じんべえ時悠帖Ⅱ

城下町小幡、のんびり散策の続き

 上州小幡の鄙びた城下町の散策の続きである。

藩邸の庭「楽山園」と小幡の街中を繋ぐ「御殿前通り」に

小幡藩織田家代々の幟が立つ。

 街中近くから楽山園の中門、紅葉山を眺める。

 武家屋敷の一つの松浦氏住宅に寄る。雄川堰を引き入れ

た池、熊倉山の借景などが共通した江戸中期の武家庭園が、

この小幡には十庭も残る。全国的にも珍しいという。

 甘楽総合公園からは再び雄川沿いの道を選ぶ。紅葉全盛

には早いがなかなかの景色である。

 七福神毘沙門天の長覚寺の上の山には連石山三十三観音

や天狗岩があるというが相当高いところのようなのでパス。

 雄川の上流が岩の間を流れるようになったのを眺めて、

次の「吹上の石樋」に向かうべく橋を渡る。この上流の

数百メートルに雄川からの取水堰があるが、往復1キロは

ちょっと時間不足でパス。

 県道を渡り細い道を辿るとありました、吹石の石樋。

七メートルもある一枚石板を加工したものと言う。

 側面からも見ようと脇に回るが叢に覆われて見えず。

代わりに説明板を紹介しよう。

 下を流れる沢を跨ぐような流れは「樋渡し」と呼ばれ、

下を流れる場合は「伏せ越し」と呼ばれる。反対側から

も眺めてみる。橋の陰を雄川堰が流れる。

 次はいよいよ小幡藩織田家七代の墓である。初代藩主の

信雄(ノブカツ)は信長の次男ながら後継争いで敗れて三法師

の後見役に納まって以降、血生ぐさい経歴と狡知に長けた

振舞い、怠惰や失敗を重ね「無能の将」とも呼ばれた。

 大坂夏の陣の前に家康側に付いたことなどから優遇され、

大和国宇陀郡、上野国甘楽郡に所領を得た。以降七代に

渡って小幡藩主となった訳である。

 県道を渡って山裾に上がると小さな崇福寺がひっそりと

建つ。左手の広場に七代の墓があるようだ。

 出た広場の右手、それぞれ祠に納まった小幡織田家七代の

墓がズラッと並ぶのは壮観である。中山道深谷宿の源勝院に

岡部藩主十二代の墓はぎっしりと並び露天だった。

 まずは一番端の初代信雄の墓、次の祠に移ると奥にも

露天の墓が立ち列を作る。それぞれに「院」の字がある

ということは藩主の奥方たち、ここにも男尊女卑。

 一代一代の墓をゆっくりと眺めてから広場の東屋で休憩

してから、やおら腰を上げて街中に戻る。

 続きは次回、城下町小幡の最終回である。

 

 

 

 

 

 

 織田家七代の墓があると

いう崇福寺に向かう。


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コメント一覧

jinbei1947
ワイコマ様
墓は七代ですが十代まで続いたそうです。
最後はなにかチョンボがあったのか出羽へ移封されています。
小幡も知らなければ織田の家系が長く納めたのも初耳でした。
jinbei1947
えめらるど様
深酒と半世紀以上の喫煙、寿命は知れていますね。
明日死ぬが如く生きよ、を実践です。
永遠に生きるが如く学べ、の実践は難しいです。
ykoma1949
小幡織田家七代の墓・・見事な雨や雪や風を
しのぐご立派な墳墓ですね 七代が・・ここに
暮らした、50年として350年・・昔は寿命が
短かったが・・一つの家系を維持することは
意外と難しい、私のお客様で松本市の大店の
社長は15代・・先祖から名前を授かって
亡くなる時はみんな同じ名前で第◯代タロ兵
となる、そして戸籍の名前も変わる、ここでも
家系図に記されるのは男の当主だけでした
明治以降は戸籍で家系がわかりますが・・
家系図作りは、意外と面白いです。
小幡の城下町の織田家の墳墓に家系を・・
想像してみました。
えめ
毎日、風景を楽しませて頂いております。ところで、人一倍読書や歩行をなさり、お体に障りはしないかと心配になります。せめて貴殿より14歳長らえている私の年までは、生きていてほしいと思います。
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