クロスバイクで元気

念願叶った定年退職の身は、先立つ物は細く時間は太くの狭間。
歩いて、自転車に乗って感じたことを、気ままに書き続けます。

一宮市尾西歴史民俗資料館で、歴史講座「御裳神社へ奉納された品々-伊勢講と神宮寺-」を聴いてきました

2020年02月07日 11時35分44秒 | 円空さん
2月1日(土)には、一宮市尾西歴史民俗資料館で 歴史講座歴史と民俗23 尾張と伊勢神宮 「御裳神社へ奉納された品々-伊勢講と神宮寺-」 を聴いてきました。
会場の講堂は満員、人気があります。
この講座は、尾西歴史民俗資料館で開催中の冬季企画展「御裳神社の宝物」に因んで行われたものであり、学芸員の西山祐実さんが「御裳神社の創社と変遷」、「神宮寺と明治維新」の2つの括りで解説しました。
私の興味は、独鈷山地宝院。
『寛文村々覚書』(寛文12年、1672年)によると、『地宝院は海部郡津島村大蔵坊の弟子筋の修験であり、村内には神明社、天神社、八釼社の境内付近にあった』と書かれているそうです。(この神明社が、現在の御裳神社の前身とされている)
地宝院は、醍醐寺三法院を本山とする真言宗系の修験道当山派の寺院ということで、円空(1632-1695)も訪れているのではないかと勝手に想像を膨らませています。

更には、御裳神社に残るもっとも古い棟札の裏面には、
 寛徳二年乙酉暦正月上旬建立
 新田玄孫弥勒堂賢源僧
 再興永禄八乙丑暦十一月十三日
      勧請之主願
 清和源氏多田苗
 (寛徳二年:1045年、永禄八年:1565年)
と書かれ、その下段には人名が書かれています。
その人名の中には、五十棲民部信綱孫とか五十棲河内義武と書かれ、「五十棲」が私の苗字の「五十住」に繋がるのではないかと、こちらも勝手に想像を膨らませています。
講座が終ってから、学芸員の西山さんにお尋ねしたところ、この「五十棲」の記述はこの棟札にしかなく、他には見当たらないということで、ちょっぴり残念。
コメント
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