「法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書)
日蓮仏法を語る人達であれば、この日蓮の言葉を知らない人はいないと思います。しかしながら、ここで日蓮が何故、この様な言葉を書いたのか、その真意を理解している人というのは、以外と少ないのではないでしょうか。
「日蓮大聖人と呼びなさい。単に”日蓮”なんて呼ぶ事は、不敬の極みである」
「末法の御本仏の真意を知らない増上慢め」
ネットで日蓮系の宗教団体の人達は、この日蓮の言葉を解釈し、日蓮の事を人間として見て、その思想の本質を探ろうとする人達を、この様な言葉で愚弄するところを、私は多く見てきました。
そもそも「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば」とは、どういった言葉なのでしょうか。
これは単純の名前の呼称に「尊称」を付けないからとか、呼び捨てにする事をさして「あしく」という事なのか、そこをまずは考えなければいけないのではありませんか?
過去、日蓮仏教を信奉する人達は多くいました。
日蓮の生涯、また彼の残した言葉の多くが「国を憂える言葉」である事から、日蓮系の宗派や宗教団体の人物の多くは、天下国家を語る人達であふれています。
身延山系の僧侶でしたが、還俗して国柱会を設立した、田中智学。
その国柱会に入会し、後に「世界最終戦論」を提唱した。石原莞爾陸軍中将。
二・二六事件の首謀者である若手将校の思想的な支柱となった、北一輝。
創価教育学会を設立し、後の創価学会の基礎を作った、牧口常三郎。
創価学会は日蓮仏法の正統継承団体として、現在では政権与党の一翼をになっています。
こういった彼らや、その関係する宗教団体や関連組織の思想性を、全て否定するわけではありませんが、日本という国やその政治について、果たして悪い影響を与えて居ないでしょうか?
悲しいかな、私は良い影響以上に悪影響を与えていると思います。
現在(西暦2019年)に至っては、創価学会などは公明党という政党が政権与党に入り、自公連立政権として政治の一翼を担っていますが、けして良い日本社会にはなっておらず、日本は国内・国外ともに混迷の度合いを増しています。
つまるところ、「日蓮をあしくうやまはば」とは、日蓮の思想を正確に理解し、そのもとで信仰をしない事を指すのであって、間違えた認識で日蓮の教えを広めるのであれば、その国家が滅びてしまうという危険性を、日蓮本人が語った言葉ではないでしょうか。
私はその様に思えてならないのです。
だから私は、自分の頭と言葉で語れるように、日蓮について学び直さなければならないと考えています。そしてその為の一つの手法として、このブログを通じて思考の軌跡について公にしていきたいと考えているのです。