連休も終わり、今日から仕事でしたが、職場の半分が「シルバーウィーク」という事で、有給休暇を消化する為に休んでいます。だから仕事始めとは言っても開店休業状態で、朝からノンビリとやってました。
先程まで、ネットである記事を読んでいました。これは東日本大震災後の話で、死者が女性に憑依してしまい、それを除霊したという僧侶の話です。
「憑依」とは昔から憑き物とも言われ、死者などの魂が体に入ってしまい、その人の体を乗っ取ってしまうという現象です。これは恐山のイタコの口寄せも近い状況かもしれませんし、心霊番組などでも良く紹介される事です。
精神医療などでは似たような症例を「憑依体質」とか「多重人格症」という事で言われていますが、果たしてこういった事象が全て精神病の範疇の出来事なのか、そうでは無いのか、それについては未だ断定できるほど、「憑依」については解明されていないと思います。
この記事の中で紹介されている憑依された人達は、自分の体が入れ替わり立ち代わり、東日本大震災で亡くなった人達であろう魂に憑依され、憑依した魂は、その救いをその人の体を通して除霊が出来るという僧侶に求めたというのです。
憑依された人というのは、この記事の内容でもそうですが、全くの別人格になってしまう様で、これに似た話は私が創価学会の活動家の時代にも幾つか聞いた事がありました。
若くか細い女性が、狐憑きになった途端に男の声で「離せ~」と叫び、大の男五人でも抑えられない力で暴れるという先輩の実体験とか、老人が正宗寺院で唱題中に地面に倒れ、蛇の様に床の上をのたうち回るという姿を、私自身見た事があります。
少し角度は変わりますが、こういう事を見る度に、自分を統制している「自我」というのは何なのか、不思議に思ってしまいます。この紹介した記事では、憑依した魂(自我)に体が乗っ取られ、本人の自我は脇に追いやられるという感覚を持っていた様です。
前の記事で「九識論」という理論を紹介しました。これは人の心が多重的な階層構造を持っているという内容でした。また「十界互俱」という事では、その心の感情の動きの活発さを表し、「一念三千」ではその心が社会や住む環境とも相互に影響を与え合うという事を表していると説明しました。
これらの考え方は、あくまでも現段階の私自身の理解した事であり、これこそが真実とは言いませんが、私はその様に捉えています。
仏教にはこれ以外にも「三身論」というものがあります。これは心と体の在り方について説明した教えだと私は思うのですが、今回はその事について少し取り上げたいと思います。
「三身論」とは大乗仏教で述べられている仏の身の在り方の事で、「十地経論」の第三には「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」と述べられているものです。その内容は次の様なものです。
・法身
心理、真如そのもの。仏性とも考えられている
・報身
仏性の属性や働き、修行して成仏する姿
・応身
この世にあらわれる仏の姿
四世紀頃の中期大乗仏教では法身(永遠身)と色身(現実身)の二身説だけだったと言われていますが、五世紀頃までに仏の本質であり永遠性を持つ法身と、現実の仏の姿である現実身の関連付けが問題となり、報身という二つを合わせたものが確立したとも言います。
この三身論とは仏の身の在り方の論とされていますが、法華経にある久遠実成の釈尊という観点から考えても、私達の心の在り方、つまり心と体に関する論であると捉えても良いと思います。では具体的にはどの様な論として解釈すべきなのでしょうか。
ここでいう「法身」とは、心の本質(真理・真如)であるとも考えられます。過去から未来まで一貫して自身の心の基底部に存在するもので、解り易い言葉を借りるのであれば「魂」という表現の仕方もあるんでしょう。また「応身」とは、この現実世界に現れる姿で、心の宿る肉体を指します。そして「報身」とは「法身」と「応身」が合わさって、この世界で様々な活動を行う姿であると捉えられます。
ただこの「三身論」というのは、一つの側面から考えられた理論であって、これにより人の心と体の在り方というのが、全て説明つく訳ではありません。
近年では「AI(人工知能)」と、その人工知能に接続するデバイスにより活動するロボットの開発が進んでいますが、そのロボットを例に「三身論」を考えてみましょう。
近年のAIとはクラウドというネットワークシステムに構築されています。そAIシステムは「法身」と考える事が出来ます。またロボット本体も多くのソフトウェアが組み込まれ、様々な複雑な装置で構成さたシステムですが、これを「応身」と考えてよいかもしれません。
そしてAIのシステムとロボットのシステムが協調して働く事で、ロボットとは目的の働きをしますが、その目的の働きをする事を「報身」と考えても良いかと思うのです。
こういった「三身論」から、先ほどの「憑依体質」という事を考えてみると、ロボットが別のクラウドにあるAIに接続されて動く事なのか、もしかしたらそもそもクラウドのAIシステムには、他のAI(他者)とつながるインターフェースが事前に備わっており、そこを通じる事で、容易に他のAIによる動きをロボットはしてしまうという事なのかもしれません。
人の心とには「自我」という認識がありますが、そもそも自分と他者の間には明確な区分けというものはなく、心の基底部として同質なものがあって、そこから「自我」というのも派生しているのであれば、その他者が生きているとか死んでいるという、そういった「現実世界」の在り方とは関係なく「自我」というのは存在するのではないでしょうか。
法華経の如来寿量品第十六には、以下の様に説かれています。
「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず。斯の如きの事、如来明かに見て錯謬あることなし。」
ここでは仏とは三界(この娑婆世界・現実世界)の在り方を正確に知っている。生死と言っても退いたり出現したりするという事ではなく、生きている者、死んだ者という者もない。本当でもなく、嘘でもなく、同じでもなく、異なるという事でもなく、この現実世界は目に見えている様なものでも無い。その様な事を仏は明らかに見て、錯誤する事はないのであると言っています。
私達の日常では、現代の科学で説明できない事は「謎」「オカルト」と認識をしてしまう事があります。しかし、そもそも現代の科学は万能ではなく、例えば宇宙の広さも理解していなければ、私達の体の構成要素の極微の実体すら解明されていないのです。
だからこういった「憑依体質」と言う事で現れる事象についても、軽く見る事なく、そこに語られる出来事について、真剣に考える必要もあるのではないでしょうか。
今回は少し話がぶれてしまい、判りずらいものとなってしまいましたね。