楽琵琶 石川県金沢市 石川県立音楽堂
ぬ物うさに、いとひさしうなりにけるを、ゆふたちし
て、なごりすゞしきよひのまぎれに、温明殿の
源
わたりを、たゞずみありき給へば、此ないしびはをいと
おかしうひきゐたり。御ぜんなどにても、おとこがた
み
の御あそびにまじりなどして、ことにまさる人なき
上゛ずなれば、ものうらめしう覚えけるおりから、いと
あはれにきこゆ。√うりつくりに、なりやしなましと、こ
源心
ゑはいとおかしうてうたふぞ。すこし心づきなき。がく
しうにありけんむかしの人も、かくやおかしかりけん
とみゝとまりて、きゝ給ふ。ひきやみて、いといたくお
源
もひみだれたるけはひなり。君√あづまやをしのびや
内侍
かにうたひて、よりゐ給へるに、をしひらひてきませ
源心
とうちそへたるも、れいにたがひたる心ちぞするや
内侍
たちぬるゝ人しもあらじあづまやにうた
てもかゝるあまぞゝきかな。とうちなげくを、我
源心
ひとりしも、きゝおふまじけれど、うとましや。な
にごとをかくまではとおぼゆ
人妻はあなわづらはしあづまやのまやのあ
まりもなれじとぞ思ふ。とて、うちずきなまほ
しけれど、あまりはしたなくやと思ひかへして、
人にしたがへば、すこしはやりかなるたはふれごと
など、いひかはして、これもめづらしき心ちぞし給ふ。
源
とうの中将は、此君のいたくまめだちすぐして、つねに
もどき給ふがねたきを、つれなくて、うち/\に、しのび
給ふかた/"\おほかめるを、いかでみあらはさんとのみ
思ひわたるに、これをみつけたるこゝち、いとうれし。
み
かゝるおりに、すこしをどしきこえて、御心まどは
地
して、こりぬやといはんと思ひて、たゆめきこゆ。風
ひやゝかにうちふきて、やゝふけゆくほどに、すこしま
頭中
どろむにやとみゆるけしきなれば、やをらいりける
源
に、君はとけてしもね給はぬこゝろなれば、ふときゝ
つけて、此中将とは思ひよらず。なをわすれがたくす
なる、すりのかみにこそあらめとおぼすに、おとな
ぬ物憂さに、いと久しうなりにけるを、夕立して、名残り涼しき宵の紛れ
に、温明殿のわたりを、佇み歩き給へば、この内侍、琵琶をいとおかしう
弾きゐたり。御前(ごぜん)などにても、男方の御遊びに交じりなどして、
殊に勝る人なき上手なれば、物恨めしう覚えける折から、いと哀れに聞こ
ゆ。「√瓜作りに、なりやしなまし」と、声はいとおかしうて歌ふぞ。少
し心づき無き。鄂州(がくしう)にありけん昔の人も、かくやおかしかり
けんと、耳とまりて、聞き給ふ。弾き止みて、いといたく思ひ乱れたる気
配なり。君、√東屋を忍びやかに歌ひて、よりゐ給へるに、「押し開ひて
来ませ」と、打添へたるも、例に違ひたる心地ぞするや。
立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨(あま)ぞそきかな
と、打歎くを、我一人しも、聞き負ふまじけれど、疎ましや。何事を、か
くまではと、覚ゆ。
人妻はあな煩はし東屋の馬屋(まや)のあまりも馴れじとぞ思ふ
とて、うちずきなまほしけれど、あまりはしたなくやと思ひ返して、人に
従へば、少しはやりかなる戯れ言など、言ひ交はして、これも珍しき心地
ぞし給ふ。
頭の中将は、この君のいたくまめだち過ぐして、常にもどき給ふがねたき
を、つれなくて、内々に、忍び給ふ方々多かめるを、いかで見顕さんとの
み思ひわたるに、これを見つけたる心地、いと嬉し。かかる折に、少し脅
し聞こえて、御心惑はして、懲りぬやと言はんと思ひて、たゆめ聞こゆ。
風冷ややかに打吹きて、やや更け行くほどに、少し微睡むにやと、見ゆる
気色なれば、やをら入りけるに、君はとけてしも、寝給はぬ心なれば、ふ
と聞きつけて、この中将とは思ひ寄らず。なを忘れ難くすなる、修理のか
みにこそあらめとおぼすに、大人
引歌他
※√瓜作りに、なりやしなまし 催馬楽 山城
山城の狛のわたりの瓜つくり。なよやらいしなや瓜つくり瓜つくりはれ。
瓜つくり我を欲しと言ふいかにせむ。なよやらいしなやさいしなや。いかにせむいかにせむはれ。
いかにせむなりやしなまし。瓜たつまでにやらいしなやさいしなや。瓜たつま 瓜たつまでに。
※卾州 白居易「夜聞歌者卾州」による。
※√東屋やを 催馬楽 東屋
東屋のまやのあまりのその雨そそき我たち濡れぬ。殿戸開かせ。
鎹(かすがひ)も錠(とざし)もあらばこそ。その殿戸我鎖さめ。おし開いて来ませ我や人妻。
和歌
源典侍
立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨(あま)ぞそきかな
意味:雨漏りして立ち濡れる所(私)に来る人もいないでしょう、この古い東屋で、不愉快も掛かって来る雨注ぎですね。
源氏
人妻はあな煩はし東屋の馬屋(まや)のあまりも馴れじとぞ思ふ
意味:他に通って来る人のいる人妻に恋するのは煩わしい、この東屋の馬屋へは親しく通う事はするまいと思っています。
参考
『源氏物語』「紅葉賀」巻の催馬楽引用─源典侍の物語における「こま」の繋がり─ 山崎薫 中古文学100(0), 137-149, 2017 中古文学会