間もなく「シルバー・ウィーク」が終了します。私の仕事も今週はかなり暇でした。ほとんど開店休業状態で、会社貸与のノートPCの前でメールを眺め、ボーっとしていた感じです。
私の若い頃、長期の休暇といえばゴールデンウィークと夏季休暇、年末年始休暇だったんですが、ここ数年で「シルバー・ウィーク」というのも長期休暇としては定着してきているのでしょうか。
さて今回は「宗教貴族」という事について少し思う処を書かせて貰います。私のツィッターではこの言葉を多用していたりしますが、正確にはこんな単語はありません。
ただ長年、私が創価学会の活動をしてきた中で、本部職員と言われる人達や、外郭団体の職員、要は創価学会を「生業」にしている人達の生活レベルを見てきましたが、彼らの生活レベルは結構高くて、それこそ立派な家やマンションに住んでいたりするんですね。また本部職員同士で結婚している場合、奥方は専業主婦していて地元組織の婦人部幹部。その子息なんかも有名私学に通っていたりしてました。
しかし一方、会員の方はと言えば、確かに事業に成功していたり、賢明に仕事に取組み、それなりに財を成している人も居ますが、中には公営住宅に住んで、共働きの中で必死に生活している人も多くいます。また家長の檀那が町工場の工員とか、個人事業主で必死に働いているという人も多く、未だ「庶民の団体」という姿もあるのです。
こういった実態を見る度、またその「生活格差」を考えた時に、私はそこに「宗教貴族」という単語を使っています。
本来、宗教組織とは信者の「喜捨」により運営されるもので、その信者よりも、喜捨を受ける側の生活が豊かというのは、私個人として、信者よりはるかに高い宗教者の生活レベルは解せません。これは地方の会員から聞いたのですが、例えば会館勤務の家族の場合、携帯電話の通信費や、自家用車の維持費、また年一回の家族旅行まで創価学会の経費で賄われているという話も私の所に入って来た事がありました。
もし創価学会という組織に会員の喜捨によってあつまった資金により利益があった場合は、それらは会員に還元するのが当たり前と思います。そしてその還元とは、単なる会館建設とかそういう事では無いでしょう。
創価学会では機関紙の配達も会員達が低い賃金で行っています。それだけではありません。公明党に関する活動費も「自前」で行われており、機関紙の聖教新聞の拡販活動も、全てが活動家会員の自腹で行われています。
この様な格差を見た時に、本部職員や関連外郭団体の職員たちを「宗教貴族」と言わずして、どの様に表現したら良いのでしょうか。
ただこう言った、いわゆる「職業宗教家」が、信者を足掛かりにして莫大な利益を得るという事、これは何も創価学会に限られた事ではありません。日蓮正宗の一部役僧関係者についても同様な話はありますし、他の宗派の古刹大寺院等にも同様な事はある様です。
歴史的に見れば、16世紀のキリスト教世界に於いても、聖職者の堕落などによって信徒の不信が高まり、キリスト教ではこの事から宗教改革(ルネサンス)、そしてプロテスタント派への分派も起きました。
またこれは日蓮在世の鎌倉時代に於いても同様な事があった様です。日蓮の遺文には以下の記述がありました。
「人に吉と思はれ人の心に随いて貴しと思はれん僧をば法華経のかたき世間の悪知識なりと思うべし、此の人を経文には猟師の目を細めにして鹿をねらひ猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして在家の俗男俗女の檀那をへつらいいつわりたぼらかすべしと説き給へり」
(法華初心成仏抄)
ここでは末法の時代の悪僧について言及してますが、そこでは「法華経のかたき(敵)」となる僧は、どの様な姿の僧なのかを述べています。
それは人に良いと思われ、人の心に従って説法し、尊い人と思われる僧だと言うのです。そしてこういう僧はどの様な僧なのか、経典に説かれているのは、漁師が目を細めて鹿を狙い、猫が爪を隠して静かにネズミを狙う様にして、在家の信徒や旦那にこびへつらいながら、本来の教えとは全く別な事を説いて、人々を騙して様々なものを収奪するというのです。
人類の歴史上にいた「宗教貴族」とは、宗派は異なっても、この日蓮の指摘した事と同様な姿勢や行動を取っている事は、歴史を少し調べれば判る事です。そして今の創価学会の職員幹部などの中に、こういった人物は多くいるのではないでしょうか。
日蓮が「僧」と呼んでいるのは、何も僧形の「禿人」だけではなく、現代に於いてはスーツ姿の蓄髪の宗教家も含まれるのです。
「信者と書いて儲(もうけ)と言う」という言葉は、実に的を得た言葉だと私は思います。
宗教というのは、人の内面(心の奥底)を握るものです。その宗教を利用して立場が上となれば、その宗教を信じる人の心を掌握する事は実に容易な事なのです。ある意味で宗教というのは、現代人類にとって大きな脆弱性と言っても良いと、私は考えています。
世の中には人を利用する事で、巨万の富を得る人達は沢山います。企業の幹部であれば、従業員の生活を人質として従業員を操る事は出来ますが、そういう企業の従業員でも「心の自由」を侵される事はありません。しかし宗教では「心の自由」を奪う事が可能であり、心の自由を奪う事で、そこから人の生活をも支配する事が可能になるのです。
そういう事から言えば、宗教により利益を得るというのは、世の中にいるどのブラック企業の経営者よりも、罪が大きいと宗教を生業にする人は自覚すべきなのです。
では宗教により「心の自由」を奪われないためには、信者側はどの様な事に注意すべきなのか。それは宗教を信じる一人ひとりの心の中に、常に「屹立した自己」を保つ事だと私は思います。そしてその「屹立した自己」の為にも常に思索をし、また思索をする為にも教学等を学び、社会に根をはり、道理を以って判断する智慧を磨く事が必要なのではないでしょうか。
また宗教を生業にする側にいる人であれば、良く言う「小欲知足(欲少なく智を磨く事)」を常に心がけるべきです。けして宗教で利益を得ようとか、それで生活を豊かにしようと言う考えは持つべきではありません。そしてそれが出来ないと言うのであれば、宗教を生業にすべきではないのです。
少し古い資料となりますが、創価学会の(当時)幹部の年収について、平成四年度の納税額を紹介します。この情報は既にネットの上では公知のものとなっています。
・創価学会名誉会長 池田大作 8,715万円
・創価学会会長 秋谷栄之助 1,842万円
・創価学会理事長 森田一哉 1,387万円
・創価学会副会長 上田雅一 1,301万円
・創価学会副会長 青木 亨 1,024万円
ちなみに私の場合、年間の納税額は100万にも届きません。そこから考えれば、この納税額から年収は推して知るべきでしょう。
今の日本は、自民党と創価学会の政治部門である公明党の連立政権となってから、市場原理主義が導入され、貧富の格差が開くばかりではなく、それが固定化して来ています。しかし創価学会の組織は未だ「庶民の団体」であり、そこの会員達の生活は、必死に働く事で爪の上に火を灯すような生活を強いられています。そしてその様な庶民たちが、創価学会の政治行動を後押しし、宗教貴族ともいえる人達の生活を支えているのです。
出来上がった宗教の物語を信じるのは良いのですが、本当にそれで満足なのでしょうか。宗教組織を腐らせてしまう原因は、そういった信者の思考停止。無智・無関心にあるのでは無いでしょうか。
よくよく考えてほしいものですね。