この3月まで、法政大学総長を長く務めた田中優子氏の、
言わば回顧録とも言える「語る」(朝日新聞連載)から、
今日は高校時代までの生い立ちを紹介しよう。
団塊の世代の数年後、横浜生まれの横浜育ちの田中優子は、
両親と兄、母の母(祖母)との5人で、江戸時代には裏店
(ウラサナ)と呼ばれたような長屋暮らしだった。
平塚らいてうに憧れて姉と二人、家出同然に上京し茶屋
で働いた祖母、その祖母を時折訪ねて来る元芸者の女性たち
の折り目正しさと気遣い。
そして、長屋の隣家との仲良く助け合っても深くは立ち
入らない節度あるつきあいが、後々の江戸文化の研究活動に
影響したと言えるかも知れないと「語る」。
小学校時代は、何にでも秀でた兄との比較で「劣等感」に
苛まれた。自分は世界とは切れ、必要とされていないのかも
知れない。一人で本の世界に浸る時間が一番好きだった。
母の薦めで鎌倉のお嬢様学校、清泉女学院でのびのびと
中高時代を過ごす。はじめは「ごきげんよう」という挨拶
に気後れしていたが、やがて、スポーツ、読書に明け暮れ、
高校では校内雑誌の編集でものを書き始め、写真部を立ち
上げてカメラにも没頭など、小学校時代とは正反対。
このころ「漫然と、将来はもの書きか、ジャーナリスト
になりたいと思うようになった」という。
東大に進んだ兄が持ち帰る「朝日ジャーナル」や「世界」
の影響もあって、世界的な反戦運動や学生運動の波にも
無縁ではなく、ベトナム戦争、東西冷戦、日本の米軍基地
問題など、優子の「頭の中が大忙し」状態。
しかし、牧歌的な時間が流れる女子高(清泉女学院)内は、
こういった世界とは全くの別世界であった。優子が文化祭で
試みた「共産党宣言」のパネル発表も、先生方は「あらあら」
で終わり、拍子抜けだった。
そしてライフワークを決定付ける大学進学以降は次回。
梅雨明け前の一昨夜、涼しくなってからの夜の散歩。
公園から先、灯りを求めて足が向かう先は次第に・・・。
寿司屋などがあった四軒長屋、ずいぶん前から無人と
思ったが、まだ一軒、スナックがやっている、おいおい
ママはいくつになったんだよ。
我が三郷も、初めて「まん延防止」適用地域へ。