行き先不明人の時刻表2

何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

富山のライトレールも「まちづくり」の一環なんだ

2024年11月29日 | 鉄道


富山「富岩水上ライン」で富岩運河の見どころを堪能しながら、環水公園から終点の「岩瀬カナル会館」まで乗船。この乗船券には復路の路面電車の運賃が含まれていて、富山の新交通インフラをダブルで楽しめるといったものになっている。
チケットの案内には「路面電車」という表記になっているが、これは富山自慢のLRT(ライト・レール・トレイン)で、富山地方鉄道の「富山港線」ということになる。正確に言うと「トラムトレイン」という分類になるそうだ。
私が乗車した「岩瀬浜」は、富山港線の終点、そこから専用軌道を利用して旧JRの富山港線を活用し、市内に入って路面軌道を「富山駅」へ。富山地鉄の市内軌道本線や環状線(市電)と相互乗り入れをしている。(富山港線は第三セクターの時代があり、市電路線にも富山市が所有する部分があるなど、富山市が密接に関与している。)



さて富山港線、「富岩トラムライン」とでも呼ぼうか?岩瀬カナル会館から岩瀬浜駅までは、ほんの数分の距離。運行間隔は日中でも15分感覚が保たれており、すでに入線していた緑色の2連接低床車体の0600形は、富山ライトレール時代からの新時代を切り開いた生え抜き車両。「ポートラム」の愛称がある(写真最上段、見出し画像は剱岳をバックに走るポートラム)。
8編成ある同形車両には異なったカラーが施され、キャラクターもある。生え抜きといっても2006年運用開始だから内装もきれいで都会的。連接部にロングシートでボックスシートもある。もちろんワンマン。そのほかに、デ9000形(セントラム、写真上の交換列車)、三連接のT100形(サントラム、写真下・富山駅前で)が市電区間と主に共用運転をしている。(0600形、デ9000形は新潟生まれ!新潟トランシス製。)
岩瀬浜から富山駅へは30分弱。「奥田中学校前」までの専用軌道(第一種鉄道事業)線から、道路(軌道事業)に入ってクルマと一緒に走ったり、反対列車とすれ違ったり、牛島町の交差点で大きくカーブし富山駅に向かう車窓は、何とも都会を感じてしまう。



ところで、この富山港線は「富岩鉄道」によって大正期に開業した。その後、合併などにより会社名を変えるなどして戦時下に富山地方鉄道から国有化され、国鉄からJR西日本の路線となるのだが、JRの民営分割・合理化の流れの中で、JR西日本は超赤字路線だった同路線を実質廃線の検討をしていることを明らかにする。
それを何とかしようと富山市が中心となって第三セクター「富山ライトレール」が設立され、2006年(平成18年)開業する。お隣、高岡市の万葉線の例もあったのだが、国内で路面電車が新設されるのは実に久々のことであり話題を呼んだ。また、国有化を経て戦前の事業者(富山地方鉄道)に運営が戻るのも珍しいこととか。
富山市内を走る電車には歴史があり、そしてコンパクトシティを目指す富山市のまちづくりにも注目が集まり、宇都宮のライトレール事業にも波及したともいえる。様々な形の電車が走る市電を見ていると、何とも羨ましさと嬉しさが湧いてくる。(写真下:富山駅前の市電乗り場と、「県庁前駅」で古参電車デ7000形の雄姿。)



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水のエレベーターを体験できる「富岩水上ライン」に乗船

2024年11月25日 | 土木構造物・土木遺産


今回は富岩運河そのものを紹介しよう。前回触れたとおり富岩運河は昭和初期に赤司貫一の計画立案による都市計画の一環として誕生した。一時は海運の利用頻度も下がりヘドロ化するという場面もあったが、現在も工事進行形の「とやま都市MIRAI地区」事業として見事に復活を遂げた。
かつての船溜まりであった環水公園を起点として、岩瀬浜までの延長約5キロの運河だが、両岸には遊歩道や休憩スペースなども完備されジョギング・散歩コースとして利用する市民も多いが、観光であれば「富岩水上ライン」に乗船することをお勧めしたい。もちろん私も乗船しました!
クルーズ船は2009年の運航開始、富山県と富山市から委託を受けて「富岩船舶」が運航しており、この夏、総乗船客数が60万人に達した。前回述べたとおり環水公園も見どころが多いが、富岩運河クルーズでは土木遺産や文化財が乗船しながら存分に楽しめる。



私が乗り込んだのは最新鋭の「kansui(かんすい)」。環水公園にふさわしく、とてもスタイリッシュな形をしている。全長18メートル、定員55名、後部はオープン席となっており(写真上)、川風?運河風を浴びながらのクルーズが楽しめる。
いくつか運航コースがあるが、私は運河の全容を見るべく終点の岩瀬カナル会館浜まで行く便に乗船。70分、1700円(復路・路面電車乗車券付き)。これが富岩運河の見どころ満載でクルーズで、乗船するガイドさんがタイムリーに注目ポイントを解説してくれる。最大の見せ場は、乗船したまま「中島閘門(こうもん、写真下)」に突入すること。
以前、東京の扇橋閘門石巻の石井閘門を紹介したことがあるが、富岩運河の中島閘門はクルーズ船がそのまま閘室に入って、上流と下流の水位差を人工的に調整する水のエレベーターを体験できる日本で唯一の閘門クルーズになっている(他に中島黄門の操作室の見学するコースなどもある。)。




中島閘門は、富岩運河開削とともに建設され、1934年(昭和9年)に完成。パナマ運河方式の前後の扉を閉めて水位を調整する方式(複扉室(ふくひしつ)閘門)で、10分少々で水を出し入れできる。昭和の土木構造物としては初めて国の重要文化財に指定されている。
そのほかにも、「むくり護岸(曲面護岸、写真下)」は上部を曲面にすることで材木を転がすようにして積み下ろしできるようにしたもの、こちらも国の重要文化財。年代物のゲルバー橋の「永代橋(1938年完成、写真下)」とともに中島閘門の近くにあって、クルーズ船から至近で見ることができる。年代物のゲルバー橋が真下から見れる!
また、クルーズ船の終点でもある岩瀬地区(終点の岩瀬カナル会館から、岩瀬運河を渡ってすぐ)には、「北前船廻船問屋・森家(国重要文化財)」、「馬場家(登録有形文化財)」などをはじめ、岩瀬の古い街並みを散策することも可能である。とても魅力的な富岩水上ライン、環水公園とともにぜひ一度ご堪能いただきたい。桜の時期がいいかも!



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富山の都市計画の中で生まれた富岩運河と環水公園

2024年11月23日 | 土木構造物・土木遺産


富山に来た最大の目的は運河、富山市内にある「富岩(ふがん)運河」そのものと、「環水公園」等の関連施設を見に来た。以前、江戸期から機能していた仙台の「貞山運河」に触れたことはあったが、富岩運河は昭和初期になって開削されたもので、その後富山のまちづくりと密接に関係することになった。
富岩運河は、1930年(昭和5年)着工、1935年完成。富山駅北側から神通川に並行して河口近くにある岩瀬(東岩瀬港)までの約5キロの運河だ。この運河の完成により、工業資材や木材などの運搬が容易になり、運河沿岸は工業都市・富山を形成するきっかけとなった。
ただ、単に運河を整備するというだけではなく、都市計画事業として市街地の区画整理、街路、公園整備を一体的に行うというもの。これは内務省技師・赤司貫一(あかし・かんいち)の立案で、当時「日本初の試み」として称賛されるモデル的事業になるのである。(運河の誕生には、神通川の洪水の歴史、馳越(はせこし)線工事や旧神通川(松川)の跡地埋立などが深く関連するのだが、それらは次回以降に!)



しかし、時代の流れによって、物流は船からトラックに変わり、運河も貯木場に利用される程度で通行する船も少なく、水質悪化、悪臭などにより埋立てて道路にする計画が持ち上がったのは昭和50年台(1980年頃)。しかし富山県は、市街地の貴重な水辺として活用を図ると方針を大変換した。
1985年(昭和60)に旧建設省の「新都市拠点整備事業」の一環として、富山市も「とやま都市MIRAI地区」として富山駅北62ヘクタールを再整備することになり、1988年着手。運河の南端にあった船溜まり一帯を「富岩運河環水公園」として整備することとし、20余年の長い年月をかけて憩いの場と水に親しむ環境を作り出した。(富山駅方向は、まだ工事は進んでいるようだが…)
公園のシンボル「天門橋(見出し写真と写真上)」のほか、美術館や野鳥観察舎、野外劇場(写真下)などの公共施設のほか、公園を望める場所にレストラン・カフェなどがある。公園内の「スターバックスコーヒー富山環水公園店(写真下)」は全世界のスタバの中から、最も優れたデザイン店舗にも選ばれている。とにかく富山駅に近い(徒歩でも10分弱)場所に広大な公園があり、素敵な水辺の空間が収まっている。富山の新しいランドマークになっている。



この大事業にもつながった富岩運河と都市計画事業だが、赤司貫一は土木界では有名ではあるものの、市民にはその名があまり認知されていないように思える。常願寺川の砂防工事において功労を称えられているデレーケや赤木正雄との違いは何か?砂防・治水は直接的に災害を防ぐという意味では重要だが、都市計画事業は少しインパクトに弱い?
確かに人命にかかわる問題と生活利便性は比にならないということかもしれないが、羨ましいほどの素敵な公園を持つ富山市であるものの、「シティブランド・ランキング(住みよい街2021・県庁所在地)」で32位(新潟市31位、1位は福岡市)。市民や行政は富岩運河や環水公園の存在、そしてランキングをどのようにとらえているのだろうか?
旧建設省OBで白井芳樹氏という人がいる。長年富山県で都市計画・土木行政にかかわり、富山県土木部長も歴任した方である。この方が富山の都市計画事業や赤司貫一について著書を出版したり講演活動を行っているようであるが、赤司貫一について公園の一角にでも紹介するコーナーを作ってほしいと思うのは私だけ?
(写真下:環水公園から富岩運河へ、次回は「富山水上ライン」に乗船して富岩運河を紹介する。)


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新湊・放生津は、まち歩きにぴったりなスポットばかり

2024年11月19日 | 旅行記・まち歩き
富山県射水市新湊、実に魅力的な街であり、こちらもまち歩きにはもってこいのところがある。今回は時間の関係上、クルマでくるくるっと回ることになったので詳しくは触れられないが、個人的な志向で数か所だけご案内したい。



新湊には漁港があり、富山湾の新鮮な魚が味わえる店も多い。JF新湊(新湊漁業協同組合)では早朝だけでなく、午後1時からの昼セリなどを実施。豊富な漁獲高、種類を誇っているが昼セリでさらにその新鮮さは保証されているという。
そんな海の幸を求めて、前回も触れた海王丸パークにある「新湊きっときと市場」でランチを。観光バスの団体昼食の時間を避けて入店。「高志(こし)の紅(あか)ガニ」は富山のブランドガニ(写真上)。そのほかにもホタルイカ、白エビ、ブリなど富山を代表する海の幸が並ぶ。(「きときと」とは富山の方言で「新鮮な」という意味。)
施設内の海鮮レストラン「きっときと亭」で「富山御膳(写真下)」を注文。イカ黒作り、白エビ刺身、ホタルイカ沖漬けなどに氷見うどんもついてくる。安易な盛り付けに見えるがコロッケも白エビ入り。欲張りな自分は、富山湾オールスターの定食をチョイスしたのである。売店の白エビソフトクリームには手は出しませんがね!



新湊の湊町は「放生津」という町で、古くからの湊町。旧放生津潟(現富山新港)と富山湾を結ぶ「内川」という川がある。実は、3キロ弱の運河で、住民生活やこの地の繁栄と歴史にも深くかかわってきた川なのである。
放生津は、鎌倉時代には越中守護が置かれ、室町時代には「明応の政変」により将軍・足利義材(あしかが・よしき=足利義稙(よしたね))の逃亡先にもなった地である。もちろん、江戸期には北前船の寄港地としても栄える(ただし、日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に富山市・高岡市は認定されているが、射水市(放生津)の名前はない。地元ではかなり怒りの声が上がっている?)
そんな歴史にかかわってきた内川は、ゆったりとした流れで(流れているのかな?)湊町の繁栄を支え、現在も観光船が就航するとともに漁船の係留場所になっている。ここを「日本のベニス」と呼んでいるようだが、その呼び方は歴史とはミスマッチじゃないかなー。



その内川の両岸のノスタルジックな街並みに加え、橋がまち歩きの中でも注目を集めている。途中、臨港道路の「奈呉の浦」にかかる「奈呉の浦大橋」を含めると15橋。歴史を感じさせる造りが街並みにマッチしていることに加え、モニュメントや足利義材の像がある橋もある。
その中で最も美しいといわれるのが「東橋」。スペインの建築家が設計したものだが、木製で切妻屋根を持つ歩行者専用の橋で、両岸に立派なガラス張りの塔がある。両岸の交流を図ることはもちろん、観光客の休憩スポットしても人気を集めている。(写真上、写真下)
日本における歴史的湊町で、日本のベニスと言われているという中で、設計者も悩んだのではないかと思うのだが、和洋折衷とも思えるシックな面持ちでありながら何かモダンな感じも否めず、見事に折衷のど真ん中を打ち抜いた感じがするのだがいかがだろうか?



私が放生津を訪れたのは10月1日。やけに臨港道路に路上駐車する県外ナンバーのクルマが多い。実はこの日は「放生津八幡宮」の秋季例大祭。県外ナンバーの正体は露天商のクルマで、橋を見に行くといっても新湊の市街地はあちこちで通行止めで何回か迂回やバックの切り返しなどを求められる。
富山市街のホテルに帰ってからテレビニュースで知ったのであるが、この日は祭りの曳山巡行の日で、各地区の曳山13基が昼は花傘山、夜は提灯山となって引き回されるのである(写真下:地元局のテレビ放送から)。富山湾沿岸の湊町で同様の曳山があるそうだが、なんでもこれらは「放生津型」という曳山文化であり、ここのお祭りが本家本元とのこと。
しかも、この行事は「国重要無形文化財」であり、「ユネスコ無形文化遺産」だったとは。まあ、このブログで紹介するネタとしてというより、単に見ておけばよかったなと。こればかりは年に一度のこと、「忘れ物を撮りに行く」ってな技はなかなかできませんからねー。



新湊大橋、海王丸パーク、富山湾の幸、内川、東橋のほかにも文化財や見どころ満載の新湊。自分としては、万葉線(新湊線、写真下)や富山地方鉄道射水線の廃線跡(写真下:旧打出駅付近)なども気になったのだが、そのほかに見どころ紹介はまたの機会とし、新湊から富山市街に向かうことにした。とにかく魅力的な町でした!

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富山新港にかかる日本海側最大の斜張橋「新湊大橋」へ

2024年11月18日 | 土木構造物・土木遺産


再び富山にやってきた。今回は山ではなく、海沿い。まず目指したのは富山新港、富山県射水市。「新湊」といったほうがピンとくるのだが、ここに架かる日本海側最大の道路橋「新湊大橋」を見に来たのだ。
橋のある富山新港は、かつては放生津(ほうじょうづ)潟という潟湖であったが、富山・高岡を工業都市として発展させるため、いわゆる「伏木富山港」の中核として開削・掘り込み港湾として整備された。1968年開港。伏木富山港として国際拠点港湾に指定されている。(九州を除く日本海側では、新潟港(西港・東港)と伏木富山港だけ。写真下:富山新港入口と新港大橋から富山新港を望む。)
この掘り込み式の港湾の整備よって、かつては道路・鉄道でつながれていた周辺地域は分断されたが、港周辺に企業が進出し、コンテナを扱うターミナルの設置、公園等の観光施設の整備が図られることによって、物流や交流を促進させるために新湊大橋が建設されることになり、10年をかけて2012年に供用開始となった。



臨港道路富山新港東西線は国道415号のバイパス線でもあり、国と県が事業費494億円を負担し建設。東西のアプローチ部分を含むと3600メートル、5径間連続複合斜張橋で主橋梁部600メートル、高さ127メートルの東西主塔から72本のケーブルが張られ、長さ360メートルの主桁(5径間の真ん中)を支える(引っ張る)構造になっている。
大型クルーズ船の航行も可能なように、橋桁から海面までは47メートル。とにかく存在感抜群!日本海側最大の斜張橋ということであるが、高い、大きいだけでなく、美しい!白色を基調としていたり、主塔を「A」型にして、繊細ともいえる美しさを見せてくれる(写真下:斜張ケーブルが伸びる主桁部の道路、西側アプローチはループ式になっている。)
西側の海王丸パークからだと立山連峰をバックに見ることができるし、みなとオアシスやスポーツフィールド(東橋詰の堀岡側)、「新湊きっときと市場」などの周辺施設も整備されていることから、観光客のビューポイントになっている。なお、帆船「海王丸」は商船学校の実習船であったが、伏木富山港振興財団が新港に恒久係留して一般公開している。



新湊大橋は、自動車専用道路(二輪車、原付自転車OK)であるが、実は主桁部は二層構造になっていて、桁下には自転車歩行者用の通路が吊り下げられるような形で設置されている。全面覆われている全天候型の通路は「あいの風プロムナード」の愛称が付けられている(写真下)。
東西の両主塔部の下には駐車場があって気軽にアプローチが可能。主塔近くの橋脚に設置されたエレベーターで桁部まで一気に上がることができるが、主塔・主桁を下から見上げる壮大な景色、上へ行って主桁通路部の窓からは港の全景や海王丸パーク(写真下)、遠くは立山連峰や富山湾から能登半島などを望むパノラマなど、両方堪能できるスポットでもある。ぜひ足を運んでほしい。
橋は最新技術による耐震・耐風構造になっているというが、揺れるんじゃないですかねー?なお、風速25メートル以上、波浪警報などが発令されている時は通行止めにあるというので、事前に情報を確認すること!
(新湊大橋は、2012年度「土木学会田中賞(作品部門)」を受賞。田中賞は、永代橋・清洲橋などの名橋の生みの親、かの田中豊に因んだ橋梁・鋼構造工学界の功績を称える賞。今回の記事も土木の日(11月18日)に因んだ話題でした!)



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「歩きたくなる温泉街」月岡温泉を久々歩いてみると

2024年11月15日 | 旅行記・まち歩き
新潟駅で、カヌレの店「canelé de CHIANTI(カヌレ・ド・キャンティ)」を見つけたとの記事を掲載したが、実はここのカヌレとはひょんなことで出会いが始まる。そう新潟駅万代口近くにあったイタリア料理店「Atelier CHIANTI」からのコロナ禍での進化系カヌレ誕生
娘が、近くの月岡温泉にカヌレの店がオープンしたので行こうというので腰を上げるのだが、やっぱりCHIANTIだった。新潟市内女池明神に支店を見つけ(実は見つけた時点でこちらが「本店」、駅前の店は宣言どおりイタリア料理のレストランとして再オープン)、月岡で出会い、新潟駅は4回目という出会いでもある。すでに東京の一等地に支店を2店舗、日テレ「スッキリ」やフジテレビ「めざましテレビ」など全国放送でも取り上げられている名店になっている。
今回、CHIANTIに月岡温泉で出会えるとは!月岡温泉が提唱する「歩きたくなる温泉街」という企画の中で、新潟生まれの品物を扱うコンセプトショップ群のひとつ「新潟ロースト『煎(IRU=いる)』」を出店した(写真下)。新潟駅も同様、東京だけ向いている店ではなかった。もちろん、味は変わらずでしたよ!(月岡温泉「煎」では10種類のカヌレとコーヒーを販売。)




ただですねー、この月岡温泉の他の店も注目です。CHIANTIのように、自家製品を販売する店だけではなく、体験型の店や新潟の名産品を使った店、県内の名店・名品を集めた店など、そのコンセプトに合わせて10店舗が同じデザインが施されたロゴを掲げてオープンしているんです。
県内のプレミアム日本酒を試飲・購入できる「蔵(KURA=くら)」、米菓テーマで手焼きせんべいを焼ける「田(DEN=でん)」、県内ワイナリーのワインの店「香(KAORI=かおり)」、和菓子の店は「和(NAGOMI=なごみ)」、ドライフルーツとベジタブルの店「恵(MEGUMI=めぐみ)」といったところ。
そのほか「旨(うまみ)」(干物・海産物)、「米(べい)」(米粉商品)、「甘(あまみ)」(チョコレート)、「実(みのり)」(ジェラート・スムージー)など、「煎」を加えて10店舗。温泉街を訪れた際にふらりと立ち寄って県内産を中心とした美味しいものを口にしたり、お土産として購入することができるのである。




我が家御一行様も、カヌレのほかに、「和」で和菓子とわらび餅ドリンク(写真下)を購入、「恵」でドライフルーツセルフ詰め放題を体験(写真下)してお土産にした。(出かけたのはちょうど昼どきだったが、多くの店で昼休み時間(休憩時間)を設けているので、来店時はチェック要!)
そんな購入したものを宿だけでなく、温泉街にある足湯(湯足美=ゆたび)やブルワリー(月岡ブルワリー)、源泉の森、月あかりの庭など、これまたちょっと温泉街から目を離した隙にできた魅力的な場所を散策しながら楽しみのもいい。まあ、その「歩きたくなる」といったところが狙いで、合わせて賑わいを醸し出そうというところなのだろう。




どこの温泉街はコロナ感染症による旅行控えの影響をモロに被っているし、月岡温泉も何軒かの旅館や飲食店・商店が廃業・撤退ということもあったが、その中で何と積極的に誘致・開業するという手に打って出たのが今回紹介の店。それに呼応する会社・店舗も見事としか言いようがない。
多くは新潟をアピールするうえで、この月岡温泉の地に集結をということだろうし、canelé de CHIANTIをはじめとして県外観光客にアピールする狙いもあるのだろうが、近くに住む県内住民にとっても様々な県内産の魅力を再発見できる場所にもなりそうだ。
(写真下:月岡温泉のメインストリートと足湯「あしゆ湯足美」入口)



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新・新潟駅(その4)、あの店も出店!CoCoLo新潟の魅力と課題

2024年11月11日 | 鉄道
新しくなった新潟駅、あまりにもエキナカのCoCoLo新潟が変貌し、魅力的であるがためについつい長居をしてしまっている。が、まあもう少しだけ紹介し、今回で一区切りとしたい。



前々回紹介したとおり、CoCoLo新潟は、新潟駅自体の機能の関係か、バスターミナルをはじめとした公共交通のアクセスの関係から、EAST SIDEに力が入っているような気がする。まあ、これは仕方ないこととしても、実はWEST SIDEにも魅力的なショップがある。
西口の改札前の通路は(写真上)、万代広場と駅南のけやき通り方面を結ぶ通路にもなっていて、スターバックスコーヒー、吉野家、丸亀製麺など全国展開するチェーン店など(写真上)通勤通学の地元客の利用も多い場所ならではのラインナップのほかに、「ニシデリストリート(写真下)」というアリアがある。
このエリアの奥まったとこっろにあるのが「市玄」というラーメン屋(写真下)。あえてEAST SIDEの「ニイガタバル★麺横丁」のグルメエリアから離れたこの場所に、以前紹介したことのある(この時は「ラーチャン」のカテゴリーで)新潟あっさりラーメンの人気店がひっそりと店を構えているのである。この店、私自身もイチオシの店なので、見つけたときには嬉しさの限り。



市玄は、前回少し触れた「ことぶき寿司」と同じ会社「enn」の経営。ennは、ことぶき寿司を展開する中で本社機能を新潟市中央卸売市場内に移転、市玄をオープンさせ、その後も場内に2店の飲食店を早朝から営業している。新潟の台所を支えるために働く人たちの胃袋を支えている。
市玄の看板メニューは「朝っぱラーメン(写真下)」というマグロなどの海鮮系で出汁を取った究極のあっさりラーメン。朝早くから食べることができるようにとの味付けであるが、市場内にある本店では握り寿司やチャーハンのセットメニューが人気である。
そのラーメンに新潟駅で出会うことができるとは。ただ市場内の本店は午前6時の開店だが、CoCoLo新潟のWEST SIDEニシデリストリート店はオープンスペースのため、エリア内の他店と開店時間を合わせ午前10時、メニューも本店より絞っての営業となっている。もちろん、あさっぱラーメンはありますよ!



このニシデリストリートは、名前のとおりテイクアウトを中心としたお店が並ぶエリアで、市玄のスペースでも海鮮系の商品を開発・販売するつもりだったらしいが、イレギュラーで人気ラーメンの駅進出となった。ただ、そのためか店のスペースは極めて狭い。隣の「とんかつ太郎(写真上)」も同様、狭いイートインでのメニューはカツ丼一本。
とんかつ太郎?ここはタレカツ丼発祥の店ですよ!こちらも新潟の名店。そのほかにも、燕三条で人気イタリアンレストランのBit Market(写真下)、新潟米をアピールしようと壱成(新潟市)が運営するおにぎり屋「新潟おにぎり・笑ん結(えんむす、写真下)」、おなじみ角中グループの「はっぴ商店/横浜こがね庵」などが出店している魅力的なエリアなのである。
ただ難点はとなると、いまのところ駅化改札を挟んだEAST SIDEやバスターミナルとの距離的な問題。以前、西自由通路となっていた場所にあるので、今後工事中の万代広場の完成とともに、駅前の弁天方面と西改札へのアクセスがどうなってくるのかがカギを握る場所になりそうだ。



ということで、新しくなった新潟駅の魅力や課題をダラダラと書き込んでみたものの、新潟の玄関口はとにかく綺麗になったし魅力的なところにもなったという感じはするが、今後は「ニイガタ2㎞」を機能的にリンクさせ、集客を図り、まちの活性化を見出せるかが一番の課題となる。
特に、古町をどうするか?ご承知のとおり、当時の新潟の一大ショッピング街であった古町で、鳴り物入りでオープンした地下商業施設の「西堀ローサ」は来春運営会社(三セク)が会社の解散を発表し、テナントへの退店要請を行うことになっている。
古町も「古町どんどん」や「古町夜市」など、商店街や市民団体がイベントでの集客を図ろうと頑張っているが、一方で新潟駅のリニューアルに巨費を投じてきただけに、その恩恵を2キロ圏内が享受するための具体的計画や、交通体系を含めたインフラ整備・対策なども、重ねて新潟市は求められることになるだろう。
(写真下:現在工事が進められる新潟駅前万代広場の工事現場と、仮の万代口から見る駅前通りの「東大通」は、万代・万代島地区、古町地区を結ぶ幹線である。)

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新・新潟駅(その3)、「食」にも新潟満載のラインナップが

2024年11月07日 | 鉄道
今春オープンした新潟駅のエキナカ「CoCoLo新潟」は、食事を楽しむといういう点でも充実している。前回総菜やテイクアウトの店もあると紹介したが、ここでは店舗業態から2つレストランエリアと駅弁について、新潟発という視点でその特色づくりを探ってみたい。



EAST SIDE2階の一番東側、南館への通路近くには「ニイガタバル★麺横丁(写真上)」がある。遅い時間までお酒の楽しめるバルのほか、特に山形市とラーメン消費量を争う新潟の玄関口・新潟駅にあって、県内ラーメンの名店が出店している。
新潟市の人気店「ラーメンいっとうや」をはじめ、新潟をラーメン王国に押し上げただるまやグループが「だるまやNIIGATA BASE」、同じく角中グループは「まぜしゃもじ」、そして燕三条背油ラーメンの名店として全国・世界系列17店を誇る「燕三条らーめん潤」だ。
このラインナップは、県外客への大きなアピールとなるだけではなく、新潟県民も注目のスペースになるのではないだろうか?半ラーメンを注文してハシゴしたいくらいでもある(「半ラーメン」というメニューがあるかは不明!)。



新幹線東改札口を出て南側のエレベーターを降りるとWEST SIDE1階の「エキナカキッチン」がある。こちらはちょっとしたレストラン街になっていて、ゆったりと食事を楽しむのによさそうだ。
全9店舗、うち新潟初出店の店が6店舗ある。仙台牛タンの「利久」や今月オープンの「鎌倉パスタ」も初上陸組。ただ、県内企業としては、阿部幸製菓(小千谷市)が「米」つながりでフォーのレストラン「PHO’ MINH(フォーミン)」を、enn(新潟市)が「ことぶき寿司 c/o まいもん寿司」を新たにオープン。県内注目企業の出店だ。
ことぶき寿司は県内でも寿司店を数店営業している実績があるが、実績というと旧新潟駅時代から長年CoCoLo新潟で営業してきた「長岡小嶋屋」がここでも営業していることがうれしい。新潟県人としては「へぎそば(写真上;長岡小嶋屋の野菜てんへぎ)」は県外からのお客様に是非食べていただきたいからね!



だた、エキナカの飲食店やテイクアウトの店が充実をしていく中で、心配なのは駅弁である。米どころ新潟の駅弁文化はぜひとも残したいと思っているのだが、ありましたよ,駅弁屋!新幹線東改札口の前に「新潟三新軒」のショップが(写真上)。
こちら新潟三新軒の看板が出ているものの、以前から連携している新発田三新軒、神尾弁当の弁当もを扱っている。全部で17種類。自分自身は電車に乗る機会は少なくなっているものの、車内で駅弁を楽しみたいという人のため新潟の力を見せてほしい。
お米といえば、エキナカのコンビニである「NewDays(ニューデイズ、写真下)」では、駅弁とともに白いコメのおにぎりのパック(写真下)を販売をしていた。県内産のブランド米3種類「南魚沼産コシヒカリ、ミルキークイーン、新之助」の三種類の食べくらべができるというもの。これもインパクトあるなー!


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新・新潟駅(その2)、心揺さぶる「CoCoLo新潟」のリニューアル

2024年11月05日 | 鉄道


新潟駅、前回紹介したとおり、駅やホームそのものが高架化されて、バスターミナルが移設・新装したことが駅周辺整備事業の最大のポイントではある。しかし、自分自身一番驚いたのは、エキナカ(実際は改札外)の商業施設「CoCoLo(ココロ)新潟」の大変貌である。
新潟駅2階の改札内コンコースを東西通路で挟んで、加えてバスターミナルを挟んで1階にも、かねてから「ビックカメラ」などが入っていた南館や西側のメッツ館などを合わせると、テナントの数は160店舗。
今春、お土産品や食料品などを中心としたEAST SIDEがオープンし、次々にファッション・コスメエリア、バル&麵横丁やグルメストリートなど、駅を真ん中に西に東にエリアを拡大してきた。(写真上:南館からEAST SIDEへの入口、EAST SIDEの案内図)



CoCoLo新潟のグランドオープンは、今年4月25日(3月27日にEAST SIDEの一部が先行オープン)。JR東日本新潟シティクリエイトが運営する。(写真上:東改札口方向からEAST SIDEへ、WEST SIDE1階のファッション・コスメエリアは百貨店の様相)
お店の数もそうだが、とにかく広い。以前のCoCoLoは直線的な通路と店舗の区割りだったが、その通路を何本も張り巡らし、時には曲線を描き、1階に2階に。東京駅より複雑かもしれない。
自分は下調べによる情報インプットと鉄分が入った血により大体の方向感覚は備えての新潟駅への出陣であったが、初めてだと道に迷うというか、なかなか目的地に行きつけないということもあるかもしれない。



東口改札前の通路がエキナカのメインストリートだが、CoCoLo EAST SIDEへの入口が並んでいくつか設置されている。一等地には新潟の名店が並ぶ。大阪屋、加島屋、丸屋本店、田中屋本店といった既存組に、ブルボンや亀田製菓、ヤスダヨーグルトなどの新潟ブランドが並んでいる。
新潟県初進出で話題になっているのは「成城石井(写真下)」、こちらも東改札に近い位置に陣取る。県内初出店は、37店舗。このほかほか、以前このブログでも紹介してきた「中条たまご(写真上)」「canelé de CHIANTI(Atelier CHIANTI、写真上)」などのショップもある。
WEST SIDEには既存の「ぽんしゅ館」があるが、EAST SIDEのお土産品売場の一角に、吉乃川、久保田(朝日商事)のショップ(写真下)もある。以前の東館にも種類を扱う店舗はあったが、日本酒王国・新潟のメジャーな蔵元の力の入れようが分かる。



食料品、生鮮品はEAST SIDE1階の一番東側にあって、佐藤食肉が肉と加工品を、にいがた海鮮家(大栄魚類)が魚・海産を販売する。このエリアは旧万代口のCoCoLo同様に集中レジ方式。そのほか弁当・総菜を扱うテナントもこのフロアに並んでいる。
目を引くのは「明治屋(MEIDI-YA、本社・東京都)」の新潟ストアだ(写真下)。というのも、明治屋は輸入食品やジャム、冷凍・レトルト食品、自社ブランド食品などで人気を得ているが、実は19年前に古町5番町で店舗を閉店、再度新潟に帰ってきた大手食品ストアだ(集中レジ内のため、酒類の販売はない。)
新潟ストアの店長・渡邊竜之さん(写真下)は、19年前の古町店舗閉店時の店長。一旦明治屋を離れて仙台で仕事をしていたものの新潟ストアを開店する際に再登板の声掛けがあった方。長岡市出身だけに、新潟での再オープンを嬉しそうに話してくれた。



一応カテゴリー別にフロア・エリアが分けられているとのことだが、店によっては扱う商品が多様なため、「あの商品はどこにあるの?こんなところにもあった!」と何度か行かないと店の志向が見えてこないかもしれない。
また、食料品売場が改札から遠いということを難点とするのは、JRを使うという前提の地元民(自分)の叫びか?以前、万代口にあった時のことを考えると、発車直前にという技は発揮できない。まあ、バスターミナルには近いからなー。
全体的にEAST SIDE(東改札、写真下)の方がアクセスが良く、店舗が充実している感がある。イベントにも活用できる1階「潟リウム」前のエスカレーター(写真下)が東改札に、バスターミナルのエスカレーターや駐車場のエレベーターもEAST SIDEへ利用者を誘客を送り込んでいるのは確かだ。




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新・新潟駅(その1)、「青い灯」が消えて4年の進化は?

2024年11月03日 | 鉄道


ようやく山形を抜け出して新潟に戻ることができたのだが、ふと「新潟駅」を見てみたいと思い立って出かけることにする。孫と電車で行く約束をしていた場所だが、今回は一人でクルマでの訪問となる。
というのも、新しくなった新潟駅を見たことがない?まったく電車に乗っていなかった訳でもなく、乗り換えなどでは使っているはずだが、コロナの影響もあってハイエースに乗り換えてからはクルマでの移動も多くなりっているのはこのブログでご紹介のとおり。
その新潟駅、2022年6月に完全高架化になった。地上にあった在来線ホームを新幹線ホームに合わせるというもので、すでに2018年には在来線5番線と上越新幹線11番線の同一ホームの乗り換えが可能になっていたが、最後残っていた高架ホーム1番線が供用開始(写真上)となって全面開業となった。(工事中、地上に設けられていた8、9番線は廃止・撤去された。)



これは新潟市が中心となって進める「新潟駅周辺整備事業」の一環として、鉄道・道路の連続立体交差事業、周辺幹線道路の整備事業、駅前広場整備事業などに合わせ、JR新潟駅そのものの利便性を向上と新潟の玄関口として整備が図られたものである。
駅そのものもそうだが、新潟駅周辺の信越線・白新線、越後線と地上道路の立体交差により、周辺の混雑は解消されるとともに、駅直下にバスターミナルを整備(写真下)することで南北を結ぶ「軸」とし、文字どおりターミナル化するもの。
以前万代口前には、新潟交通のスイッチバック式ターミナルがあったが、駅前の混雑をかいくぐるかのようにバスを乗り場まで寄せていたものが、一転、駅直下で行ったり来たりUターンもできて、バスの走行や乗降も見るからに快適さが見て取れる。



事業開始が2012年だから12年、高架ホームの供用開始から6年、新潟駅の「青い灯」が消えて4年、着実に整備は進められてきているが、残すは万代口の広場と駅舎へのアプローチ。2025年度(2026年春)完成の予定だ。(新潟駅の再開発事業の第一段階として、「南口整備」は2007年から実施されていた。)
このような大規模での新潟駅リニューアル化は実に約60年ぶり。自分と同年代の3代目駅舎は懐かしさも感じるが、今後はスマートな駅舎と駅周辺施設が乗降客を見守り、ターミナルから次々とバスを吐き出していく。その姿は都会のようだが、地方でも一極集中のような気がしてならない。
市が推し進める「新潟駅~万代~古町」の新潟都心軸「にいがた2㎞」の玄関口として位置づけられている新潟駅、次回紹介する駅ナカの商業施設などの整備も行われているが、駅を拠点として今後の「まち」としての進化がどうなるか注目していきたい。(写真下:工事中の地上ホームと旧新潟駅舎・旧バスターミナル(いずれも2020年11月撮影))

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楢下宿で「こんにゃく番所」に捕まってしまう

2024年10月30日 | 食(グルメ・地酒・名物)


楢下宿というと「こんにゃく番所」?聞いたことある人、すでに行ったことがある人も多いかと思う。
山形県は各地で大鍋に玉こんにゃくを煮て販売する光景を、あちこちて見かけることが多いこんにゃく県であるが、そのこんにゃくの名店が「丹野こんにゃく店」。国道13号沿いの山形観光物産会館やJR山形駅のエスパルなどにも売店を構える。
上山から楢下宿に入る手前にある「こんにゃく番所」はその本店でもあり、こちらではこんにゃくを多彩にアレンジした料理を提供していることから、全国各地から多くの人たちが訪れるのである。



料理は「懐石」をお勧めする。初めは「こんにゃくでは、淡白すぎて物足りないのでは?」と思っていたのだが、次々提供される料理は「これは、本当にこんにゃく?」、「こんにゃくでこんなことができるの?」というものばかり。
前菜のサーモン、黒豆、はまぐり、揚げ物のホタテ貝柱、お刺身の盛り合わせなどは、すべて「〇〇風の蒟蒻(こんにゃく)」である。そばもこんにゃくをつなぎに使っていて、正にこんにゃく尽くしの懐石なのである。
食感(硬さ)や形、色を微妙に変えて、おなじみの食材に見立ててきれいに盛り付ける。見た目ではこんにゃくであることは分からず、提供する際に係の人が丁寧に説明を添えてくれると、「へー!」の連続だ。
どの料理にもに職人の技が十二分に発揮されているとともに、こんにゃくにかける情熱が料理や技術を進化させているのではないかと思う。「たかが蒟蒻、されど蒟蒻」と店頭に掲げられた文字が印象的だ。



売店でもお馴染みの玉こんにゃくはもちろん、懐石に使用されていたもののほか、いろいろな商品が並べられており、お土産にすることができる。串に刺した海苔巻き団子風、焼き鳥風などこれも面白いというより感動もの。
別棟には、スイーツショップ「日々蒟蒻」があり、タピオカに見立てたこんにゃくドリンクや、寒天の代わりにこんにゃくを使ったあんみつなど、これまたこんにゃく料理を極めたといっていい品々を口にすることができる。
行く前は、まあ物の話として行っておかないとと思う反面、二回目はないな!と思っていたのだが、ぜひまた行きたい感動と美味しいスポットになる。楢下の「番所」で引っかかった!てなところです。
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楢下宿の魅力、文化財の街並みと文化財級の人材も

2024年10月28日 | 旅行記・まち歩き


山形・置賜地方での滞在が長くなっているがもう少しだけお付き合いいただきたい。
最初に断ったとおり、山形県の地域区分によると、上山は「置賜」ではなく「村山」に地域区分されるのだが、置賜地域の石橋群を追いかけていると、南陽から上山に足を踏み入れてしまっていた。まあ、お隣ですからね。
先に紹介していたが、金山川に架かる新橋、覗橋があるところは楢下宿(ならげしゅく)。江戸時代、羽州街道の宿場町で、江戸方向からすると金山峠を越えて本陣を置く楢下宿は結構規模も大きく、今でも魅力的な風情を醸し出している。
宿場内の街道は、「コ」の字型に曲がるという特殊な形状をしていて(写真下:パンフの地図)、金山川を新橋、覗橋で二回渡る(写真上:宿場内の金山川と新橋、写真下:覗橋から山田屋を望む)。金山峠は仙台藩との国境で、楢下には上山藩の口止め番所(関所)が設けられており最前線の要害宿場ということからなのであろうか?



楢下宿は、江戸期の参勤交代で東北13藩が立ち寄る主要な宿場だった。出羽三山詣での行者や各藩の家中、商人も数多く宿泊したとの記録があるそうだ。最盛期には23軒の旅籠や民家も70戸ほど立ち並んでいた。
現在も200年以上の時間を超えて数件の古民家が保存(一部移築)されており、室内も公開されている。脇本陣だった滝沢屋をはじめ、庄内屋(写真下:外観)、大黒屋(写真下:内観)、山田屋、旧武田家などの古民家がタイムスリップを演出してくれる。
特に宝暦年間(1750年頃代)に建築された滝沢屋(旧丹野家)は県の指定文化財。宿場外れ(実は、峠に近い奥の方が宿頭)に1993年(平成5年)に移築・復元されたもので、上山市教育委員会からの委託を受けた地元の方々が常駐・管理し、来訪者を案内してくれる(入館料220円)。



案内人の木村富夫さんは楢下生まれ楢下育ちの82歳。歴史に詳しいことはもちろん、饒舌でユーモアたっぷり、熱い話し口は正に文化財級。床に落ちているカメムシを何気なく足で払いながら室内を案内してくれる(写真下:滝沢家外観と案内してくれた木村さん)。
滝沢屋は久保田(秋田)藩の佐竹氏と深い関りがあったようで、定宿(じょうやど)として使われていたそうだ。室内の展示物は年代もバラバラの感があって、説明も時代を行ったり来たりするが、佐竹氏関連のものが多く、説明にも力が入っていたような気がする。
宿場町の面影を色濃く残す楢下宿。石橋は明治期のものだが妙に風景にマッチしているし、お宝(文化財)の宝庫でもあり、そして木村さんのようなお宝(文化財級)地元民もいる。ぜひ一度訪問いただきたい。(「羽州街道楢下宿・金山越(かなやまごえ)として国指定文化財史跡になっている)
(滝沢屋では、説明時間を最初に告げたほうがベスト!あっという間に1時間が過ぎたのだが、まだまだ説明が続くところでした。この日は次の予定がキャンセルになってしまった。)


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まほろばの里にあった廃線跡は、いまも東西「高畠駅」を結んでいる

2024年10月24日 | 鉄道


山形の石橋を探して高畠の町を歩いていると、「高畠駅」という看板を目にした。高畠駅はJR奥羽線の駅のはずだがー、そうだ!ここには旧高畠線があって、高畠駅は高畠町役場などがある市街地にあったことに気が付く。
奥羽線の米沢・山形間が開通したのは1900年(明治33年)、前回、前々回紹介している米沢までの開通の翌年で、高畠鉄道は奥羽線の旧糠ノ目駅(現高畠駅)と旧高畠駅の間が1922年(大正11年)に開通。その後、二井宿まで延伸され、1943年、山形鉄道高畠線となった。
旅客輸送のほか、貨物の取り扱いも行っていた。というより、高畠周辺では製糸業が盛んで、生糸や製品の輸送や材木、果物などの地域の特産物を輸送する目的が強かったとも言われている。1974年(昭和49年)、水害によるダメージをきっかけに全線廃止。先に紹介した「くりはら田園鉄道」よりかなり前に廃止。「赤谷線」の廃止よりも10年前のことだ。



旧高畠駅は高畠鉄道開通後、それまでの木造駅舎から、1934年(昭和9年)立派な駅舎が完成(写真上)。これは地元の特産品である凝灰岩「高畠石」を使用しているが、石で作られた駅舎は珍しいこと。石造りのプラットホームなどとともに、登録有形文化財として保存されている。
駅舎の色彩や大正ロマンを感じさせるデザインは高畠のシンボル的な存在である。また、駅構内はきれいに公園化されており、一角には当時活躍したED1電気機関車やモハ1などの車両も展示されていることから地域住民や鉄道ファンにも親しまれているという(写真上)。



廃線跡は、赤谷線と同じくサイクリングロード「まほろば緑道」として整備がされていて、現高畠駅から「日本のアンデルセン」といわれた童話作家・浜田広介の記念館、高畠市街・旧高畠駅、「まほろば古の里歴史公園」や道の駅「たかはた」、蛭沢湖など高畠町の観光スポットを結んでいる。
高畠市街と奥羽線・現高畠駅までは5キロほど。まほろば緑道は通勤・通学など生活路線として利用されているが、沿道は桜並木があって、さぞ桜の時期には見事なのではないかと思う。前述のとおり、かなり早い時期に廃線となってはいたが、跡地はしっかりと保存されている。竹ノ森駅はポケットパークに、和田川の橋梁は桁部こそ架け替えられているようだが、橋脚は以前のもののようだ(写真下)。
まほろば緑道整備にあたっても、沿線に浜田広介記念館や道の駅などを配したことは地域の熱意を感じるし、観光面でも効果的ではないだろうか。(「高畠ワイナリー」は、奥羽線の上り方面で奥羽線を跨ぐが、高畠駅からも1キロほどなのでレンタサイクルでも行ける。)



まほろば緑道は、廃線跡をそのままに奥羽線の現高畠駅(起点・旧糠ノ目駅)まで続く。旧糠ノ目駅は、1991年(平成3年)に「高畠駅」と改称される。山形新幹線の開業前年のことである。17年振りに「高畠駅」の復活だ。
国鉄分割民営化の以前に無人駅(簡易委託駅)になった糠ノ目駅であるが、高畠駅と改称したことにより東西の自由通路の開設、東側に「太陽館」の建設に伴い駅舎機能を東側に移転、新幹線が停車する駅としてJR直営駅としても復活を遂げた(2015年から業務委託駅)。
それ以後も店舗、温泉施設、ホテルなどができて、市街地方向の東口が名実ともに高畠町の玄関口となった。高畠線の起点・糠ノ目駅のあった場所だ。まほろば緑道は、「まほろばの里」にある町の東西・新旧の高畠駅を今もしっかりと結んでいるのである。(写真下:JR奥羽線高畠駅の東口付近、自由通路入口は高畠線の始発地点であり、奥羽線東側の現高畠駅舎・太陽館は市民や観光客の憩いの場所にもなっている。)




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奥羽線・峠駅で「峠の力餅」の立売りの声が響く

2024年10月22日 | 食(グルメ・地酒・名物)


奥羽線・峠駅と言えば「峠の力餅」。ご存じだろうか?峠駅開業は奥羽線の福島・米沢間の開通とともに1899年(明治34年)、それ以前の1894年に創業したのが「峠の茶屋(屋号は、最上屋?小杉商店?とも言うらしいが)」である。店は峠駅前にポツンとたたずむ(写真上)。
創業130年なのだが、駅開業とともに「峠の力餅」というあんこ入りの餅を販売。なんと今現在もホームで立売りをしているお店で、取扱商品は「峠の力餅」のみ。自身のホームページなどでも「絶滅危惧種」と紹介している。確かに肥薩線・人吉駅や鹿児島本線・折尾駅で見たことはあったが、どうなっているだろう?
地元の新津駅や直江津駅でも、ホームの傍らに立売箱を置いた形での販売を見かけたことはあるが、パッピを覆い、立売箱を持ってホームを行き来し、車窓越し(ドア越し?)に売る光景は珍しいというより懐かしく、「未だにあったのか?」との驚きしかない。東日本では唯一ということのようだ。



峠駅は、乗降客が一日平均4.7人(山形県「駅別乗車人員の推移」、2004年)の秘境中の秘境、正に峠駅でなぜ?という思いがこみ上げてくる。以前は鉱山があって駅周辺にも人家があったらしいが、現在は秘湯として知られる滑川温泉、姥湯温泉の最寄り駅ではあるのの(確かに、宿の迎えのクルマらしいものが)、駅構内も駅前も極めて静寂に包まれている。
立売り対象列車は、早朝・夜間を除く3往復6列車。それ以外にも予約をすればホームまで届けるそうで、私が訪れた午前8時30分を挟んだ上り下りの2列車にも、入線の際に深々と頭を下げ、停車時間30秒間で4両編成の後方から立売箱を持ってくまなく売り歩いていた。
ホームに立つのは5代目の店主・小杉さん。頑固なまでに立売りを残したいという気持ちがある。日に6往復の、しかも生活路線である各駅停車のみ「奥羽本線」とは名ばかりのローカル区間の秘境駅で、鉄道とともに歩んできたという心持ちで「最後の砦(峠の茶屋ホームページから)」を守っているのである。



私の場合は、峠駅のスイッチバックの旧駅を見学するため下車したため、購入するのに慌てる必要はなかったが、どの列車も30秒との戦いがあるようだ。そのため売値は1000円!お釣りのやり取りがないようにとのことだが、それでも売れたとしても一列車で5~6個の販売が停車時間内では限界とのこと。
さほど苦労をせずに力餅を手にすることはできたものの、最後の砦を守る力を分けてもらったような気がするのだが、家に持ち帰って写真を撮ろうと箱を見ると、すでに妻がひとつ食べてしまっていた。そりゃ力を込めて「私に買ってきたんでしょ?何が悪い!」みたいな態度でした。
なお、米沢駅前にも「峠の力餅米沢支店」というのがあって同様の力餅を販売しているが、こちらは先代の時に暖簾分けした店で全く別会社(写真下)。山形新幹線「つばさ」車内で販売しているのはこちらのお店のもの。お味は変わらないということだが、さて力が付きそうなのは?私は、ぜひまた峠駅を訪問して購入したいと思っている。


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奥羽線のスイッチバック駅跡をジグザグで踏破

2024年10月15日 | 鉄道


米沢訪問するからには、ぜひ行ってみたいと思い続けていた場所、それは奥羽線のスイッチバック式の駅跡だ。奥羽線の福島・米沢間には、かつて4つのスイッチバック駅が存在したが、山形新幹線開業に伴い全てが本線上に駅を移転、スイッチバックも廃止されたが、新幹線で通過する際は旧駅を車窓から眺めながら、いつか行こうと思っていた。
クルマで行くのは簡単だと思っていたが、なかなかの難所。萬世大路の栗子峠(明神越えを含む)とともに、この間を結ぶ峠道はなかなか人を寄せ付けない。古くからの難所で、米沢藩は峠越えに危険が伴うことや戦略上の理由で通行を禁止していたこともあったそうで、前回登場の土木の鬼で山形県令・三島通庸が山形発展のために明治期に入ってようやく開削を試みた場所なのだ。
どうせ鉄ちゃんを自称するなら、電車で行こうと思い立つ。しかし、そんな県境の場所を通る路線ということもあり、福島・米沢間を通しで運行する列車は一日6往復しかない。これはハイブリット方式で行くしかないなと、地図と時刻表を読み解き早朝、米沢駅に向かうことになる。(写真上:早朝の米沢駅舎とホーム)




奥羽本線は、東北本線福島駅を起点に、米沢から山形・新庄・大曲と出羽山地の内陸部を北上し、秋田、大舘、弘前、終点・青森までの484.5キロ結ぶ路線。青森、福島の両側から建設が進められたが、福島・米沢間が開通したのは1899年(明治32年)のこと。萬世大路より南の板谷峠を超えるルートである。
しかしこの板谷峠も難所。最大勾配38‰(パーミル)で碓氷峠で紹介したアプト式の採用も検討された路線。かつ豪雪地帯であったことから、米沢までの40キロ区間だけで20か所のトンネル(開通当初)と急カーブの連続、谷間を走ることから高所に鉄橋をかける必要もあった。実際、列車故障事故や積雪、豪雨などの自然災害などによる不通も多かった路線だ。
その急勾配路線に駅を設置するため、本線から平坦地に線路を引き込むのが通過可能型のスイッチバックである。それがこの区間14キロほどに4駅連続で設置されるというなかなか他では見られない路線・区間。スイッチバックでジグザグに刻まれた動脈の開通が米沢をさらに開化させた。(写真上:大沢駅とその周辺、写真下:峠駅のスイッチバック旧駅への引き込み線とスノーシェッド)



福島県側から赤岩駅(福島県福島市、2021年廃止)、板谷駅、峠駅、大沢駅(いずれも山形県米沢市)。今回は米沢市域にある3駅を訪問したが、これらの駅は山形新幹線建設に伴い標準軌に改軌を行った際に、本線上に新駅を建設することになり引き込みスイッチバックは旧駅とともに使用されなくなった。
碓氷峠と同様、勾配克服に補助機関車(4110系蒸気機関車など)を必要としていた時代からすると、山形新幹線開通に伴い導入された「つばさ(初代400系)」や719系5000番台交流型近郊電車の開発・導入により、安全性やスピードアップ化の波がこの板谷峠を通る奥羽線の路線や駅の姿、車両を大きく変えたのである。
いずれも旧駅舎などは取り壊されているが、本線から旧駅にかけての区間は現存の3駅はスノーシェッドに覆われていて、引き込み線の部分は新駅に通じる通路などとして利用されながら、鉄道遺構として保存されている。これらは近代産業遺産に認定されている。(写真下:板谷駅のホーム上からのスイッチバック線と旧駅のホーム跡)



今回、米沢駅の駐車場にいったん車を止めて、米沢7:16発→大沢7:27着、(大沢駅滞在22分)大沢7:49発→米沢8:00着、(米沢駅滞在8分)米沢8:08発→峠8:25着、(峠駅滞在12分)峠8:37発→米沢8:54着と、数少ない列車を自分自身もスイッチバックしながらこまめに乗り継いで二駅を訪問。
その後、クルマに乗り換えて、萬世大路の第三世代にあたる国道13号で西栗子トンネル経由で板谷駅へ。大沢駅、峠駅はクルマでももちろん行ける場所ではあるが、険しい山道を通る上、大沢駅と峠駅の間は道なき道(一応県道だが)を大きく迂回しなければならないことから、今回の移動手段となった。(赤岩駅跡へは、周辺の道路事情などから訪問を断念。)
最後の訪問地の板谷駅に立った時、警報機が鳴りだし列車の接近を知らせる。福島方面から下りの山形新幹線「E6系つばさ」が線路脇にある36‰を示す勾配標をものともせず「翼」を得た如く軽快に急坂を登り終え走り抜けていった。苦労してスケージュールを練って、そして時間を費やしながら鉄道遺構を見た後だったので、技術の進化を目の当たりにした感じがした。(写真下:今回使用した二往復分の切符と、板谷駅を通過する「つばさ」。左の速度制限標識の下に「36.0(‰)」の勾配標が見える。)

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