じんべえ時悠帖Ⅱ

中山道、倉賀野宿の歴史探訪(2)

 「持ちこたえてはいるが一部の地域で感染の拡大がある」

政府の専門家会議の分析という。これなら素人でも言えそう

である。

 

 さて、中山道ウォーク、倉賀野の歴史探訪の続きである。

 旅籠屋と共に、宿内の橋の架け替えに二百両も寄進した

倉賀野宿の飯盛女たちが詣でたという三光寺稲荷(冠稲荷)

は、明治末期の寺社統合で倉賀野神社に合祀された。

 その後、元の場所に再建されているというので探してみる。

小道を行ったり来たりして、最後は歩きたくはないと思って

いた五貫堀跡の暗い遊歩道を辿って何とか見つける。

 口碑を読むと、倉賀野神社に合祀された後の昭和の初期、

町の人の夢にお稲荷さんが現れ「元の場所に戻りたい」と

泣いたとある。鮮やかな幟には女性名も多い。

 次は、利根川水系最北端の河港があった倉賀野河岸へ向かう

べく烏川沿いに下る道を辿る。途中の辻には双体道祖神などが

置かれる。

 滅多にない脇の説明図が解りやすい。中山道の双体道祖神は、

武州本庄宿の手前が東端で、この先の上州、信州に多い。

 烏川に掛かる共栄橋の袂の小公園に黒い「倉賀野河岸碑」を

見つける。早咲きの桜が色を添える。共栄橋の袂を潜った反対側

で土手に上がると、ここにも倉賀野河岸の説明がある。

 それらによれば、元禄の往時には舟問屋十軒、舟百五十捜を

要し、上り荷駄が三万、下り荷駄が二万二千を誇ったという。

 舟で来た行徳塩、干魚などの下り荷はここから牛の背で運ば

れ、上信越諸般の米などの上り荷はここまで馬の背で運ばれた

後、回船によって江戸へ運ばれたという。

 この河岸から宿通りまでの牛街道、馬街道の様子が、別の

立札の絵図に描かれる。

 この後は、絵図にもある井戸八幡に向かうが次回としよう。

この日の写真、うっかりと「夜景モード」で撮ってしまった。

一枚ずつ画像調整するため手間がかかる。

 

 

 

 

 

 

 

 


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コメント一覧

jinbei1947
高崎の手前の倉賀野は倉庫の街といいイメージでしたが、
やはり古くから物流の要所だったんですね。
私も勉強になりました。
永遠に生きるが如く学べ(ガンジー)です。
ykoma1949
倉賀野神社から又もとに戻った三光寺稲荷
倉賀野河岸という交通網の要衝の町並み
首都 江戸の街と水路で繋がる強さですね
信州はまるで山の中、人の足で歩くか馬
などの力を借りねば首都には行けなかった
今でも中心部は置いてきぼり感を否めません
倉賀野・・はじめて知ることが出来て勉強に
なりました。
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