きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

失望から希望へ

2014年01月25日 | 羊の群れ
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

命令形で書かれたこの聖書の御言葉。天地創造された神様から、今を生きる私たち人類へのメッセージだ。今週、あなたの人間関係はどうだったろうか?また新聞紙面に目を留めると、靖国神社参拝への批判、竹島問題、中東を始めとする各地の民族紛争や世界的金融不安など、この地上は膨大な問題に溢れている。こんな問題だらけの地球で、どうすれば一致ができるのか?方法は一つしかない。イエス様による一致だけだ。

福音は宗教ではない。どの宗教も、「いやいや、私のこれは『宗教』などといういかがわしいものではないです。」と口をそろえて言うものだが、福音は断じて宗教ではない。宗教も哲学もこの地上のもの、人間が作るものだからだ。福音は、人間が作ったものではない。神様が、聖霊様とイエス様を通して人間にくださったギフト、贈り物だ。この荒れ果ててしまった地球はもはや、人間の力で元に戻すことはできない。果てしなく離れている天の神様の元へ人間の力だけで戻ることも決してできない。どちらも、この地を創り、人間を創り、今尚守ってくださっている神様の力、聖霊様の助け、イエス様の介在なしに成しうることではないのだ。

今週の私の人間関係も、複雑怪奇な国際問題も、解決方法はある。「相手の立場に立って考える」ということだ。これができれば、どんな問題も一気に解決!しかし問題は、なかなか相手の立場に立てない、ということ。自分と相手の間でイエス様が取り成してくださらない限り、真の意味で相手の立場になど立つことはできない。

今日のメッセージに一つの証しがあった。広島で被爆された牧師さんの娘さんの証しだった。彼女のお父さんは戦時中の広島で教会をしていた。その教会には、終戦後、顔や体にケロイドのある、あるいは体が不自由になった信徒さんが集まって礼拝していた。彼女は、仲間を傷つけたアメリカを憎んだ。彼女が10歳くらいの頃、アメリカのメディア取材で、図らずもあの原爆投下のエノラ・ゲイ副操縦士と出会うことになった。被害者の代表として、被爆者の痛みを知らせてやろうと思ってその場に出向いた彼女に、副操縦士の言葉が響いた。原爆投下し、町が消えていくのを見たその時、彼はそのしでかした事の大きさを見て思わず叫ぶ。「神よ、私たちは何と言うことをしてしまったのか」。まだ幼かったけれど、彼女はそこで彼自身が負い続けている十字架を見て、自分と人間の弱さと罪をはっきり悟った。そして更にその後、ただ被爆者というだけで結婚を拒まれた時、「私は初めてあのケロイドを負った人の気持ちを知った。その悲しみの立場がようやくわかった。」と語る。

詫びではない。詫びの言葉や謝罪で済むようなことではない。しかし、確かに自分がしてしまったこと、知らなかったとは言え取り返しのつかないこと、これらを目の前にして初めて人は「相手の立場に立つ」ことができる。頭で思っているだけの理想、机上の空論、安易なヒューマニズムでは、そこに到達することはできない。だから、「神よ、私は何と言うことをしてしまったのか。」、この叫びが人間誰にでも必要なのだ。それはイエス様の十字架を前にした時、魂が叫ぶ言葉、イエス様の贖罪を受け取るための祈りの言葉だ。だから、私たちは聖霊様の助けとイエス様の十字架を通して、真の一致を求めよう。魂が生き返る福音のメッセージを受け、イエス・キリストに繋がることでほんとうの、そして永遠の平和、シャロームが訪れるのだ。

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。


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