「紙を何回切って重ねたら、東京スカイツリーの高さを
超えるか」、フェルマ推定のような問題であるが、これは
高校の数学Ⅱの教科書、対数のところに出て来る。
高校の教科書が変わる。課題を調べて考える「探求学習」
を重視するという。しかし、国語などでは「実用性」を打ち
出している。
人間と社会を考える「公共」では、履歴書の書き方や
面接の作法、電力料金の比較などを「考える」という。
実用性を取り入れつつも文学や評論などの「読み」も
従来通り、という教科書の出版社もある。ホッとする。
さて、水戸街道ウォークは常磐線と国道6号の開通で
寸断された、牛久宿の手前である。
国道6号を渡り迂回路を進むと、おッ、左手に橋工事の
風景が。同じく工事中の江戸川の新しい橋桁と同じ色だ。
(後で調べると、国道6号の土浦牛久バイパス工事)
その先で根古屋川を渡る。下町坂下橋は牛久宿の直前。
橋の右手は、水戸街道を寸断した常磐線と国道6号。
この橋の先で振り返る左手の道が本来の水戸街道で、
ここから復活である。
マンションが建つ交差点の先から牛久宿が始まる。
左手の観成(カンジョウ)院に寄るべく駐車場の先の脇道、
細い急坂を上る。
後から思えばここを左に入ってみるべきだった。その先
で墓地に突き当たるが堂宇は見えず。水戸街道に戻る。
牛久宿最初の交叉点に「芋銭河童碑道」の石標が立つ。
小川芋銭(ウセン)は明治末から戦後まで活躍した日本画家。
牛久出身で河童の絵が多く「河童の芋銭」と呼ばれた。
歌碑や記念館は1キロ先というのでパスして先へ進む。
古い門が残る大きな屋敷は「明治天皇牛久行在所跡」。
石標のあたりが日陰なので台に腰かけて星宮神社以来の
休憩とし水分を補給。陽に晒し通しの体が熱い。
明治十七年、明治天皇が「女化原(オナバケガハラ)」の
近衛砲大隊の演習を視察した時に、この大きな屋敷の
飯島家で宿泊したという。
その女化原は、通って来た成井一里塚の東方の広大な
草原と知る。そう言えば、柏駅近くにもこの時の行在所
跡碑があったことを思い出す。
昨日貼った、そのあたりの写真をもう一度。
水戸街道が右にカーブするのが見える。「この角の左手
に本陣があったが、特に案内板はない」、手に持つ先達の
ガイドである。
しかし、今は案内板が立つ。奥は新しい上町公民館。
右カーブの角に本源寺。前で露天仁王像が睨む門は、
とても珍しい鐘楼を兼ねた山門である。
入口の戒壇石「不許葷(クン)酒入門」の「葷」は匂い
の強い草や野菜を意味する。うーん、星宮神社で剣菱を
一合呑んだが、もう抜けているだろう。
境内に入ると本堂は、これも珍しく坂道を下ったところ。
神社なら「下り宮」というが、ここは「下り寺」。大きな
トチノキは樹齢推定400年。
各種の観世音、観音様がズラーッと並ぶなど新しい
石仏が多い寺である。もちろん全部は見切れないので
適宜引き上げる。
ゆるく右カーブする旧水戸街道は国道6号、牛久駅方向
に向かう。創業慶應四年という店、豆腐屋さん?。
やがて国道6号に出て牛久駅もすぐ。藤代宿でも入った
同じ和食店の看板を見て「生ビール」の味が喉を過る。
今日のゴール予定は次の「ひたちの牛久駅」だが、約
4キロはずっと国道6号、街道遺構も少ない。エイヤッと
「華屋与兵衛」に飛び込む。
刺身などをアテに生ビールを呷った後は牛久駅に直交。
次回の土浦までの行程が4キロも増えるが、ケセラセラ、
予定は未定である。