新古今和歌集の部屋

うすくこき 宮内卿の歿年6 『宮内卿歿年考』での否定

7 『宮内卿歿年考』での否定
(1)石田吉貞氏の論調
石田吉貞氏は、宮内卿の歿年を、明月記から承元元年(建永二年)五月九日とする大日本史料を誤りとして昭和20年頃ある雑誌に投稿したが、省みられず、「辭書、年表、文學史、和歌關係書をはじめ、一般の歴史書に至るまで
」この日を死んだ日としていて、「長明無名抄の成立の考定にあたつて、この宮内卿の歿年月日を最も有力な根據として、この成立年次を考定するのが普通」となっているので、再度詳細に『宮内卿歿年考』(国語と国文学 昭和30年8月)を投稿したとはしがきに記している。
石田氏の説を要約すると、
①明月記の「隆範催昨日輕服(宮内卿局昨日逝去」から「この宮内卿局は『隆範』といふ者の縁者でなければならない」と軽服が明月記の定家の例から姉弟間(俊成の養子の寂蓮を含む)で二日間行われている事。
②隆範は、不確実ではあるが、尊卑分脈から師光の一族にいない事。
③隆範は、明月記により八条院の行事に5度登場し、「八条院の院司であった事が知られるだけでなく、兄弟そろつて出仕してゐたこと」と建春門院中納言日記(たまきはる)にも「たかのり」として登場している事。宮内卿と定家が近い事から、宮内卿の兄弟あたりと考えられる事から尊卑分脈で定家の親族を調べてみると、「定家の異父の兄である隆信の子で、定家の甥にあたり、畫人信實の兄にあたる人間」として「隆範がゐるのである」との事。定家と隆信の母は「八條院の御母美福門院に仕へて加賀とよばれ、その關係からか、その御娘の八條院にも仕へて、五條局といはれた」としている。
④呼称を「八條院宮内卿」としているが、歌人の宮内卿は、「後鳥羽院宮内卿」と呼ばれるべきである事。明月記は、「局」と呼称を用いて区別している事。
との事から、「随つてこの歌人宮内卿の死を承元元年五月九日とするのは誤である」と結論付けた。
この論文が発表されてから、関係者の支持を宮内卿の歿年は不明とされた。石田氏の論調には、異議を挟む余地は無い。
ただし、④で明月記には「局」の名称は無いが、建仁元年の老若五十首歌合には、「宮内卿局」の名称が使われており、名前が知れ渡る前に一般には「局」の名称が使われていたのだろう。
(2)石田吉貞氏の宮内卿の歿年
同論文で、宮内卿の歿年を「はつきり『不明』とすべきであらうと思ふ。そして不明とした上で、あらためて、そのおおよその歿年を考ふべきであらうと思ふ」として、おおよそ
①宮内卿の作歌活動から「建仁三年十一月二十三日、俊成九十賀に袈裟の歌を命ぜられてよんだのが最後で、それ以降は全く見る事が出来ない」とし、建礼門院右京大夫集から、宮内卿の誤歌を捉え、「それ以降ふつりと作歌が絶えてゐるのを見ると、極度の悲観觀のために病んで死にでもしたのではないか」として、袈裟歌以降「餘り長く生きてゐなかつたのではなかろうか」としている。
元久二年三月二日、後鳥羽院から「現在歌人の歌も卷首におけといふ勅命があり」定家、家隆、俊成卿女が三人おかれたが、宮内卿の歌歴や院の寵愛が俊成卿女より上だとして「もしもこの時、彼女が生存してゐたならば、やはりその歌は卷首におかるべきであった」とし、新古今和歌集には無い事から「すでにその時、死んでゐたからではないか」と考察している。
③宮内卿の享年について、彼女の歌が初めて見える正治二年(1200年)十一月七日の歌合(新宮三首歌合)に、定家と番組し、持となっているので、「いかに若くても十八九歳ほどにはなつてゐたであろう」とし、その計算から元久二年は二十三四歳となり、「二十五六まで生きてゐたのでは、當時としてはすでに若死を惜しまれる年ではなくなつてゐる」と歿年齢からも元久二年以前説を展開している。
これについての支持者も多い。
①については、宮内卿は、俊成九十賀について、式典以前の八月十五日に開かれた屏風歌、袈裟に建礼門院右京大夫が縫い付ける時間が必要なのでその後、そして式典当日の俊成への歌人たちの贈答歌の三回出詠していた事が、源家長日記(欠落部分は尊経閣文庫 賜釈阿九十賀記)により判明しているので、袈裟歌が最後とはならない。
更に、前述の通り元久元年(1204年)十一月二十日 春日社歌合に宮内卿は出詠しているので、この日以降となる。
②について、「院中における歌歴からいつても、院の御寵愛からいつても、俊成卿女の上にあつたのであるから」と言うのは、石田氏の感想でしかなく、根拠のある話ではない。
勅撰集は、どの歌が撰歌されたかという事の次にその配列が重要。立春に始まり歳暮に終わる四季、初恋に始まり別れで終わる恋歌などと勅撰集が一つの物語となるように配置される。「立田山あらしや峰に」の歌がどんなに優れていても、晩秋の歌を秋歌下の巻頭には持ってこれない。この配列を乱してまで巻頭に持っては来ない。
ちなみに、宮内卿の歌と巻頭歌の作者をみると、
春歌上 九条良経
春歌下 後鳥羽院
夏歌  持統天皇
秋歌上 大伴家持
秋歌下 藤原家隆
冬歌  藤原俊成
恋歌三 儀同三司母
雑歌下 菅原道真
であり、巻頭を飾る余地も無い。
又、配列で一番巻頭に近い歌は、春歌上の立春歌の「かきくらし」であり、良経、後鳥羽院、式子内親王の次であり、俊成、俊恵、西行と続く栄誉ある位置に配されている。
元久元年十一月三十日に薨去した俊成の忌中により、その間の動静は定家の明月記から窺えないが、和歌所に宮内卿の兄具親が寄人として出勤している事が、定家復帰後軽服を纏っているような様子は無い。
③についても、歌合で定家と番組して、実質勝の持になったからといって、「十八九歳ほどにはなつてゐたであろう」と言うのは、女流歌人に対する偏見の域を出ていない。
田渕句美子は、異端の皇女と女房歌人のなかで、歌壇にデビューした新宮三首歌合の時期を「この頃、宮内卿はおそらく十五歳前後であったと推定される」としており、田渕氏も根拠が少ないが、二十歳前後で亡くなったと言う記述からの逆算であろう。
宮内卿の父師光は、天承元年(1131年)頃に生まれ、50歳頃出家とある。つまり、1181年頃出家した事になるが、出家後に不邪淫戒を犯して子を作る事は無いと考えると正治二年で妊娠期間も含めると十八歳となる。不確定な~頃、~頃の計算なので、確定は出来ない。
同母兄の具親も生年は不明だが、弘長2年(1262年)の三十六人大歌合に出詠しているが、既に80余歳の高齢だったとあり、計算すると1181年以前生れた事になるので、妹はそれ以降となる。田渕は、正治二年の具親を「18歳位」としている。
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