自燈明・法燈明の考察

日本の残念感③

 日本は日清・日露戦争以降、第一次世界大戦に於いても連合国側にいて、その事から五大国の仲間入りをし、国際連盟の常任理事国入りも果たしました。 
 それにより、極東アジアや太平洋方面に権益も拡大したのですが、その事がかえって欧米諸国から警戒感を抱かれる事にもなりました。中でも中国への権益拡大を狙っていたアメリカも、中国の権益をこの先日本が阻害するのではないかと警戒感を高めていて、その影響からアメリカの元宗主国であるイギリスとの間で締結していた日英同盟も解消されてしまったのです。

 日本と日露戦争以降に友好関係を深めていたロシア帝国も、その後、ロシア革命により、ロマノフ王朝が倒れてしまい消失してしまった事から、日本は国際的に同盟国を持たない状況になってしまい、孤立を始めてしまったのです。

 これから先、日本は日中戦争、そして太平洋戦争へと向かうのですが、そこにはやはりこの国際的な孤立と、世界的に帝政時代から民主主義制へと移行が始まっていた事に対して日本政府の認識の無さがあった様に思います。

 先にアメリカが日本に対して警戒感を高めた話をしましたが、アメリカでは1906年に対日戦争計画(別名、オレンジ作戦)というのが存在し、実は日露戦争以降、太平洋戦争に至るまでの間に、この戦争計画が検討を進められていたのです。その計画とは1938年には「新オレンジ作戦」、そして1941年には「レインボー5号作戦」というものがあって、そこでは日本の経済弱体化、太平洋海域の海上交通線の封鎖や破壊、南洋諸島の占領などが主軸として検討されていました。

 日本は世界の中の五大国、そして国際連盟の常任理事国でありました。しかしこの様な諸外国の表に出ない動きについて、当時の日本政府は知る由もなく、結果として太平洋戦争による敗戦、また大日本帝国の滅亡という憂き目に逢いましたが、これはこれらの事が遠因となった事は否めない事だと思います。

◆軍部の暴走について
 当時の日本政府(大日本帝国政府)というのは、帝国陸海軍がとても大きな力を持っていました。本来、戦争を担当する軍は、政府の外交活動に従うものでしたが、日本では陸海軍の統帥権は、大日本帝国憲法により天皇が持つものであり、政府が統制を取れるものでは無かったのです。また内閣についても首班である総理大臣が内閣を完全に統制できるものではなく、陸海軍の大臣の動きによっては内閣総辞職という事も可能となっていました。

 また帝国陸海軍は、明治維新に設立されて以降、戦争で負けた経験をせずに来た事も、この軍部の独走を許す気風を醸成してしまったという事もあるかもしれません。いつの間にか「常勝不敗の陸海軍」という文化の上に、軍首脳陣が胡坐をかいてしまっていた事も否めないのではないでしょうか。

 日露戦争で日本海海戦を勝利に導いた、東郷平八郎氏は、その解散の辞の中で以下の様に述べていました。

「百發百中ノ一砲能ク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。」

 海戦において砲弾を敵艦に命中させるというのは、とても困難な事と言われています。その砲弾にあって「百発百中のうちの一発とは、百発一中の砲門の百門に対抗する事が出来る」という事を理解する事が出来るのであれば、軍人とはその武力を形而上(見えない不可思議な力や精神論)に求めてはいけないというのです。つまり戦いとは精神論ではなく、しっかりとした用意周到さが必要だと言うのです。

 しかし日中戦争から太平洋戦争に至るまでの日本の帝国陸海軍は、どちらかというと、計画性や情報収集、そしてそれらの分析や評価とは別次元に精神論(形而上の理論)に重きをおいてしまっていたのではないでしょうか。だからインパール戦をはじめとする各戦局においても、無様な戦いをしてしまいました。また本来であれば外交交渉と合わせて動くべき軍部を政府が統制を取る事も出来ない状況になっていた事も、戦争を悲惨なものにした要因だと私は歴史を見ていて感じました。

 アメリカと戦争をするにしても、開戦前にその情報がすでにアメリカに筒抜けになっていたことが、近年の歴史研究で判った事ですが、これは本来あり得ない事だと思うのです。この様な杜撰な外交の結果、あの様な無益な戦争で多くの国民を死に至らしめ、周辺国にも多くの被害をもたらしたという事について、日本は本来ならしっかりと総括すべきでした。しかしその総括をするタイミングすら、日本人は奪われてしまいました。

 太平洋戦争のあと、極東軍事裁判により「戦犯」として日本の戦争当事者である政治家や軍人たちは、連合国により一方的に裁かれてしまいました。これは国際法上で大きな問題があった事は、インドのパール判事が論及していましたが、それにより日本人として自分達が起こした戦争という行為と向き合う機会を奪われ、総括する機会すら奪われてしまったと考えてます。ただ当時の日本人がそれを行えたかについては、疑問な処でもありますが。

◆戦後の日本
 私は現日本国憲法は、やはり連合国(アメリカ)から与えられた憲法であると考えています。よく憲法議論の中では、連合国から押し付けられた憲法だという話がありますか、そうではなく与えられた憲法だと思うのです。
 これは日本国憲法の起草から成立に至るまでの過程を見れば解りますが、当時の日本の中で、当時の世界の潮流である民主主義国家の形を理解できる人物が政府内にはおらず、また終戦についても「国体の護持(天皇制を中心にした国の形の維持)」に汲々としていた事もあり、そもそも国家の有り様を理解して居なかった事が解ります。理解していないから連合国と議論出来る人物も居らず、結果として受け入れたのではないでしょうか。
 そこには基本的人権とか、様々な当時の世界の求める形も埋め込まれていたのは、戦後の日本にとっては幸運であったと思います。しかし第九条に至っては、あまりにも理想主義過ぎてしまい、今の人類社会の中の国としては、成り立たない内容であったのかもしれません。結果として国家安全保障の軍事オプションについて、日本人には大きな誤解を刷り込んでしまったように思うのです。

 この国家観の歪さが、結果として戦後の日本の自衛隊の存続に関する無認識な議論を呼び、しかも独立国である国の首都上空の制空権をアメリカに渡してしまい、昨今では沖縄米軍基地の問題や尖閣諸島に関する問題でも、国として明確な姿勢を打ち出すことも出来ない状況を作り出しているのでは無いでしょうか。

 この国を考えられないという事が、結果としては近年の尖閣諸島の問題や竹島の問題にも影をおとし、昨年から起きた新型コロナウイルス禍に対する、政治家の無能な姿をも作り出してしまったという事もありえる話です。

 そろそろ、こういった事についても、日本人としては考えなくてはいけないと、私は思っています。



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