自燈明・法燈明の考察

浅草キッドに見える師弟関係

 もうすぐ今年も終わりになりますが、昨日Netflexで「浅草キッド」という映画を見てました。監督は、劇団ひとりで北野武原作のものを映画にしたものです。

 北野たけしが浅草芸人出身で、浅草フランス座というストリップ劇場で下積みをしていたのは知っていたのですが、恥ずかしながら私はこの映画で、北野たけしに師匠が居た事を知りました。



 その師匠は「深見千三郎」。「幻の浅草芸人」と呼ばれた人で、その弟子には東八郎や萩本欣一、北野たけしは最後の弟子でした。
 深見千三郎はテレビでの活動に背を向け、最後まで浅草の舞台で芸人人生を全うした人でした。深見の舞台は主にストリップ劇場での、いわゆる「幕間」のコントでしたが非常に面白いと評判を呼んだと言います。ストリップ劇場であるから客は踊り子の裸目当てに入場していて、コントになると怒号混じりの野次が飛ぶ事も多かったそうですが、深見はそんな客を「うるせえ、黙って観てろ!」と一喝して黙らせ、何事もなかったようにコントを続行、野次を飛ばした客自身も笑わせる事もあったと言われています。
 深見は特に同じ浅草系の芸人からの評価が高く、皆から「師匠」と呼ばれていました。それは「浅草に深見以外に師匠はいない」という敬意を含んだ特別な意味だったそうです。芸人以外の浅草の人々からも師匠と呼ばれていて、不自由な手でギターなどの楽器を操りタップダンスを踏むなど多芸多才、アドリブや時事ネタから、場所柄の下ネタまでをも盛り込むコントが持ち味だったそうです。

 北野たけしは浅草フランス座でエレベータボーイとして仕事を始めたと言われていますが、その北野たけしに芸人としてのイロハを叩きこんだのは、この深見千三郎氏だと言われていて、深見氏が亡くなった時に北野たけしは「自分は有名になる事では師匠を超えられたが、芸人としては最後まで超えられなかった」と語ったそうです。

 この時代になっても、深見千三郎氏の名前が残っているのは、その最後の弟子が「世界のたけし」と言われている北野たけしが居るからであり、これは古代のギリシャ哲学者のソクラテスが知られているのはプラトンが居たからと言われている事と同じだと思うのです。

 さて話は変わり、創価学会の「師弟」について考えてみます。
 創価学会では、池田氏を「永遠の指導者」と呼んで、会員は池田氏を師匠と呼んでいます。そしてその師匠と「不二」の関係が信仰の根本であり、活動家幹部になると、みなが「池田門下」を自称します。

 私が活動家幹部の時も、この池田氏を「師匠」と考えようとして苦労した事を覚えています。ある時には先輩幹部に「池田先生を師匠と思えないのですが」と相談した時、その先輩からは「斉藤君、それが君の生命の傾向性であり宿業なんだ」と指導されたりもしました。だから私は池田氏が地元近郊に来るという事を知ったら、自分が師匠と呼ぶ人物の生身の姿を見たいと会館に押しかけた事もありました。当然、金城会とか創価班に追い返されたりもしましたが、幾度か間近に池田氏を見る事も出来ました。

 創価学会では「池田先生にお会いする」と呼んでいますが、この様に映像ではなく「実物」の池田氏を目撃する事は、その後、創価班の任務などで幾度かありましたし、「お小遣い」としてお金を貰う事もありました。しかしこれは飽くまでも「目撃」したという事にしか過ぎず、池田氏の人間性とかを知る機会は今まで一度もありませんでした。

 果たしてこれで「師弟」と呼ぶ事が出来るのでしょうか。
 その事を何時も考えていました。

 池田氏は本部幹部会同時中継で「師弟こそ仏法の究極なんです」と宣言し、自分が如何に師匠の戸田会長に尽くしぬいてきたのか、また戸田会長の構想を実現してきたのかを語りました。しかしそれを聞く会員側では、この師弟を語る池田氏の人間性や思想性を間近に学ぶ機会はありません。それを知るのは人間革命という小説であり、新聞に掲載されるスピーチ原稿であり、本部幹部会で編集された映像でしかないのです。その中で小説は代筆者が執筆し、本部幹部会などのスピーチ原稿も代筆者がまとめています。まして本部幹部会の映像というのは、編集されているので全てが公開されている訳ではないのです。

 これでは「師匠」としての池田氏の資質を、弟子を自覚している会員達が知る機会が無いというものです。これを考えた時、どだい「師弟不二」と言い、池田氏を「師匠」にするというのは、形式だけであって、そこにどんな意味があるんでしょうか。

 天台大師は摩訶止観で「従藍而青」という言葉を使い、「青はこれを藍より取りて、しかも藍より青し」という事で、何度も修行を重ねていく中で、師匠よりも優れた人間になるという事を述べていました。そしてこれは創価学会でも1990年頃に池田氏も長編詩でその意義を述べていました。

 他の世界でもそうですが、仏教に於いても師弟関係というのはとても重要視しています。それは教えを正確に伝承する為にも、「法」としての教義と共に、それを実践した「人物」としての「師」の生きざまに触れる事で、より正確に仏教を伝承出来ると言う観点からだと思います。しかしそうであれば、やはり師匠と弟子というのは深い人間関係でつながる必要性があり、それは単に文字面とか映像でつながったという、表面的な関係性では師弟関係は構築する事は出来ません。

 以前に創価学会でも「経巻相承」という事を主張していた顕本法華宗を批判していましたが、いま創価学会の主張する「師弟」についても、それに似た内容であって、そこから見れば彼の宗派を批判する事は出来ないでしょう。

 池田氏が「師匠」としてどれだけの資質を具えていたのか。そこは側近として彼に仕えてきた人物を見ればよく解ります。山崎正友、福島源次郎、原田稔、長谷川重夫、谷川佳樹、正木正明、弓谷照彦。最近では遠山清彦もその一角にいた人物と言っても良いでしょう。彼らが果たして優れた人物であったのか、これは今の創価学会を見れば判るというものです。

 果たしてこれから百年先、二百年先。池田大作という人物はどの様に評価をされるのでしょうか。少なくとも北野たけしの師匠の深見千三郎氏。プラトンの師匠のソクラテスの様に歴史に名前を残せるとは、私は思えないのです。

 話を戻します。
 北野たけしは深見千三郎氏という、「伝説の浅草芸人」と呼ばれる師匠を持てた事は、彼の人生にとってとても幸福な事であったのではないでしょうか。やはり師匠と呼べる人物を、人生の中で持てる人というのは良い事なのでしょう。「浅草キッド」を見た時に、私はその事を実感しました。

 創価学会でも同様な事を良く会員に指導していますが、創価学会ではそもそも「師弟関係」という事を理解出来ていない様なので、そんな組織の指導はとても空虚なものでしかありませんね。


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