アヤロンの谷に群生するヒナゲシ/横山匡氏
今日の御言葉は、Ⅰテサロニケ5:16-18。クリスチャンであれば暗誦聖句している人も多いところ。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
真正直なトヲル師は、この聖句からメッセージするのが嫌いだ、と仰る。喜ぶ、祈る、感謝する、クリスチャンであればこそ行いたい、でもなかなか、いや全然できないことを知っているから、できないことを他人にメッセージしたくない、と本音トークで仰ったのに感動。そんな彼が、始めて自分からこの御言葉を選んでメッセージしてくださいました。そのメッセージの中で読まれた「あたりまえ」という詩は、癌で片足を切り落とし、でも完治することなく命を失った若いお医者さん、井村和清さんのもの。本や映画にもなった『飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ』という作品中に出てきます。
あたりまえ
こんなすばらしいことを、
みんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまえであることを。
お父さんがいる。お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。
行きたいところへ自分で歩いて行ける。
手を伸ばせばなんでもとれる。
音が聞こえて声がでる。
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろばない。
あたりまえだ、と笑ってすます。
食事が食べられる。
夜になるとちゃんと眠れ、
そして、また、朝がくる。
空気を胸いっぱいにすえる。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走り回れる、
みんなあたりまえのこと。
こんなすばらしいことを、
みんなは決してよろこばない。
そのありがたさを知っているのは、
それをなくした人たちだけ。
なぜでしょう。あたりまえ。
「あたりまえ」であることのすばらしさ、失って始めて知る「あたりまえ」の恵み、「あたりまえ」のことへの感謝、そんな「あたりまえ」のことが気付かれない悲しさが切々と歌われています。そう、「悲しみ」です。すばらしいことだとわかっても、それを失ってしまった時、人間として喜んだり、感謝したりできるはずありません。しかし、聖書は「いつも」感謝と教えます。それは、「イエス・キリストにあって」可能なのです。
クリスチャンにも体の自由を奪われた方は大勢いますが、GNSでもしばしば登場する星野富広さんも詩を書かれます。彼の詩には「悲しみ」ではなく、「希望」が見えています。それは彼は、「あたりまえ」と引き換えに、もっと素晴らしいものを得たことを歌うからです。比べるものではありませんが、富弘さんの歌う「あたりまえ」です。
ひなげし
花が上を向いて咲いている
私は上を向いてねている
あたりまえのことだけど
神様の深い愛を感じる
名残惜しむ「あたりまえ」の代わりになるのは「イエス・キリスト」。全能の神様、私の人生がどんな「“非”あたりまえ」になっても、BACK TO「あたりまえ」どころか、最高の“完全”へと導く救い主。そんないつでも味方してくれ、いつでも助けてくれるイエス様が一緒にいてくださることで、私たちは「いつも」感謝ができるのです。そんな思いを箴言の聖句と共に教えられました。
常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
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