「持ちこたえてはいるが一部の地域で感染の拡大がある」
政府の専門家会議の分析という。これなら素人でも言えそう
である。
さて、中山道ウォーク、倉賀野の歴史探訪の続きである。
旅籠屋と共に、宿内の橋の架け替えに二百両も寄進した
倉賀野宿の飯盛女たちが詣でたという三光寺稲荷(冠稲荷)
は、明治末期の寺社統合で倉賀野神社に合祀された。
その後、元の場所に再建されているというので探してみる。
小道を行ったり来たりして、最後は歩きたくはないと思って
いた五貫堀跡の暗い遊歩道を辿って何とか見つける。
口碑を読むと、倉賀野神社に合祀された後の昭和の初期、
町の人の夢にお稲荷さんが現れ「元の場所に戻りたい」と
泣いたとある。鮮やかな幟には女性名も多い。
次は、利根川水系最北端の河港があった倉賀野河岸へ向かう
べく烏川沿いに下る道を辿る。途中の辻には双体道祖神などが
置かれる。
滅多にない脇の説明図が解りやすい。中山道の双体道祖神は、
武州本庄宿の手前が東端で、この先の上州、信州に多い。
烏川に掛かる共栄橋の袂の小公園に黒い「倉賀野河岸碑」を
見つける。早咲きの桜が色を添える。共栄橋の袂を潜った反対側
で土手に上がると、ここにも倉賀野河岸の説明がある。
それらによれば、元禄の往時には舟問屋十軒、舟百五十捜を
要し、上り荷駄が三万、下り荷駄が二万二千を誇ったという。
舟で来た行徳塩、干魚などの下り荷はここから牛の背で運ば
れ、上信越諸般の米などの上り荷はここまで馬の背で運ばれた
後、回船によって江戸へ運ばれたという。
この河岸から宿通りまでの牛街道、馬街道の様子が、別の
立札の絵図に描かれる。
この後は、絵図にもある井戸八幡に向かうが次回としよう。
この日の写真、うっかりと「夜景モード」で撮ってしまった。
一枚ずつ画像調整するため手間がかかる。