昨日は「梅サワー」の500ml缶を晩飯の時に飲んで、そうしたらそのまま寝てしまいました。酒を飲んですぐ眠くなるのは歳のせいなのでしょうか。昔は平気だったんですけどね。
でもそこで見た夢ですが、ひたすらリモート会議をやっていて、なかなか説明する資料が見つからなかったり、あとは客先に行くのに、バスや電車に乗り換えていたりというもので、まったく何という夢なんでしょうね。
人の心は不可思議なものです。
さて、Twitterには創価学会や過去に池田会長が語った内容を、BOTで流していたりするものがありますが、そこではよく「成仏」とか「幸福になる」なんて内容が垂れ流されています。でも私達が普通に考える「幸福」という事と、仏教の就中、法華経に説かれる「成仏」が紐付くという事ではないのに、何故か創価学会(これは宗門サイドも同様ですが)では、紐付いて考えられてます。
これは元を辿ると日蓮の言葉(多くは切り文的な解釈ですが)や堅樹院日寛師の言葉、そしてそれを損得の様に読み込んだ歴代の創価学会会長の指導によるものかと思っています。
正直、仏教でいう「成仏」と私達が日常生活の中で感じる「幸福感」は、視点が違う事を理解しなければなりません。
日蓮は開目抄の中で、一念三千と、それによる本門の因行果得を語り、法華経以前の爾前経の因行果得(修行という因、成仏という結果)が異なることを述べていました。
「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」(開目抄上)
これは何が異なるかと言えば、法華経の如来寿量品で久遠実成により示された「仏」と、それ以前の経典で説かれた「仏」が全く異なる事を知る必要があります。
爾前経(というか仏教全般)で成仏と言えば、釈迦如来とか薬師如来、また阿弥陀如来という、超絶的な神通力を持ち、人々を教化救済する存在の仏に自分も修行を重ねていく事でなっていく。という事でした。これは小乗仏教においても似た感じで、小乗仏教では釈迦如来が仏で、その釈迦と同じ様な事を理解するという様な事を「悟り」と呼んで、それが成仏する事と言っていました。
しかし法華経の如来寿量品の久遠実成で言う「仏」とは、遥か遠い昔に成仏していたと言います。これはそれこそ宇宙の始まりからすでに仏であったという事です(久遠実成)。そしてこの仏は、大乗経典で説かれる様々な仏の姿としてこの娑婆世界に現れ、人々を常に教化してきたと言います。
ここまでは大抵の久遠実成を語る人は理解しています。しかし久遠実成には別の側面があるのです。
それはこの久遠実成を説きだした釈迦という存在の過去に修行していた姿、例えば薩埵王子など、過去世に苦悩しながら様々な修行をしていた釈迦自身も、実は久遠実成した後の姿となるのです。燃燈仏について語るところを読み、そこを思索するとわかる話です。燃燈仏も久遠実成の仏の迹仏であるし、その燃燈仏に教えを乞う釈迦の前世の姿である儒童梵士(じゅどうぼんし)も、ともに久遠実成の釈迦の姿という事なんです。
このパラドクスって理解している人は、結構いないんですよね。
これを一念三千で指し示していると日蓮は語り、それが本門因果の法門と言っているわけです。そしてこれは従来の仏教でいう「修行して後、結果として成仏する」という、爾前経(四教で説く)の因果の法門を根底から覆すものだと言っているのです。
だから日蓮は「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」と断言している訳ですね。
九界とはこの娑婆世界での喜怒哀楽渦巻く心を指しますが、これも無始の仏界(久遠実成の仏)の働きとなるし、この無始の仏界の働きは、この娑婆世界の中で喜怒哀楽渦巻く心の働きとして現れるというのです。
どうですか?
この観点でいくと、祈って活動して「絶対的な幸福境涯になる」とか、「その学会活動をする事で成仏する」なんていうのは、法華経の成仏観とは根本的に違うという事が解ると思いますけどね。
創価学会では仏教でいう「成仏」という観点と、日常生活の中で感じる「幸福感」を紐づけて、そこに「人間革命」なんて単語をつけて語りますが、この功徳(御利益)論によって、会員活動家は縛り付けられ、ひたすら組織の為に自ら進んで奔走しています。
しかし仏教の「成仏」と生活で感じる「幸福」は、そもそも観点が違いますし、法華経で説く「成仏」と一般的に言う「成仏」も全く異なるものなのです。
このあたりについては、少し学んで気付いてほしいものなんですけどね。