自燈明・法燈明の考察

創価学会の根問い①

 ネット上、特にツィッター上の発言に見る創価学会の活動家の思考力というか、発言力の劣化には目を覆うものを個人的に感じています。私がネットを始めてみたのは、確か「ニフティ・サーブ」というサービスで、当時は「パソコン通信」と呼んでいた時代です。こういう事を書くと、私が如何にシニア世代なのかが分かってしまいますね。

 当時、ニフティサーブでも掲示板というのがあり、創価学会の話題というのは上がっていました。当時の私は二十代前半、男子部の中では班長という立場でしたが、創価学会に対する批判には、御書などを引用して反論していた事を憶えています。

 しかし近年、ツィッター上で見る発言というのは、どうも頂けない内容が多く見受けられます。ツィッターとは140文字の制約があるので、それなりに語彙を駆使する必要があるのですが、全ての事を表すにはとても不向きな場所です。でもそこで「対論」もどきな事を吹っかけてくるのですが、投げ捨て言葉の様なものが多くなるのでしょう。



 まあ彼らの言いたいのは自分が信じる創価学会こそ「正義」であり、それに仇為す発言は全て「極悪だ」という様な事なのでしょう。これには過去の池田会長の影響があるのでしょうが、あまりに言葉が粗すぎますね。もう少し単語を選びながら書いた方が良いと思います。

 さて今日の本題です。
 創価学会について、今の創価学会は信濃町界隈がおかしく、池田会長は幽閉状態の様になっていて、原田会長を始めとした執行部が組織を狂わせているという論調もあれば、今の創価学会こそが世界広布の主体であり、まさに旭日の勢いであるという論調もあります。また今の創価学会はオカシイが、昔の創価学会は正しかったという論調もあります。要は「万華鏡」の様に様々な想いが交錯する中で、創価学会という組織が語られている状況です。

 以前に、今は失脚して行方が分からない正木元理事長は、「師弟でこそ組織の分裂を防ぐ事が出来る」と豪語していましたが、「師弟不二」で十年以上走り続けた今の創価学会は思想的には分裂状態です。
 大勢を占める思考を停止した多くの活動家や幹部連中と、思考を停止しない細かな人達に分裂を始めています。この先、大勢を占める人達も、恐らく団塊の世代あたりが減少してくる頃から減少しますので、この万華鏡の様な状態がより顕著になり、組織力は衰退してくる事は明白です。

 正木元理事長は先の発言をした会合の中で「過去の宗教団体は、全て教義論争で分裂した」と言い、教義は一旦脇におき、師弟関係を強める事を主張していましたが、結果、教義を軽んじ人間関係の「師弟」を際立たせた組織風土を助長してしまい、それが「骨抜き組織」にしてしまいました。せめて教義に対する姿勢さへ堅持をしていれば、まだ社会の中で有用な組織になる可能性が僅かでも残っていたかもしれませんが、今の状況ではダメでしょう。

 そもそもの話をします。創価学会では罵詈活もアンチも、何れにしても大方共通した認識があります。それは「池田先生は正しい」「牧口・戸田・池田という三代の会長の思想は正しい」という事です。かく言う私も十数年前までは、真面目にこの事を信じていました。
 しかし創価学会に疑念を抱き、私はその根問いを始めたのですが、そこで理解できたのは、実は創価学会の問題の根っこにある思想性にこそ問題があると言う事を理解しました。

 創価学会が過去に主張していたのは「間違えた宗教や思想を信じる事から不幸にもなるし、国もおかしくなる」という事でした。では何故その創価学会という組織がオカシクなったという事は、そもそも「思想性に問題がある」と目を向けるのは自明の理だと考え、創価学会の歴史的な事、元々の派生元であった日蓮正宗の宗史に目を向けたのです。するとそこにあったのは、けして「正義」とか「正法」というものでは無かったのです。

 そもそも創価学会の派生元であった創価教育学会の教義の基本、それは大石寺の教義でした。大石寺の教義とは堅樹院日寛師の教義なのです。牧口会長はこの日寛師の教義に、独自の価値論という考え方をブレンドし、在家主体の教義を作り上げました。それが初期の創価教学です。

 私は創価学会を始めた頃、日蓮の教義はこの日寛師の教義だと信じていました。日蓮は御本仏であり釈迦をも迹仏である根源の仏。そして日蓮の説く教えは「独一本門の下種仏法」。釈迦の教えは末法の私達とは無縁の教え。そしてこの考え方は法華講や顕正会も同じ根っこである日蓮正宗から派生した宗派も同じだったので、そことの間で「勝った」「負けた」「正法」「邪法」と対論をやりあっていたのです。

 しかし一旦、創価学会を離れ、客観的に調べてみたら、この堅樹院日寛師の教えそのものが問題があり、その教えも江戸時代中期にまとめられたものである事を知り、実は中古天台恵心流の流れを、日蓮の教義に取り入れ構築された事を知りました。

 つまり創価学会の思想とは、そもそもの流れ自体に問題があったという事ですね。これでは組織もおかしくなるもんだと私は理解をしたのです。そうなると、やれ信濃町執行部がおかしいとか、池田先生の時代に帰れとか、戸田先生の時代は正しいなんて言葉は絵空事とも云えるのではないか。私はその様に思いました。

 創価学会の問題について、根問いをしていくと、私はこんな事を考えるようになったのです。その辺りの私の思考について、これから少し書いていきます。

(続く)



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