さて、今日も寝る前に一筆記事を書いておきます。
昨今の世情や政治の状況を見るにつけ、まさに日蓮が述べていた「国土乱るる時は、先ず鬼神乱る。 鬼神乱るるが故に、万民乱る」という事を目の前に見せつけられている感じがしてなりません。
この言葉は立正安国論にある言葉で、創価学会によればこれは「鬼神は、人の思考の乱れを引き起こし国家社会を混乱させる働きがあり、そこから鬼神を思想の乱れを起こすものの意に用いることがある。 」などと解釈をしていますが、これを漠然とした「思想の乱れ」と解釈するのは、底が浅いし研鑽が足りないというものです。
これは仁王経という経典に説かれている言葉なのですが、ここでいう鬼神とは、古代中国の老子墨家思想にある「悪を喰らう善鬼」という思想から来ていると私は理解しています。「何故、中国の道教の教えが仏典に?」と思われるかも知れませんが、日蓮も開目抄で述べている様に、仏教が中国に伝播した時、その解釈を行うために儒教や道教を引用した事もあるでしょう。また仏教を学んだ僧が還俗して儒教や道教へ移った事もある様です。そういう過程で互いに教えが混ざり合う事というのは仏教に限らず起きるもので、恐らくその名残が仁王経を漢訳する際に紛れ込んだのではないでしょうか。
まあ一つの想定ですけどね。
これを以って具体的に言えば、「鬼神乱れる」とは悪を喰らう善鬼が乱れるという事を意味し、つまる処「社会の善悪の基準が乱れてしまう事」によって、社会に混乱を来してしまう状況を指していると解釈する事が妥当でしょう。そしてこの後に仁王経では「賊来つて国を劫かし百姓亡喪し臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん」とありますが、これは国外から賊が来て国を衰退させ、国内には善悪を巡り上は指導者から下は民衆に至るまで論争が起きていく事を意味します。
まさに今の日本の世情や政治状況だと思いませんか?
私はこれで「だから日蓮仏法は凄い!」なんて言いません。それよりも東洋にあった治世の考え方というのは、やはり特筆すべき観点があるんだなと感心しています。何せ古代中国には、こういった思想が既にあったんですからね。でも、だからと言って、今の中国共産党の治める中華人民共和国が凄いとは言いません。むしろ中国共産党は、毛沢東氏の扇動した「文化大革命」において、中国に根付いていたこういう文化を破壊したんですからね。
さてこの「鬼神」に指し示しているのは、あくまでも「人」を基軸にした価値観上の話であって、これが生きとし生ける万物の大指針だなんて事はいいません。これはあくまでの「人の眼から見た善悪」の事であり、例えば人が良かれと思い起こす行動の全てが、地球上の生物にとっても善行とはなりません。もしかしたら他の生物からしたら「極悪」の行動もあるかもしれないのです。
これは仏教に限らずですが、世の宗教には「善行」を行ったものは、死後に極楽や天国へ行き、そうでない者は地獄や煉獄へ行くという考え方があります。しかし生き物全てという観点で言えば、私は「善」とか「悪」というのは存在しないと思うのです。唯一あるとしたら、己の心の中を研ぎ澄まして考えた時、己の取った言動、それが自身にとって「満足する事」なのか、「後ろめたい事」なのか。そういう事しかないと思うのです。要は人間社会の価値観の中にしか「善」「悪」というのは存在しません。
だからと言って、けしてそれを「軽視」して良いという事ではありません。人間は社会的な生物であり、社会には秩序が必要なので、その為にも当然「善」「悪」の基軸は必要になるのです。だから簡単に言えば、「善」「悪」というのは、人間が社会の中で生きて行く上では大事な基軸であるというだけです。大事な事には変わりないのですが、それがあたかも全宇宙の絶対的な真理みたいに考えると、それはそれで大きな問題を起こすのではないでしょうか。
創価学会では「極悪を憎めば、それは極善に繋がる」という思想があり、そこから「仏敵を野垂れ死ぬまで責め抜け」という思想をも、容易に信じてしまっているのです。
そういう観点から突き詰めて考えて行けば「宿命転換」なんて言葉も仏教には存在しませんし、「三世永遠の幸福境涯」なんてのも、とても空しい言葉であると理解出来るはずなのです。しかしそこも「鬼神の乱れ」の一派である「組織都合の善悪基準」なので、創価学会の活動家になればなるほど、認識できなくなってしまっているのでしょう。
人はいずれ必ず死にます。死んだ後には天国も地獄もありません。あるとしたら「人生を生ききった」という充足感か、「まだやるべき事があった」という後悔の念位な事でしょう。それは心の奥底にある阿頼耶識に今世の記憶と共に刻み込まれ、また次の生の「自我形成」にもつながっていくという事なのではありませんか?
今の社会、個々の人々毎に「善」「悪」を持っていて、その細分化をSNSが拍車を掛けています。そして人はこの「善」「悪」によって、己の心の中で毀誉褒貶の八風を巻き起こし、互いが互いを言い争い、勝他(他者に勝る)の心に煽られながら、社会の混乱に拍車を掛けている様に思えるのです。
もしかしたら「善」「悪」をも鳥瞰できる「自己の成長」が、今の時代では必要な事なのかもしれませんね。