今日は昨年のお彼岸に行けなかったので半年ぶりに当家のお墓参りに久留米方面へ出かけた。正確に言えば福岡県筑後市西牟田。羽犬塚駅で有名な町である。
当家のご先祖は江戸時代以前から福岡県筑後市西牟田(旧:筑後国三瀦郡西牟田村)に居住していて、私の父が初めてこの地を離れ山口県下関市に移り住みました。正確に言えば幼い頃に両親とも亡くし親戚中をたらいまわしにされて、行き着いた北九州市八幡西区で紳士服裁断士の丁稚奉公を始め、近くに住んでいたお金持ちの娘と恋仲に落ちて先方の親の反対を振り切り駆け落ちしてきたのです。その為、私が30歳近くになるまで故郷の事を話そうとしませんでした。しかし私が35歳位の時、当時は北九州でタクシー乗務員をしていたのですが、たまたま乗られたお客さんが私の苗字を見て、その由来や歴史などを教えてくださいました。そして最後に「あなたはご先祖様の供養をしてますか?もししてなければ明日からでもお墓参りをしてお寺様にご先祖のことなどをお尋ねなさい。そうすればいずれ必ず良いことがありますよ。ご先祖様が喜んで見守ってくれるようになるはずです。」「失礼ですが、お客様はどなた様でしょうか?」「名乗る程ではありませんが、歴史に携わる学者だと思ってください。」その一言から私の人生が物凄く変わっていった。
それまで源氏、平家とか聞いたことがあるが、中学校の歴史程度も理解できない歴史嫌いであった。しかしなぜか「八幡太郎義家」という名前だけは不思議と記憶に残っていた。親の故郷も親戚も知らず、まして菩提寺などの存在すら知らない私が、夢中になって先祖調べを始めたのである。
納骨堂
思い起こせば30年前、この臨済宗南禅寺派寛元寺様に今までの失礼を詫び、今後は身体が動かなくなるまで、年に盆、年末、春秋のお彼岸の最低4回は必ず参りますと約束をしたのだ。その当時のご住職様はすでにお亡くなりになって、そのご子息が住職としてお付き合いいただいてからも25年位になる。実はこのお墓には父が7歳の時に亡くなったその母親(戸籍上は祖母)と9歳の時に亡くなった父親(祖父)が最後で、他はやはり幼くして亡くなった父の兄姉とそれ以前のご先祖様が入っている。ご住職からは「最後の方からは80年以上経っているのだから、墓じまいされてもおかしくはないですよ。」と言われていたのだが、「子供たちに墓参りを強制させられないので、私が動けなくなる前に時期を見て墓じまいをさせてもらいます。」とお答えしていたのである。しかし今日は「もう30年が過ぎたのだなぁ…」と「光陰矢の如し」という言葉を実感したものである。
赤い枠の右端が寛元寺
この地域は筑後平野にあるので、お寺の周りも田んぼや畑ばかりの、のんびりとした穏やかで静かな土地である。毎回ここに来ると気分が落ち着くし、下関で生まれた自分でも何故か「帰って来たぞ❣」という不思議な感情になる。そしてお墓参りが終わると、「よ~し明日からまた頑張ろう❣」と云う気持ちになる。そして帰り道の途中で筑後大橋そばにある『丸星ラーメン』でお気に入りのラーメンを食べて帰路に就くのである。
これで450円!!!
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