法華経について、何故勤行で読誦する経典なのか、そこから考えて少しこの経典について、とは言っても方便品と如来寿量品についてだが、ここまで色々と書いてきた。私がここまで多少書いてきた内容が、これこそが真実だなんて事を言うつもりはない。おそらく出家僧の中では私よりも深い思索の中で、この法華経からより深い甚深の意義を読み解く人もいるだろうし、これは仏教学者の中にもいるだろう。
ここまで私が法華経の事を書いたのは、日蓮正宗系(創価学会や顕正会を含む)で自行として朝晩真面目に経典を読誦するわりに、それとは相反する教えになっている教団に唯々諾々と従っているという事について、少しでも差し込んでおきたいと思ったからだ。
日蓮正宗系でもそうだし、創価学会や顕正会でも同じ事だが、彼らはどうも法華経を修行の一環として、漢文を音読し呪文の様に唱える事には長けているが、その経典の内容を理解しようとか、そこにある教えに触れてみるという事を、どうも忌避している様に感じるのである。
「にーじーせーそん、じゅうさんまい、あんじょーにーきーご・・・」
この様に朝晩に読誦しても、その意味すら分からないし理解しようともしない。思うにそこに実は堅樹院日寛師の教学が深く影響しているのではないだろうか。その事について今回は書いてみたいと思う。
堅樹院日寛師は、日蓮正宗総本山大石寺の二十六世の貫首で、大石寺では「中興の祖」と呼ばれている。師は寛文五年(1665年)に上野国前橋で生まれ、天和三年(1683年)に大石寺二十四世日栄を師範として出家した。そして享保三年(1718年)に二十五世日宥から相承を受け二十六世として登座し、享保五年(1720年)に日養に付嘱する。その後、享保八年(1723年)に日養が亡くなった事から再当座した。享保十年(1725年)には宗門教学の大綱を「六巻抄」としてまとめ、翌享保十一年(1726年)に二十八世に日詳に付嘱した後、62歳で亡くなった。享年62歳。
この堅樹院日寛師が「中興の祖」と呼ばれたのは、ざっくり言えば江戸時代中期には富士の裾野にあった山寺でしかない大石寺を「六巻抄」でまとめ上げられた様な教学をもって、一躍、興門流の中で中心的な寺院へと格上げした事だと言われている。
しかし近年になり明らかになった事だが、例えば堅樹院日寛師の教学で言われている「日蓮本仏論」は、中古天台宗恵心流にあった「天台本仏・釈迦迹仏」を焼き直したものであり、これは日蓮宗教学の中では全くの異流義の教えである。当時の興門派の中には天台宗への関心が高まっていた時期でもあり、日寛師は川越にあった中古天台の仙波檀林を訪れ、そこにあった「天台本仏・釈迦迹仏論」を元にして「日蓮本仏・釈迦迹仏論」を作り上げ、大石寺の教学として組み込んだというのである。
またそれ以外にも日蓮が開目抄で述べた「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」という言葉から「文底秘沈」という解釈を用い、いかにもこの一念三千という法門が、仏と仏の間でしか語る事が出来ないという事にしてしまった。
また大石寺に伝わっていたとする文字曼荼羅を、根源の本尊として絶対化し、その戒壇建立について「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり。」とも語っていた。
確かに日寛師は独自の教義を構築し、それを興門派の中で宣伝した事で、それまで京都の要法寺から長きにわたり貫首を送ってこられるような、富士の裾野にあった山寺である大石寺を宣揚し再興、それによって中興の祖として仰がれる事になったが、今振り返ってみるとこの功績よりも、後の世に与えた罪科の方が大きかったのではないだろうか。
まずはじめに「日蓮本仏論」について。
日蓮の御書にはすでに存知の人も多いと思うが、真書と偽書(日蓮直筆のものと、後世に追加された贋作)が入り混じっている。大石寺では日蓮を「久遠元初・自受用報身如来」と位置付けているが、日蓮の御書で真筆と言われるものの中を読み取っても、そんな言葉を日蓮は一言も述べていない。私が以前に創価学会の中で活動をしていた時も、この事についてはどちらかというと「忖度」というレベルで、御書にある「教主釈尊」と書かれた言葉を「日蓮大聖人はご謙遜の立場から名言されていないが、これは大聖人自らの事を語っていたのだ」と解釈する事ばかりであった。
富士宗学要集の有師化義抄註解などを見ると、仙波檀林と大石寺は交流もあった様であり、その仙波檀林に伝わる「天台本仏・釈迦迹仏論」というものをテンプレートにして、恐らく日寛師により大石寺教学に組み込まれたというのが正解なのではないだろう。まあこれが正解が間違いなのか、そんな事はどうでも良い。問題なのは「日蓮本仏論」により、仏教の開祖であった釈迦は「日蓮の迹仏」という扱いとされ、末法の私たちとは無縁の仏なのだから、その教えは無益なんだとしてしまった事により、この日蓮本仏論を信じた後世の信徒の間に、従来から伝わっている仏教そのものを軽視をする風潮を醸成してしまったのは、間違いのない事実である。現に2014年に会則改正を行い教義改正をした創価学会に於いても、実はいまだに「日蓮本仏」と「釈迦本仏」についての理解が一向に進んでおらず、そのあたりが曖昧のまま現在に至っているし、創価学会の会員の多くは既存の仏教の教えについては、ほとんど理解をしていない。
そもそも如来寿量品で久遠実成を明かした際、釈迦は弥勒菩薩対して久遠という昔を理解出来るか、との問いに対して「一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。」と弥勒菩薩は答え、それは既に時間軸の枠組みや人智の及ぶところでは無いと述べているにも関わらず、その久遠をあたかも「昨日の様な」それよりはるかな昔に成仏しているという久遠元初という考え方自体、すでに法華経の意義から逸脱しているのである。
次に文艇秘沈という考え方だが、日寛師の六巻抄の「文底秘沈抄」を見ても、なるほど論文としての完成度は高いかもしれない。しかしそもそも「文上読み」と「文底読み」というのは、それほど深い意義を掘り下げずとも、私たちが日常の中にある事なのではないだろうか。
ここに一つの小説がある。小説には物語が描かれており、人々は小説を読むことでその物語を疑似体験できる。しかし多くの小説には、その物語を通して書き記したい事というのが存在する。その場合、「文上」では物語となるが、「文低」とはその書き記したい事となる。
如来寿量品とて同じ事ではないだろうか。表面上は釈迦と弥勒菩薩を筆頭とした聴衆のやりとりで、久遠実成の内容が描かれ、それに対して様々な比喩が解き明かされている。しかしそこの物語で説き示されたのは、方便品第二で明かされた一念三千の実際の姿についてだと思われるし、そこには文字にあらわあれていない事は一つもない。あるのは読誦する側の認識と理解力の差でしかないのである。それをあたかも難しい講釈を垂れて、いかにも「御仏智」が無ければ文底の意義は計り知れないという様な事をしてしまったのでは、意味がないのではなかろうか。
よく言うではないか。本当に理解している人は簡易な言葉を使い表現し人々に理解をせしめ、理解できていない人ほど難儀な言葉で説明して人々を混乱させ理解させる事すらできないと。私は日寛師の文底秘沈の考え方は、後者だと思うが皆さんはどの様に思うだろうか。
また大石寺に伝わるという「大本尊(文字曼荼羅)」をひたすら持ち上げ、それを絶対化してしまい、そこから偽書の疑いが濃厚な「二箇相承書」を取り上げて戒壇論を述べた事も頂けない。これが結果として創価学会による政界進出への端緒を与え、顕正会という原理主義的な宗教団体の後ろ盾にもなってしまった。そもそも大石寺の文字曼荼羅が「出世の本懐」として日蓮が顕したものなのか。近年では日宥時代の創作ではないかとさえ言われている。文字曼荼羅にしても確かに日蓮は在世の時に、門下や信徒に下付はしているが、それだけを本尊という事は述べていない。現に信徒であった四条金吾から釈迦仏像を作ったので開眼供養を請われた際に「木絵二像開眼之事」という御書をしたため、そこでは仏像の意義などについて解りやすく述べているではないか。これについても後世にとっては害悪の方が強く残ってしまったのではないだろうか。
私はここで法華経の内容について、幾つかの記事で書かせて頂いているが、これも日蓮正宗や創価学会の元では気づきも出来ない事ばかりであり、逆に日寛師の教学を一端離れ、虚心坦懐に法華経と向き合う中で気づき得た事がとても多くあった。そこから考えれば、日寛教学からは離れるべき時代になったと言えるのではないだろうか。
創価学会に於いても2014年の会則改正に伴う教義変更で、この日寛教学については見直しを図ると豪語していたが、どうも選挙一色でそんな事をやるそぶりも見せずに来ている。初代会長・牧口恒三郎、二代会長・戸田城聖が「日蓮大聖人仏法」と信じてきたのが日寛教学であることは疑うべきもないが、そろそろ本腰入れて見直すべきだろう。