしろ研究成果の政治による利用のされ方なのです」と訴え、万博協力に懸念を表明する。女性のようなきれいな筆跡だった。

 展示は、日本、韓国・台湾、東南アジア、インド・中近東、西アフリカ、東アフリカ、ヨーロッパ、中南米、北米、オセアニアの順で、迷路のように展開する。展示資料自体は、同館の常設展示に比べて特に目新しいものではなかったが、研究者の名前や収集活動のエピソードを知ることで、新鮮な印象を持った。

 日本は、農業史上空前の大変化が進行する中で、多くの伝統的な農器具や稲作信仰にかかわる資料が収集されている。収集者の中に坪井洋文の名前があった。韓国は伝統的な仮面劇の仮面が多数。地域ごとに特色がある。台湾は道教の神像や操り人形が展示されていた。布袋戯に関連して「霹靂(ピリ)」の説明もあり。

 東南アジアは京都新聞の記者であった高橋徹が担当した。高橋が日本の事務局や家族に宛てた手紙が非常に面白いということで、会場にはその一部がパネルで紹介されていた。クアラルンプールの寺院で「EXPOで使うのなら、本尊以外何でも分けてやる」と言われたとか、プノンペンで住民のむかしながらの民具を収集するのは「祇園の舞子のキモノ、ハキモノを集めるようなもの」と反省したり、確かに興味深い。アフリカでは片寄俊秀が、ブワナ・トシ(とし旦那)と呼ばれて住民たちの歌にまでなってしまった。タンザニアのマコンデ彫刻は衝撃だった。黒っぽい木を用いた大胆な造形で、彩色は施さない。水木しげるか諸星大二郎の作品に出てきそうな、摩訶不思議な彫刻が並んでいた。

 北米のセクションには、先住民ホピのカチーナ神像があった。壁に「ホピ以外の人々によるカチーナ人形の真似、類似品制作、販売は文化や信教の冒涜とみなされます」という注意書きが掲げられていて、日本のお寺さんの商売気はどうなんだろう、とちょっと思った。またオセアニアの現・バヌアツ共和国で収集された祖先像は「太陽の塔」に少し似ており、岡本太郎氏は「太平洋ではむかしから岡本太郎の真似をしていたんだな」と語ったそうである。

 2階の会場では、「仮面」「彫像」などの形態別に各国各地域の資料をまとめて展示しており、楽しい。日本の仮面も、アジアやアフリカの仮面の中にあって、意外なくらい違和感がない。最後に大きな写真バナーがあって、1970年の大阪万博において「太陽の塔」の地下展示場に、EEMが収集した民族資料が展示されていたことを知った。私は小学生で、「太陽の塔」に入館しているはずなのだが、長いエスカレーターを昇っていく(下りていく?)地上部の「生命の進化の歴史」はかすかに覚えているのに、地下の展示は全く覚えていない。興味がなかったのかなあ。

 本館の常設展示も併せて見た。近年、どこかの部屋が必ず「リニューアルのため閉室」だったような気がするが、今回は全てオープンしていた。常設展エリア内で、開館40周年記念企画展・アイヌ工芸品展『現れよ。森羅の生命-木彫家 藤戸竹喜の世界』(2018年1月11日~3月13日)も見た。これが見たくて、この週末に関西行きを実行したのである。「熊彫り」を生業としていた父親に学び、観光地の土産物店で職人として働き、今や北海道を代表する彫刻家となった。白木の中から生み出される、恐ろしかったり愛らしかったりする熊の表情が魅力的。
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中華ドラマ『瑯琊榜之風起長林』、看完了

2018-03-14 00:21:43 | 見たもの(Webサイト・TV)
〇『瑯琊榜之風起長林』全50集(2017年、東陽正午陽光影視有限公司、愛奇藝)

 2015年に制作され、今なおファンを増やし続けているドラマ『琅琊榜(ろうやぼう)』の続編である。日本では3月26日から『琅琊榜〈弐〉風雲来る長林軍』のタイトルで、CSチャンネル「衛星劇場」での放映が決まっているが、私は一足先にネットで中文字幕版を視聴し終わった。

 続編の時代は前作から50年くらい後に設定されている。前作で即位した靖王(武靖爺)も今は亡く、その嫡子が梁の帝位を継いでいる。梅長蘇に救い出され、靖王の養子となった蕭庭生は、長林軍を率いて長林王を名乗り、朝廷で重きをなしているが、それを快く思わぬ勢力もいる。長林王庭生の長男・蕭平章(ピンジャン)は長林軍の副将として、北の国境で大渝国と対峙し、激しい戦闘を繰り広げていた。一方、弟の蕭平旌(ピンジン)は琅琊山の老閣主・蔺晨のもとで修行に励みながら、のびのび自由な日々を過ごしていた。戦いで深手を負った平章は、済風堂の医女・林奚姑娘によって一命をとりとめるが、梁国の侵略と長林軍の解体をねらう悪の勢力が次第に迫っていた。

 本作は、総じて言えば、第1作ほどの傑作ではないが「普通に面白い」ドラマだと思う。ただ、前半は梁国と長林軍に敵対する「悪の勢力」がたくさん登場しすぎて、ちょっと頭が混乱した。展開に変化があって面白いのだが、誰が「ラスボス」なのか、なかなか分からないのだ。内閣首輔の荀白水とその妹・荀皇后は、皇帝に対する長林王の影響力を疎ましく思っている。荀皇后が信奉する白神教の上師・濮陽纓は、かつて梁国に滅ぼされた夜秦の遺民で、梁国への復讐を狙っている。その手下として暗躍するのが、武侠高手の段桐舟。また、東海国から梁に嫁いだ莱陽太夫人は、かつて夫君が梁帝から死を賜ったことを恨み、梁帝を呪詛していたが見つかってしまう。息子の蕭元啓は、母の葬儀を許されなかったことから梁帝に深い恨みを抱き、東海国の墨淄侯はこれをひそかに利用して、梁国の簒奪を企てる。

 結局、蕭元啓が最後の悪役になるのだが、自分にとって都合の悪い、あるいは不要な人物の命をあっさり奪うなど、冷酷非情なところを見せるかと思えば、蕭平旌の長林軍に参じて、ともに梁国のために戦ったり、無表情な演技で本心を見せないので、結局、君は何が望みなのだ?と首をひねる場面もあった。最後の最後は、気持ちよい悪人ぶりを見せてくれるのだが、野望を果たせず、誅殺されるにあたって、東海国の攻撃を防ぐ策を記した文書を残し、長林老爺の恩義に報いようとする。妻・荀安如への報われない愛着など、複雑で興味深い役柄だった。若い俳優さん(呉昊宸)で、難しかっただろうな。

 荀白水も、長林王との確執から悪の道にはまりそうではまらず、梁国の忠臣として生涯を全うする。荀白水の息子・荀飛盞(張博)は禁軍大統領。前作の蒙大統領のようなコミカルさはなくて、沈着で寡黙な武人気質。蕭平章の妻(未亡人になる)蒙残雪に秘めた思いを寄せているのではないかと感じたのは、私の考えすぎだろうか? 中盤まで見せ場は少ないが、クライマックス近く、死を覚悟して大軍勢にひとりで立ち向かう姿はぞくぞくするほどカッコよかった。なお、緊張感の連続する終盤に、唯一笑いを与えてくれるのは、岳銀川将軍の副将の譚恒。佩兒ちゃんと幸せになってくれるといいなあ。

 父皇の死によって即位した若き梁帝・蕭元時(胡先煦)は、母や伯父の影響下をなかなか抜け出せないが、苛酷な体験を通して皇帝のふるまいを身につける。主役の蕭平旌(劉昊然)もそうだが、今の中国の流行りは、むかしの日本で言うしょうゆ顔なのかな。蕭平章役の黄暁明みたいな、彫りの深い顔立ちはもう古いのだろうか、と思った。ヒロイン林奚姑娘は、前作の霓凰郡主とは違った意味で自立した女性で好ましかった。

 昔語りに第1作の登場人物の消息が示されたり、第1作の映像が挟まれる場面はときどきある。共通する登場人物は庭生と藺閣主で、どちらも別の俳優さんが演じているのだが、セリフや行動の端々から、ああ、あの庭生、あの閣主だと納得できた。しかし、なんといっても本作が『琅琊榜』の後日談であることを実感するシーンは、クライマックス(終盤)に来る。第1作のファンの方々には、ぜひその場面をネタばれなしで味わってもらいたい。本作は第1作と違って、最終回らしい最終回で終わったので、たぶんもう続編は作られないのだろう。でも叶うなら、さらに梁国の行く末の物語を私は見たい。平章の遺児の策兒が成人していたり、琅琊閣の閣主も世代交代した頃の物語を。

 最後に余談だが、本作の放映開始前の特番で出演者の皆さんが語り合っている映像をネットで見つけた。前作が「文戯」なのに対し、本作は「武戯」というのはよく分かる。草原を疾駆する騎馬軍団の爽快感、大軍勢の鎧の音が迫る恐ろしさなどは本作の妙味。ただ個人的には、文官に魅力的な人物が少ないのが物足りなかった。庭生役の孫淳さんがドラマの蕭平章について「山東人らしい性格」と評していたのは、よく分からなかったが、中国語版Wikipediaに「山東人」の項目があるのを拾い読みして納得した。「本性仁厚,対上講忠誠,対朋友講義気,対前輩講孝敬」と言われるのだそうだ。そして孫淳も黄暁明も山東出身なのである。
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2018年3月@関西:山水(承天閣美術館)+京博

2018-03-12 23:29:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
承天閣美術館 相国寺・金閣・銀閣の名品より『山水-隠谷の声 遊山の詩』(2017年12月16日~2018年3月25日)

 ずっと気になっていた展覧会。終了前に東京から行けてよかった! とても素晴らしかった。相国寺と金閣寺(鹿苑寺)・銀閣寺(慈照寺)が所蔵する名品の中から「山水」をテーマにした絵画、墨蹟、工芸品約80点を展示し、中世から近世にかけての山水観を尋ねる。

 第1室は「隠谷の声」と題し、13~15世紀の日本と中国の絵画が中心。可翁筆の墨画『水月観音寒山拾得図』3幅対はいいなあ。中央の水月観音は膝を抱いてリラックスしたポーズ。中空に韋駄天が浮かび、足もとには龍が顔をのぞかせる。左右の寒山拾得は太い線と細い線が自由に入り混じり、黒々した蓬髪は、若冲の寒山拾得を思い出させる。伝・牧谿筆『豊干寒山拾得図』は寒山が筆で岩壁に小さな文字を書き始めている。寒山詩の一節だそうだ。にこにこ見つめる拾得と豊干。

 「慶元府車橋石版巷陸信忠筆」の落款のある絹本著色『十六羅漢図』は、それぞれ特徴のある4点を展示。第5幅は羅漢たちの衣の縁を飾る黒(濃紺)の曲線が美しい。第12幅は伝統的な山水画を感じさせる樹木の表現。第15幅と第16幅の樹木・岩石は、清の奇想派を思わせる。第16幅の羅漢の衣は、灰色に緑を散らした個性的な文様で、立体感を持たせず、スクリーントーンを貼ったように平面的なのが面白かった。

 夏珪筆『松下眺望山水図』は実に大胆な余白。牧谿筆『江天暮雪図』はふわふわと夢のようなただよう山水。狩野元信筆『商山四皓図』3幅対は、左右が無人の山水で、中央に四人が固まる面白い構図。そして、雪村周継の『山水図屏風』は私の大好きな屏風(相国寺蔵)。大きな山が宙に漂うバルーンのように見える。豆粒のように小さな人物にも、どことなく味わいがある。今回は六曲一双を平らに伸ばして展示されていたが、屏風本来の立て方をしたほうが、視界に変化があって面白いのに、と思った。あと南宋で描かれた白楽天の肖像画(白楽天図)があって、黒い頭巾に杖を携えて立つ。無学祖元の賛に「眉も目も描くがごとくの男前」という意味の語句があるそうで、映画『空海』を早く見たくなった。

 また展示室内の茶室・夕佳亭の復元の中に、砧青磁茶碗『銘・雨龍』が置かれており、鹿苑寺の住職・鳳林承章(1593-1668)が、片桐石州からこの茶碗を贈られた逸話が紹介されていた。実はこの人物こそ、第2室、近世の始まりにおいて、後水尾天皇サロンで重要な役割を果たすのである。

 第2室の前半は「遊山の詩」と題して、16~17世紀の作品を紹介。近世に入ると庶民も「遊山」を楽しむようになる。『金閣寺遊楽図屏風』(鹿苑寺)や『花下遊楽図屏風』(相国寺)など。後半には、等伯、応挙、池大雅、さらに富岡鉄斎などの屏風多数。私は大雅の『白雲紅樹図』が気に入ったけど、紅葉の風景なのか。一面に紅の花が咲いたようで、桃源郷かと思った。

京都国立博物館 特別企画・貝塚廣海家コレクション受贈記念『豪商の蔵-美しい暮らしの遺産-』(2018年2月3日~3月18日)ほか

 1階の5部屋を使って、大阪府貝塚市の旧商家「廣海家」コレクションの受贈を記念する特別企画展が開催されていた。絵画、茶器、狂言面もあれば、大規模で華やかな宴席を彷彿とさせる膳碗や酒器のセット、婚礼衣装や婚礼調度なども。個人的にいちばん感心したのは、大小の竹製遠眼鏡。大きい方は2メートルくらいあった。貝塚生まれで独学で望遠鏡のつくりかたを学んだ岩橋善兵衛(1756-1811)か、その子孫の作だという。

 2階では、中国絵画室で特集展示『雛まつりと人形』(2018年2月20日~3月18日)。うーん、面白かったけど、各分野の常設展示はいつでもやっていてほしい。中世絵画室の『室町幕府の唐物奉行・相阿弥とその周辺』(2018年2月20日~3月18日)はよかった。相阿弥は2点のみだったが、是庵(相国寺の僧)の作品が5点。『瀟湘八景図』2幅は、ふわふわして愛らしくて、巧いのか下手なのかよく分からないけど私の好み。

 なお、この日の京博と奈良博訪問で、私の最後の「東京国立博物館パスポート」は有効期限切れとなった。長い間、お世話になりました。いい制度だったのに、なくなってしまって、ほんと残念。

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2018年3月@関西:修二会と奈良博

2018-03-11 23:34:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
 週末は関西小旅行。昨日10日(土)は京都に着いて、夕方から奈良に入った。お目当ては奈良国立博物館の修理完成記念・特別陳列『薬師寺の名画-板絵神像と長沢芦雪筆旧福寿院障壁画-』(2018年2月6日~3月14日)。薬師寺の塔頭・福寿院には33面の障壁画があり、うち襖絵28面及び杉戸絵1面を長沢芦雪(長澤蘆雪)が描いている。このたび、平成25年から4年余りをかけて行われた修理の完成を記念して、33面の障壁画を全て公開。鶴や雀の顔つきがみんなひとくせありそうだし、虎は後ろ足が着ぐるみみたいに太いし、唐土のおじさんたちは楽しそうだし、芦雪の世界を満喫。いちばん変だったのは、海上の小島を極端に上空から見た風景図。鳥どころか、飛行機の上から眺めたみたいで、声を出して笑ってしまった。『板絵神像』は、かつて東博の『国宝 薬師寺展』で見た記憶がある。現代の復元模写が添えられていて、分かりやすかった。

 そして何度目か分からないが、特別陳列『お水取り』(2018年2月6日~3月14日)も見ていく。二月堂礼堂の実物大模型と、その周辺に流れる声明がうれしい。「南無観」も聴けた。毎年、新しい発見があって、今回は『東大寺縁起』(たぶん)に描かれた「青衣の女人」が緑色の衣を着ているのを興味深く眺めた。足利義満が二月堂内陣を見学した記録は、ブログを検索したら2015年にも見ているが、今回は、義満が来ると聞いた東大寺の僧侶たちが、濫觴(始まり)以来のことを聞かれるに違いないと思って準備を始めたという記事で、これも面白かった。

 博物館地下のカフェで一休みしたあと、二月堂へ向かった。10日のお松明は午後7時に上がる。まだ1時間以上あるが、前回(2016年)交通規制で二月堂まで近づけなかった記憶があるので、早めに行動することにした。この日は幸い、二月堂の舞台を見下ろす右側の坂道(石段の手前)に場所を占めることができた。舞台下の芝生にも、まだ入ることができたが、かなり混んでいたのと、お松明終了後、すぐに出ることができないと聞いたので、坂道で見ることにした。

 6時過ぎまでは空が明るく、人混みの中で立ったまま、本を読んでいることもできた。次第にあたりが暗くなると、街灯が点ったが「お松明が始まると消えます」というアナウンスがあった。6時半に小さな松明が回廊を上がり、また下りていった。それから修二会の紹介と参観の注意(手荷物、迷子など)が、日本語、英語、中国語で繰り返された。暗闇に浮かぶ二月堂の屋根のかたちを見ながら、中国語のアナウンスを聞くのは、往時がしのばれて趣きがある。

 「ストロボ、フラッシュは使わないでください」というアナウンスもあった。一時期、呆れるほどひどかったけど、このマナーはずいぶん徹底されてきた。今回、スマホのフラッシュの切り方がどうしても分からないおじいちゃんがいたが、「東大寺」の半纏を着たお兄ちゃんが、スマホを借りて切ってあげていた。

 7時少し前に、小さな松明が回廊を二往復する。それから鐘が打ち鳴らされ、街灯が全て消えると、いよいよ大松明に先導されて練行衆が上がってくる。左の回廊をゆっくり上がってきた松明は、お堂の陰にいったん消えたあと、舞台の上に姿を現す。長い竹がするすると伸び、大きな火の玉が中空に浮く。そして激しく回転し、火の粉を飛び散らせる。



 しばらく舞台の左端に留まっていたお松明は、ゆっくり、または滑るように素早く(これは人によって違う)右端に移動する。このとき、舞台の左右で声をかけあうのが聞こえる。



 右端でしばらく留まって燃やし尽くし、火の粉を落とした松明は、舞台の裏側へ消えていく。



 10本の松明が全て終わると、石段周辺では警備とお手伝いの人たちが、火の粉とともに落ちた杉の葉を大急ぎで掃き集め、側溝に落とす。安全が確認されると、規制解除になり、お堂に上がることができる。今年はお松明だけと考えていたので、声明の聴聞はしなかったが、御朱印はいただいていくことにした。受付には三人の方がいらっしゃって、左の方が「観自在」、中央が「南無観」、右の方が「観音力」を書かれていた。たまたま真ん中に並んだので、久しぶりに「南無観」をいただいた。うれしい。深夜まで続く行法に思いを馳せながら、左側の回廊を下った。

 翌日(今日)は大阪へ。朝のうちに興福寺の境内を少し歩いた。中金堂の再建工事は「平成30年落慶予定」なんだな。早いもので今年の秋ではないか、と気づく。



 南円堂の下、国宝・三重塔に向かう道すがら見かけた猫。清楚な顔立ちだったが、飼い猫だろうか。



 リニューアルオープンした国宝館は次の機会に。
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いつか見た風景/怪しい駅、懐かしい駅(長谷川裕)

2018-03-09 22:48:34 | 読んだもの(書籍)
〇長谷川裕、村上健『怪しい駅、懐かしい駅:東京近郊駅前旅行』 草思社 2013.8

 先日、旅行に出かける前の羽田空港で見つけて(書店ではなくセレクトショップみたいなお店)、荷物になるのでその場では買わなかったが、気になったので、結局、別の書店で探して購入した。東京周辺の16駅を訪ねて、駅の成り立ちや鉄道の歴史、現在の見どころを紹介する鉄道エッセイである。写真はないが、写真よりも雄弁な、村上健氏の水彩スケッチも見どころ。

 取り上げられている駅は、(西東京編)東横線・祐天寺、井の頭線・神泉、東横線/目黒線・田園調布、大井町線・九品仏、山手線・目黒、副都心線・渋谷、(東東京編)東武伊勢崎線・東武浅草、総武線・両国、山手線・鶯谷、東武大師線・大師前、京成押上線・京成立石、(郊外編)中央線・相模湖、都電・旧葛西橋停留所、西部多摩川線・是政、青梅線・奥多摩、青梅線・白丸。

 私は東京生まれ、東京育ちなので、だいたいどの駅も知っている。とはいえ、親しみを感じる度合いはいろいろである。私は総武線沿線の生まれなので、両国駅の章は興味深かった。両国駅がターミナル駅として賑わった時代を、私は少し記憶している。「昭和57年のダイヤ改正で両国駅始発の急行列車はおおかた姿を消し、さらに6年後にはすべての長距離旅客列車の定期運行が廃止」されたのだそうだ。でも、天井の高い、ターミナル駅らしい姿の駅舎が私は今でも好きだ。今のコンコースには、なぜか長谷川と三重ノ海という二人の力士の優初額が掛かっているのを私も覚えているが、かうては歴代優勝力士の額がずらりと並んでいたのだそうだ。そうだったかなあ。もうよく覚えていない。

 渋谷駅は、取り上げられているのは副都心線だが、地上の渋谷駅の風景スケッチが添えられている。現在(2013年)の風景と、昭和36年(1961)頃の風景が添えられているのが面白い。東急渋谷駅のシェル型屋根は昭和39年(1964)にできたものなのか。それ以前の風景はさすがに覚えていない。でも、東急渋谷駅が「ターミナル」でなくなってしまったことは本当に残念。銀座線の高架線は「日本の近代コンクリート建築の権威」阿部美樹志(1883-1965)の手になるもので、立派な産業遺産だというのは初めて知った。また、東急百貨店は、渋谷に集まるあらゆる交通機関を飲み込むように増築・成長したというのも興味深い。さすが五島慶太。

 鶯谷駅の周囲が「聖と俗の大パノラマ」だというのはよく分かる。子規庵も書道博物館も、ラブホテル街に埋もれているものなあ。「三業地」の名残を残す神泉駅も同じ。台湾料理の「麗郷」や名曲喫茶「ライオン」もスケッチが懐かしかったが、今でもあるのだろうか。

 郊外の駅は、たぶん遠足や家族旅行で1回くらい行っていると思うのだが、あまり記憶にない駅が多かった。相模湖駅や奥多摩駅、たまには遠出して、駅舎を見て「駅前散歩」をするのもいいかもしれない。
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名言で読む物語世界/三国志名言集(井波律子)

2018-03-07 23:19:16 | 読んだもの(書籍)
〇井波律子『三国志名言集』(岩波現代文庫) 岩波書店 2018.1

 『中国名言集』(岩波現代文庫、2017.11)の続編かと思ったら、原本の刊行はこちらのほうが早いのだそうだ。白話小説『三国志演義』から160項目の名言・名セリフを選び出し、原文、書き下し、日本語訳にコメントを加えたもの。これらの言葉は、いかなる状況で発せられたのかを把握しない限り、真の意味も面白さもつかめないことから、物語展開に沿った配列になっており、丁寧なコメントによって、自然に『演義』全百二十回の世界が浮かび上がる仕掛けとなっている。いわば「名言で読む三国志」である。

 私が初めて「三国志」世界に触れたのは学生時代で、以来、主に日本人作家のリライト版を各種読んできたが、マンガとゲームには関心がなかったので、三国志マニアを自任するまでには至らなかった。本書のおかげで、少し忘れかけていた「三国志」世界がよみがえり、その魅力にひたることができた。

 月並みな言い方だが、やはり「三国志」の魅力は、登場人物の(性格と運命の)多様さだと思う。文官も武官もいる。暗愚な主君を見限って別の主君に鞍替えする武将もいれば、同じ主君に生涯忠誠を尽くす武将もいる(ただし鞍替えが許されるのは一度だけで、二度三度つづくと無節操と非難される、というコメントあり)。また、忠義一徹とか剛毅木訥とか、明快な性格付づけの人物もいれば、一人の中にいくつもの性格をあわせもつ、陰影の深い人物もいる。絶望的な冷酷さと部下を心服させる人間味が共存する曹操は、後者の例である。

 かつてサラリーマン雑誌が全盛だった頃、「三国志」をビジネスの教科書にしている特集記事(の広告)をよく見た。おじさんってバカだなあ、と鼻で笑っていたのだが、私も社会人生活が長くなって本書を読むと、確かに身に沁む名言が多い。特に孔明の言葉は、いつも平明で真情にあふれていてよい。太子劉禅に与えた遺訓「悪小なるを以て之を為す勿かれ/善小なるを以て為さざる勿かれ/惟だ賢、惟だ徳のみ/以て人を服せしむ可し」を覚えておきたい。「事を謀るは人に在り/事を成すは天に在り」も孔明の言葉。

 孔明は不運にも病を得て没したというイメージで私は記憶していたのだが、「過労で倒れた」というのが正しい解釈だと分かった。人材に恵まれなかった不運があるとはいえ、何でも自分でやらねば気がすまず、部下にたしなめられても、やりかたを変えることができない。有能で几帳面なタイプには、時代を超えて実によくある壊れ方だ。また「泣いて馬謖を斬る」についても、馬謖が評判ほどには信頼のおけない人物であることを、主君の劉備も敵方の司馬懿も見抜いていたのに、孔明は見抜けず、大失敗したというストーリーになっている。『演義』の孔明は、決して後世の人間が考えるような完全無欠のスーパーマンではない。最近の中国ドラマ『軍師聯盟之虎嘯龍吟』も人間的な孔明像を描いていて新鮮に感じたが、実は原典のままだということが分かった。

 私は多くの読者と同じく、劉備・関羽・張飛の義兄弟から「三国志」に入ったので、この三人が退場して以降の物語にはあまり関心を払っていなかった。前述のドラマ『軍師聯盟』を見て、孔明と司馬懿の戦い、さらに孔明没後の物語を初めて詳しく知った。本書には、魏における曹爽の専横、司馬懿のクーデターなど、ドラマを思い出すエピソードも含まれていて、感慨深かった。ドラマに描かれた時代の後の話だが、鄧艾と鍾会が反目したというのはショック。また、呉も孫権没後は大波乱だったことを知る。幼帝を即位させて実権を握った諸葛恪は諸葛亮(孔明)の甥なのか。諸葛一族にもいろいろあるものだ(Wikiを見ると『増像全図三国演義』の画像では車椅子に座っている?)。

 巻末の解説によれば『演義』の文体は、白話小説とはいえ、かなり文言(文語)に近いという。その一方、話者のキャラクターによっては会話に自由な白話が取り入れられている。この例を、関羽と張飛のセリフで示すのだが、なるほど関羽は劉備を「兄長」と呼ぶのに、張飛は「哥哥」である。それから、作品の山場に登場する詩の「凡庸さ」を指摘しながら、これは恥ずべき欠点ではなく、むしろ語りもの文学の「壮観」と捉える視点に強く共感した。もちろん曹操の「短歌行」と孔明の「出師の表」は別格である。本書がこれらを全文取り上げている点は、英断を高く評価したい。著者にこの企画を持ちかけた岩波の編集者も『演義』マニアだそうで、本当のマニアのつくった三国志本と言える。
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運慶仏お戻り開帳(横須賀・浄楽寺)

2018-03-05 22:32:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
金剛山勝長寿院大御堂 浄楽寺(横須賀市芦名)収蔵庫改修記念『運慶仏お戻り開帳』(2018年3月1日~3月5日)

 三浦半島の浄楽寺には、何度か行ったことがある。私は2001-2002年度は逗子に住んでいたので、たぶんその頃だ。いまブログの検索をかけたら、2009年に鎌倉国宝館で浄楽寺の阿弥陀三尊像を見たことと、2011年に金沢文庫で毘沙門天像、不動明王像を見た記録しかなかった。お寺を訪ねたのは、もう15年以上も前になることに愕然とした。

 昨年、浄楽寺にはニュースが2つあった。1つは、東京国立博物館で開催された『運慶』展に5体の運慶仏が出陳されたこと。毘沙門天像、不動明王像は通期で、私はこの2体を拝見したが、阿弥陀三尊像は見ることができなかった。もう1つは、運慶展の期間中から2018年2月まで、仏様がお出ましになっている間に収蔵庫の免震・補修工事を計画し、その費用をクラウドファンディングで募ったことだ(※「重要文化財の運慶仏を未来へ伝えたい! 浄楽寺・収蔵庫改修プロジェクト」)。結果は、583人の支援者を得て、目標額の600万円を見事クリアした。実は私も些少ながら寄附をさせていただいたので、お寺への愛着も増して、うきうきしながら出かけた。

 かつての地元だった、懐かしい逗子駅からバスに乗車。のたりのたりの春の海を眺めながら、浄楽寺に到着する。バス停からお寺までの短い参道には、オレンジ色の幟が並んで、御開帳ムードを盛り上げていた。



 浄楽寺の本堂では、ここに墓所のある前島密を紹介するパネル展が行われていた。明治維新の功労者の一人だと思うが、貴顕の別荘の多い逗子や葉山を避けて、芦名に隠棲したというのを聞いて、面白い人だと思った。本堂の左の社務所で御朱印を受け付けていたが、書いていただくには1時間半待ち(!)と聞いて、書かれたものを買うことにした。お坊さんを含め、3、4人の方が黙々と御朱印を書いていた。お疲れ様です。

 本堂の裏手、小高い丘の中腹に立つのが収蔵庫である。15年前に来たときもこの収蔵庫だったと思う。



 中には5体の運慶仏。お客さんは、入れ代わり立ち代わりしていたが、それほど混んでいなくてゆっくり拝観できた。照明は自然光に近い白色光(今回の改修でLEDに交換)で、全体が普通に明るい。このところ、博物館・美術館の凝ったライティングの下で仏像を見る機会が多かったので、自然な明るさが、逆に新鮮に感じられた。別にことさら陰影を強調しなくても、魅力的な仏像は十分魅力的なのだ。特に毘沙門天像の気品ある猛々しさに惚れ惚れした。これは東国武士の心をつかむだろうな。足もとで縮こまっている邪鬼もかわいい。

 なお、浄楽寺が「勝長寿院」を名乗るのは、源頼朝が父・義朝の菩提を弔うために創建した鎌倉の「勝長寿院」が、台風で崩壊したのち、北条政子と和田義盛が本尊の阿弥陀三尊像を移したためと伝えられている。かつて勝長寿院跡を探しに行ったときの記事はこちら

 収蔵庫改修プロジェクトのクラウドファンディングで私が選んだコースには「お戻り開帳期間のみ収蔵庫にお名前を掲載」というリターンがついていた。当日、半紙に墨書して私の名前を貼り出して下さっているのを確認した。ありがとうございます。運慶の仏様と結縁できたようでうれしい。今後も末永くおつきあいしたい。
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葛井寺の千手観音/仁和寺と御室派のみほとけ(東京国立博物館)

2018-03-04 22:48:52 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-』(2018年1月16日~3月11日)

 すでに前期を参観した展覧会だが、は後期(2/14-)から大阪・葛井寺の秘仏・千手観音菩薩坐像がお出ましになったので、仏友たちとともに再訪してきた。土曜日、朝9時過ぎに行ってみると、すでに正門の前に黒山の人だかり。友人が8時半頃から並んでくれたので、かなりいい位置をキープして入場することができた。開館時間に先立って、列を崩さぬように平成館の前まで誘導されたが、9時半には、終わりが見えないくらいの長い列ができていた。

 一番見たいものは「葛井寺の千手観音」で意見が一致していたので、2階に上がると、ほかのお客さんとは逆方向に向かい、第二会場の出口から入場する。我々以外にも、同じ行動をとるお客さんが何組かいた。福井・中山寺の馬頭観音、兵庫・神呪寺の如意輪観音、徳島・雲辺寺の千手観音と脇侍仏など、前期と同じ秘仏がいらっしゃるのを確認しながら進むと、円形に区切られた、ステージのような広い空間に、葛井寺の千手観音がいらした。

 第一印象は、記憶より小さな像でとまどった。像の迫力のせいで、この倍くらいある巨像のイメージがあったのだ。天平仏らしい、茫漠としてつかみどころのない表情。こんなに近くに寄って拝観するのは、もちろん初めてのことだ。頭上面の一つ一つが、かなり個性的で表情豊かであることに気づく。千本の小さな手も一様でない。指先を一本だけ曲げているもの、二本曲げているもの、全て伸ばしているものなど、よく見るとさまざまである。前期に買って帰った図録の解説をあらためて読んでみたら、小さな腕は千一本あるそうだ。正面で合掌する手も含め、大きな手は四十本。会場のパネルには持物があらわす意味や、失われた持物の可能性など、面白い解説もあったが、図録には収録されていなくて残念。

 会場では、もちろん背面にもまわってみた。左右の脇手をそれぞれまとめる、二本の柱のような板が台座から立っていて、金具でつながれていた。けっこう舞台裏っぽい仕掛けを見てしまった。柱の間に見える観音のうなじから背中のラインはなだらかで美しかった。脇手は、だいたい縦一列に積み上げられたように重なっていている。ただし左右とも肩から上のあたりは、この縦のラインがかなり崩れているようにも見えた。面白いのは、左右とも再背面の一列の脇手は、腕の長さがわりと短い。たぶん正面から見ると、全く見えない存在だと思う。

 しばらく至近距離で細部を眺めつくしていたが、あらためて少し引いて、全体を視野に入れてみた。すると左右の脇手の厚みが、背面までぐるりと覆っているような錯覚を感じた。舞台裏を見てしまっても、この像の魅力に変わりはないようだ。

 それから第二会場を逆コースで進んだ。開館から1時間くらいすると、だんだん人が流れてきて、第二会場が混み始めた。観音堂の再現コーナーでは、ヘンな壁画を見つけて、いろいろ勝手な解釈を言い合って楽しんだ。第一会場には、小さな秘仏・仁和寺の薬師如来坐像がいらしていた。光背にくっついた脇侍とか七仏とか、台座を囲む十二神将とか、技が細かい。あとは京博の『十二天像』が「毘沙門天」「伊舎那天」に変わり、『信西古楽図』が場面替え(雑技の図)になっていたのもよかった。仁和寺の『普賢十羅刹女像』(鎌倉~室町時代、髪型が唐風)とか金剛寺の『五秘密像』など面白いものもあったが、絵画・書跡はやっぱり前期のほうが各段によかった。

 会場を出た後、平成館・考古展示室で『和歌山の埴輪-岩橋千塚と紀伊の古墳文化-』(2018年1月2日~3月4日)をざっと覗いた。『両面人物埴輪』と『翼を広げた鳥形埴輪』が面白かった。紀ノ川流域には約850基の古墳が分布しているとは、全く知らなかった。
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