見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

総合文化展(東京国立博物館)2022年7月

2022-07-10 21:11:05 | 行ったもの(美術館・見仏)

 久しぶりに東京国立博物館に行ってきた。「創立150周年記念事業」の実施(7/20~24は無料開館)と関連してか、けっこう珍しい作品が出ていた。

 本館11室(彫刻)は、入ってすぐに、たなびく瑞雲の上の蓮華座に立つ美麗な地蔵菩薩立像( 善円作・鎌倉時代、奈良・薬師寺)が出ていた。2019年に大英博物館で展示されたものらしい。

■本館14室 創立150年記念特集『収蔵品でたどる日本仏像史』(2022年5月17日~7月10日)

 飛鳥時代から近代まで16件の作品により、日本の仏像を通史的に紹介する。スペースの制約で大型の仏像は展示できないし、ちょっと無謀な企画ではないかと思った。とはいえ、古い時代には珍しい木製の如来立像(飛鳥時代・法隆寺献納宝物)や雲中供養菩薩像(平等院伝来)が出ていたり、円空仏と木喰仏が1躯ずつ並んでいたり、近代ものは佐藤朝山の龍頭観音像が出ていたり、セレクションに苦心の跡が感じられた。

 15室(歴史の記録)では『文久遣欧使節写真』6件を展示中。福地源一郎がいる。18室(近代の美術)は、私の好きな前田青邨の『御産の祷』と『神輿振』が出ていた。やっぱり、今年の大河ドラマを少し意識しているだろうか? あと、高橋由一や伊藤快彦など、明治の風景画の素直な味わいも好きだ。ところで本館の展示が面白すぎて、平成館・企画展示室で開催中の創立150年記念特集『時代を語る洋画たち-東京国立博物館の隠れた洋画コレクション』(2022年6月7日~7月18日)を見落としてしまった。しまった。来週、もう一回行かなければ。

■本館2室(国宝室) 創立150年記念特集『未来の国宝-東京国立博物館 書画の逸品-』

 東博の研究員が選び抜いた作品12件を「未来の国宝」と銘打って、年間を通じて紹介する企画。現在の展示は、雪村周継筆『蝦蟇鉄拐図』(2022年7月5日~7月31日)である。写真撮影OKなのがうれしい。鉄拐仙人がお腹の前に下げている、平たい壺のようなものは何だろう? 魂を出し入れする(?)瓢箪は別に下げている。調べたら、雪村はまだ国宝になった作品がないのだな。

 3室(仏教の美術)では、春日信仰に関する美術品をミニ特集。『春日本地仏曼荼羅図』や『春日赤童子像』が出ていた。冷泉為恭らによる『春日権現験記絵巻』模本(巻第19、20)も美しかった。 室町時代の『春日宮曼荼羅彩絵舎利厨子』は内部の背面に、御蓋山に向かって伸びる参道の図が描かれている。『子島荒神像』『富士参詣曼荼羅図』など室町時代の神仏図は、独特の魅力があって、あやしく楽しい。

 3室(禅と水墨画)に出ている「秀峰」印『山水図屏風』には見覚えがあって、これは雪村だっけな?雪村っぽいけど確定できないヤツだっけな?と考えながら近づいたら、解説に「かなり雪村風です」と書いてあった。うん、そう言いたくなる気持ちは分かる。7室(屏風と襖絵)には、伝・岩佐又兵衛筆『故事人物図屏風』が出ていた。出光美術館で何度か見たもの(蟻通とも)だが、個人蔵なのだな。

 8室(書画の展開)は、かなり良かった。まず、長谷川等伯筆『牧馬図屏風』は記憶になかったが、さまざまな毛色の馬たちが描かれていて、中国っぽい画題だと思った。曽我蕭白筆『牽牛花(朝顔)図』『葡萄栗鼠図』は、蕭白らしからぬアッサリした墨画。 長沢芦雪筆『方広寺大仏殿炎上図』(個人蔵)が出ていたのはうれしかったが、写真撮影はNG。 林十江筆『蝦蟇図』も好きな作品。鍬形蕙斎筆『近世職人尽絵詞・上巻』も面白かったし、荻生徂徠筆『天狗説屏風』の書跡は読みやすくて好ましかった。

 10室(浮世絵と衣装)は、だいたいサッと素通りしていくのだが、最後に祇園井特の肉筆画『婦女と幽霊図』2幅があって、ぎゃっと飛び上がりそうになった。この幽霊は、恨み骨髄に徹するような、恐ろしい顔をしている(写真を撮ってきたが、貼るのは自重)。

■東洋館(アジア・ギャラリー) 特集『清朝宮廷の書画』(2022年6月28日~9月19日)

 清朝の歴代皇帝、親王や廷臣たちの書画を展示する。個人的に気になったのは、やはり乾隆帝第六皇子の永瑢である。初めてこの名前を意識したのは、2021年1~2月の『清朝書画コレクションの諸相』展で、乾隆帝の後宮を舞台にした中国ドラマ『延禧攻略』『如懿伝』を見たばかりだったので、おや?と思ったのだ。このときは皇六子の署名のある『山水図軸』が出ていた。今回はもう1件、何とも力の抜けた『魚蔬図巻』が展示されていた。これを乾隆帝の皇子が描いたと思うと、なんだか微笑ましい。私はこの作品を2018年にも見ているのだが、まさか作者にこんな思い入れが湧くとは思わなかった。

 ちなみに今回は、乾隆帝の書はなく、康熙帝の書が2件出ていた。流麗さには欠けるが、おおらかで生真面目で、人柄のしのばれる好きな字である。

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門前仲町グルメ散歩:2022夏・初かき氷

2022-07-09 20:31:29 | 食べたもの(銘菓・名産)

東京には、今年も暑い夏がやってきた。門前仲町の伊勢屋で、早く食べたいと思っていた、この夏初めてのかき氷。「氷いちごミルク」のソフトクリーム乗せである。幸せ。

以前よりメニューが少なくなり、営業時間も短くなってしまったが、お店を続けてくれているだけでもありがたい。この夏から、かき氷のテイクアウトメニューができたようなので、いずれ利用してみようと思う。

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史料から知る実像/兼好法師と徒然草(金沢文庫)

2022-07-07 22:22:59 | 行ったもの(美術館・見仏)

神奈川県立金沢文庫 特別展『兼好法師と徒然草-いま解き明かす兼好法師の実像-』(2022年5月27日~7月24日)

 『徒然草』の著者・兼好法師と言えば、ぼんやり京都の人だと思っていたので、武州金沢に縁があるとは、長いこと知らなかった。2017年4~6月の同館『国宝 金沢文庫展』で、兼好母が鎌倉に住む娘(兼好の姉)に宛てて、兼好父の仏事を「うらべのかねよし」の名前で行うよう依頼した書状を見て、驚いたのが最初である。その後、2017年11月刊行の小川剛生氏『兼好法師』(中公新書)を読んだら、通説となっている兼好の出自と経歴は後世の「捏造」と断じ、文献史料から、真実の経歴を再構築する試みが論じられてて、興味が増した。本展は、歴史史料から兼好の実像と彼の生きた時代について読み解くことを主眼としたもので、現在の私の関心にぴったりの企画だった。

 上述の書状以外にも、「称名寺聖教・金沢文庫文書」に兼好に関わる史料が存在することは、早くから知られていたそうだ。一例として「卜部兼好書状立紙」の名で知られるものが2件ある。書状の包み紙に使われた料紙で、現在はきれいに軸装されていた。それぞれ白紙の左端に「進上 称名寺侍者 卜部兼好状」「謹上 称名寺侍者 卜部兼好状」と記されている(よく読めずに悩んでいたら、ちょうど学生さんに説明をしていた学芸員の方が読んでくれた)。称名寺長老・剱阿の侍者に宛てて、金沢貞顕の使者か右筆であった兼好がしたため、貞顕書状に添えた副状(そえじょう)を包んでいたものと解釈されている。なお、この立紙の中身と判断できる書状は未発見で、かつて学芸員の方が、金沢文庫の文書を全部ひっくり返して探しても、見つからなかったそうだ。

 また、円慶2年(1308)の金沢貞顕書状(右筆の倉栖兼雄筆)にも「兼好」の文字が見える。かつて見た兼好母の書状(氏名未詳書状)も出ており、兼好の姉(鎌倉こまち在住)が仏事に関して剱阿に謝意を述べた書状、同じく兼好の姉が剱阿に宛てて、称名寺へ故父の墓参りに行きたいと伝える書状も展示されていた。これらは、筆跡に加えて、紙背の聖教の一致から関連性を推測していく手法の説明がおもしろかった。

 一方、かつて兼好書状と目されていたが、現在は否定されている「氏名未詳書状」もある。墨付きが黒々として筆跡が立派で、文面に教養(漢文の素養)が感じられるため、兼好書状と考えられていたが、紙背文書を根拠とする時代考証など、実証的な研究が進んだことで、兼好と関わりを見出すことは困難と結論づけられているそうだ。

 兼好は、言わずと知れた和歌の上手でもあるが、金沢文庫には「詠五十首和歌」「和歌詠草」などの和歌資料も、紙背文書で伝わっている。和歌の作者は漢字一文字で表記されており、「卜」は兼好、「阿」は剱阿と見られている。二条為世門下の和歌四天王のひとりと言われた兼好はともかく、称名寺長老の剱阿が、こんなに和歌をたしなんでいたことが意外で、親しみが湧いた。

 さて、時代は下って近世初期、古活字版の刊行が契機となって『徒然草』の人気が高まり、古筆愛好家の間では兼好の筆跡が珍重された。しかし兼好真筆と断定できるものは少なく、本展に複製品が参考出品されている『宝積経要品・紙背和歌短冊』(原品は尊経閣文庫所蔵)は、稀少な真筆である。あとは年代が近いと兼好筆と鑑定されていた、という趣旨の解説に苦笑してしまった。

 江戸時代には、兼好法師と徒然草を元ネタにした絵巻や絵本、屏風が多数制作されている。金沢文庫は、かなり意識的にこれらを蒐集しているようだ。兼好が武蔵国金沢に住んでいたことは、兼好法師家集からも分かる。しかし、江戸時代に流布していた兼好法師伝説は、中宮小弁との恋→小弁の父に阻まれ、失意の出家→諸国放浪して東国へ(業平か!)とか、怪鳥退治(頼政か!)とか、盛りだくさんのフィクションが加わっており、これはこれで面白そうだと感じた。

 図録には小川剛生氏が寄稿していて、さまざまな指摘をあらためて読むことができて、興味深かった。たとえば六浦には卜部姓の土地の有力者がいたこと。金沢貞顕の御家人・倉栖兼雄は、かつて兼好の兄弟とされたこともあったが、倉栖氏が平姓であるのでこれは否定されている。しかし親しい関係は推定できること。倉栖氏はやがて高師直の麾下に参ずるので、兼好と師直の関係が生じたのもこれに連動すると考えられること、などである。

 『徒然草』は、じじむさい古典で、若い頃はあまり好きになれなかったのだが、そろそろ読み返してみると面白いかもしれない。

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夏の軽井沢でデスクワーク

2022-07-06 22:17:14 | なごみ写真帖

仕事で2泊3日の軽井沢に行ってきた。勤務先が経営する施設に泊まってデスクワークの日々だった。先週の東京が地獄のように暑かったので、全く冷房の要らない快適な気候にびっくりしたが、帰ってきたら、今週は東京もまあまあ涼しかったようだ。

繁華な中軽井沢から外れていることもあって、人の姿は少なかった。舗装道路の両側には、十分な間隔を開けて、個人の別荘や企業の保養施設が点在している。個性的な建築が多くておもしろかった。

道端には、コスモス、アジサイ、百合、シモツケなどが元気に咲いていて、夏の北海道を思い出した。

軽井沢、また来てみたいが、仕事で来るのは、ちょっとつらい。とは言え、車を持っている同行者がいないと不便だろうなあ。

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仲介者としての女性/海の東南アジア史(弘末雅士)

2022-07-01 22:30:30 | 読んだもの(書籍)

〇弘末雅士『海の東南アジア史-港市・女性・外来者』(ちくま新書) 筑摩書房 2022.5

 交易活動が活発化し、東西世界(ヨーロッパ、中国、日本)から多数も来訪者がこの地域を訪れた近世(15世紀~)、さらに植民地社会が成立し国民国家形成運動が展開する近現代(19世紀後半~)の東南アジアを総合的に論ずる。本書の注目ポイントをよく表しているのは副題である。東南アジアには、古来、海洋を通じて多くの商人や旅行者・宗教家が来航し、港市は、外来者に広く門戸を開き、多様な人々を受け入れるシステムを構築してきた。そこで大きな役割を果たしたのが女性である。

 以下、最も印象的だった「女性」の役割を中心にまとめる。15世紀から17世紀、東南アジアでは、東西海洋交易の中継港となり、香辛料などの東南アジア産品を輸出する港市が各地で台頭した。私の知っている地名でいえば、ムラカ(マラッカ)、アユタヤ、ジョホール、ブルネイ、ホイアンなどである。港市では、一般に外来者は、出身地ごとに居住区を割り当てられ、それぞれの居住区では頭領が任命され、出身地の慣習に従って滞在することが認められた(この方式は、東南アジアの港市に限らず、ありがちに思える)。

 特徴的なのは、交易活動を進展させるため、滞在する外国人商人に現地人女性との結婚が斡旋されたことだ。東南アジアでは商業活動に関わる女性が多く、彼女たちは、外来者に現地の言語や習慣を教えるだけでなく、市場との間を仲介した。最高位の貴族たちが自分の娘を外来者に差し出したがったとか、何度も外来者の一時妻になるのは誉れ高いことだったとか、一時妻を得た外来者は、妻にひどいことをしたり別の女性とつきあったりしてはならなかった(普通の結婚と同じ)とか、びっくりする話が並んでいる。しかし現代の感覚で、当時の女性の人権が抑圧されているとは言い難い。むしろ彼女たちは誇り高く自由であったように思われる。いろんな社会システムがあるものだ。

 もちろん、報酬や子供の親権をめぐって、しばしば軋轢も起きた。17世紀に至り、現地権力者が一時妻の斡旋に積極的でなくなると、ヨーロッパ人は、現地生まれのヨーロッパ人女性や現地人女性、あるいは女奴隷と家族形成するようになった。「現地生まれの(法的な)ヨーロッパ人」には、ヨーロッパ人男性と現地人女性の間の子孫(ユーラシアン)や、父親が認知した女奴隷の子供も含まれる。ヨーロッパ人はこうした現地妻を必ずしも正式結婚とみなさなかったが、ジャワでは、彼女たちをニャイ(ねえさん)という尊称で呼んだ。

 近世後期(18世紀~)は清朝の隆盛により、東南アジアも生産活動や商業活動を活発化させた。女性や女奴隷は引き続き、市場での商業活動を担い、外来者と交流した。19世紀に入ると、イギリス東インド会社のラッフルズを筆頭に、ヨーロッパ人が勢力を拡大し、現地勢力との間に確執が生じた。19世紀後半には、植民地支配が拡大し、抵抗する現地勢力は多くが廃絶された。この頃、蒸気船の就航とスエズ運河の開通によって、東南アジアは、これまで以上に世界経済と緊密に結ばれることになる。外来のヨーロッパ人男性の多くは、相変わらずニャイと同棲していたが、在地権力者の権威の失墜により、彼女らの地位も下降し始めた。一方、ヨーロッパ人クリスチャンの間では性モラル向上運動が起こり、次第にニャイの慣習に変更を迫る圧力が増した。こうして、ニャイは(その子孫であるユーラシアンも)外来者と現地社会を仲介し、統合する機能を失っていく。

 東インドでは、ユーラシアンとヨーロッパ系住民を中心に独立国家作りを目指す動きが起こる。その他の地域でも、宗教や政治思想(社会主義、共産主義)、民族主義に加えて、男女関係や家族形成を論点としながら、「国民統合」の新たな社会が構想されていく。その道程は、一国ごとに異なり、とても興味深い。国民統合としては上手くいったように見えても、ジェンダー平等の点では問題があると感じる例もあった。近代化の成功とは何なのかも考えさせられた。私は大雑把に「近現代」という時代を、なかなか好きになれない。その理由のひとつは、「男性優位の原理を掲げるヨーロッパ人の植民地体制」の名残が、地球上から消え去らないためではないかと思う。

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