1 はじめに
金沢市立中村記念美術館所蔵の手鑑は、重要文化財として認定を受けるほどの資料価値を有している。しかし、この価値を評価した論文は少ない。特に後鳥羽院宸記について、その内容を検証したものは皆無である。(CiiNiiによる)
2014年6月1日(日)~8月31日(日)企画展「館蔵名品百選」を開催し、同手鑑が4年振りに公開されたのを合わせてその日付について考察を試みるものである。
2 「十三日 丁丑 天晴…巳剋陰雲 十四日戊寅 天晴…子剋雨間降」から
日本暦日便覧により、後鳥羽院の寿永(1182年)から隠岐に流された承久三年七月までで、十三日が丁丑(ひのとうし)の月を探し出し、同時期の日記である九条兼実の玉葉(玉)、藤原定家の明月記(明)の天候の記述をみると次の通り
文治四年(1188年)六月十三日 十三日 玉 晴 十四日 玉 晴
建久四年(1193年)七月十三日 十三日、十四日 記載無し
建久九年(1198年)十月十三日 十三日、十四日 記載無し
建仁三年(1203年)十一月十三日 十三日 明 晴 十四日 明 陰、雨間降
元久元年(1204年)正月十三日 十三日 明 晴 十四日 明 晴
承元三年(1209年)二月十三日 十三日、十四日 記載無し
建保二年(1214年)五月十三日 十三日 明 晴 十四日 明 晴
となる。
3 「関白太相国参」から
関白が、置かれていたのは、
九条兼実は、建久二年(1191年)から建久七年(1996年)
近衛基通は、建久七年(1996年)から建久九年一月(1198年)
近衛家実は、建永元年(1206年)から承久三年(1222年)
の三期となっており、文治四年、建久九年十月、建仁三年及び元久元年が除かれる。
つぎに太政大臣は、
藤原兼房は、建久二年(1191年)から建久七年(1196年)、正治元年(1199年)出家
藤原頼実は、正治元年(1199年)から元久元年(1204年)、建保四年(1216年)出家
九条良経 元久元年(1204年)から元久二年(1205年)、元久三年(1206年)薨去
藤原頼実(還任) 承元二年(1209年)十二月から承元三年一月(1209年)、嘉禄元年(1225年)薨去
三条公房 建保六年(1218年)から承久三年(1222年)12月、嘉禎元年(1235年)薨去
の六期となっている。文治四年、建久九年、承元三年、建保二年が除かれる。
臨時の職である関白、太政大臣からは、一致するのは兼実と兼房の建久四年のみである。
しかし、太相国と「太」になっていることから、太政大臣を経験した者と推察され、建久四年は兼実が該当し、承元三年と建保二年は、家実と頼実二人参内したすることができる。
4 記載人物、信成と秀康
十三日の条に記載されている信成は、藤原信成(水無瀬信成 建久八年(1197年)~弘長二年(1262))と考えられる。信成は、後鳥羽院崩御の13日前に所領と菩提を弔うよう依頼があった国宝後鳥羽天皇宸翰御手印置文の申し送った親成の親である。
従って、建久八年生まれであることから、元久元年以前はまだ十歳も満たない元服前と考えられることから有り得ない。承元二年(1209年)で12歳。建保六年(1218年)なら21歳となる。
十四日の条にある秀康は、北面、西面武士で後鳥羽院の近臣藤原秀康と考えられる。歌人でもある藤原秀能の兄である。承久の変の際、京都方の大将軍として美濃、宇治川で幕府軍に敗北し、捉えられて斬首された。生年は不詳であるが、弟の秀能が元暦元年(1184年)生まれであることから、1180年頃と考えて良いだろう。
5 山門円城寺興福寺の争い
十三日に関白らが参内し、明日衆徒の事を話し合うとしている。山門(延暦寺)、園城寺(三井寺)、南都(興福寺)は、常に源平合戦以前から仲が悪く、それらの力と政権がぶつかり合い、源頼政の出陣と園城寺焼き討ち、南都の焼き討ちと平家との争いを始め悉く問題を起こしていた。ともに天台宗の主導権を争う延暦寺と園城寺、興福寺末寺である清水寺と興福寺から延暦寺に主導権が移った祇園八坂神社なども加わって度々戦を繰り返している。
建暦三年八月三日 延暦寺衆徒らが清水寺の焼却を計り官兵と交戦し、建保二年四月十五日 延暦寺衆徒蜂起して、園城寺を襲撃放火し、園城寺の呼びかけで興福寺の蜂起が起こっている。
6 考察
天候に関しては、「子剋雨間降」から午前0時のことであり、明月記の同日条の曇り時々雨との違いから建仁三年は、除かれる。
関白と太相国から、単独であれば、建久四年、関白家実と前太政大臣頼実の二人で参内したとすれば、承元三年と建保二年が考えられる。
更に信成の記述から、建久四年は除かれ、承元三年と建保二年のどちらかとなる。
1月前に起こった仏教勢力の抗争からは、建保二年五月十三日、十四日となる。
参考文献
日本暦日便覧 上 暦日表篇 持統天皇6年(692)~正慶2年(1333)。湯浅 吉美 編 汲古書院
訓読明月記 第2巻 藤原定家 著 今川文雄 訳 河出書房新社
玉葉 第3 九条兼実 著 国書双書刊行会編 名著刊行会
国史大系. 第9巻 公卿補任前編 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
大日本史料 第4編ノ6 土御門天皇 正治元年正月~建仁元年三月 東京帝国大学 編 東京帝国大学史料編纂所
中村記念美術館に問い合わせたところ、既に調査が行われており、建保二年であるとのこと。同手鑑を紹介した「梅庵のたより」(平成7年3月発行)をお送りいただいた。不明だった字も判明した。
感謝申し上げます。
自閑
拙句
さみだれも厭わず歩む古都の華