自燈明・法燈明の考察

宗教の種別について

 土日の休みは直ぐに終わってしまいます。最近は趣味に興じたり、本を読んだりと、休みはノンビリ過ごしていますが、たまに二十代から三十代の土日の事を思い出したりします。
 私の若い頃は創価学会と共にありましたので、土日は殆ど家に居ることはありませんでしたし、会合や学会活動に忙殺されていた日々でした。それが良いのか悪いのかは置いといて、平日は仕事+学会活動、土日はフル学会活動。そして男子部で部長をやってからは、日曜日の深夜まで会合や打ち合わせという予定が入っていたのです。
 それに比べると、これほど自分の時間が取れているのは贅沢な事だと、ふと思いますが、当時の仲間たちの多くは、男子部時代と同様に、今も王城会だ会合だと未だに忙殺されているようです。

 恐らく学会活動に忙殺されていることが、生涯青年という事なのでしょう。

 さて、最近読んだ「エデンの神々」という本があるのですが、これには今の人類社会の宗教について、大きく2つに分類した話がありました。
 この「エデンの神々」はアメリカの弁護士であるブラムリー・ウィリアム氏が、人類史と戦争の歴史を個人的に研究して、その背後に存在するものを考察している本ですが、彼によれば人類史と戦争に、宗教というのも深く関与していると言うのです。そしてそこで宗教については大別すると2つの種類に分類されると考察していました。

 宗教の分類というと、創価学会や日蓮正宗で言う教相判釈(五重の相対)を思い浮かべるとおもいますが、このブラムリー氏によると「カストディアン宗教」と「マーベリック宗教」の2つだと述べています。
 「カストディアン」とは管理者という意味もあるそうですが、これは大衆を管理して誘導するための宗教であり、「マーベリック」とは、独自とか独特という意味合いがありますが、これは自身の内省的な面に重点を置く宗教だと述べていました。
 ブラムリー氏によれば、キリスト教やユダヤ教、またイスラム教などは、発生当初はマーベリック的な宗教であった事もありますが、人類史の中で中世から現在に至るまでカストディアン的な宗教となり、人々を管理し誘導する役割を担ってきているというのです。
 ただプラムリー氏はインドで発生した仏教に関して言えば、マーベリック的な宗教であり、人の内省的な部分に焦点があてられたものと見ていましたが、近年になりこちらもマーベリック的な宗教となっていると述べていました。

 これとても興味深い考察だと私は思いました。
 日蓮も取り上げていた教相判釈でも、始めにあるものは「内外相対」であり、ここでは人の信じるもの(宗教)を「内道(仏教)」と「外道(仏教以外の婆羅門教や儒教、道教など)」に分類しています。
 この教相判釈ですが、単純に宗派の所属による分類とはなっていません。あくまでも信仰者として、どの様に教えを理解して実践しているのか、それよって内道と外道が別れるという判釈なのです。たとえ仏教宗派を学んでいようと、それを自身の心より外の事が説かれていると理解した時点で、それは仏教ではなくなるのです。その事について、日蓮は御書でも以下の様に述べています。

「然れば天台の釈の中には若し心を観ぜざれば重罪滅せずとて若し心を観ぜざれば無量の苦行となると判ぜり、故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり」
(一生成仏抄)

 だから現在、日本で理解されている仏教宗派でも、そこで説かれる内容を「おすがり信仰」としてとらえ、実践していた場合には、それは仏教に名前を借りた外道宗教という事になるのです。創価学会が勧めている信仰についても、私からすれば日蓮の文字曼荼羅を利用したおすがり信仰であり、外道一流派だと思っています。

 人は信じるモノに対しては、とても無防備で脆弱な存在です。だから自身の心の外に信じるものを置いた時点で、その信じるものを握る人達にとって、その宗教の信者はとても自由扱われてしまいます。先のプラムリー氏がいう「カストディアンな宗教」では、それにより人々は管理.操作され、人類史のなかで常に人々は戦争に利用されてきたと述べています。
 人が己の人生を生きるとき、大事な事は「己の心」を理解する事であり、プラムリー氏は書籍の中で、この事を「霊性」という単語で述べていましたが、そこへの探求と自立性を求めるものこそ、宗教への姿勢としては正しいのではないでしょうか。これは例え信じるものが、キリスト教であろうが、ユダヤ教やイスラム教であろうが、その教えを霊性に向けたものとして信じるのであれば、それは「マーベリックな宗教」となるでしょう。また自身を「内道」と呼ぶ仏教でも、そこで説き述べられている教えを「おすがり信仰」や「ご利益信仰」と捉え、自身の内省的なものと異なる信仰と捉えていれば「外道」になってしまいます。

 いま人類は歴史的に大きな転換点を迎えています。こういう時代に、宗教は大きな役割を担うことになるのでしょう。しかしその宗教には如何なるものが存在するのか。プラムリー氏の考察はとても大事な観点を与えてくれていると思うのです。

 先日、ロシアではロシア正教の司教が、ウクライナ侵攻は「正義の戦いである」として見解を公表していましたが、そのような宗教の行動とは最たるモノだと思います。そしてこれは何もロシア正教や、過去のキリスト教イスラム教に限った問題では無いのです。

 宗教を持った人たちは、こういった事を十分認識しておく必要があると、私は思います。


  


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