このゴールデン・ウイークは、皆さん如何お過ごしでしたか?
私は友人とデイキャンプに行ったり、家族と出掛けたりしてまして、ここ数年内の中では一番動き回った連休でした。
でもその為か、今週から仕事を再開したのですが、未だに休み疲れが抜けきれていません。今週は仕事のリハビリ期間として、適当に仕事をこなすことにしています。
さて、今朝方(5/11)のニュースで報道されていましたが、ダチョウ倶楽部の上島竜兵氏が亡くなったそうです。享年61歳。今の時代からしたらまだお若い年齢かと思いますが亡くなられました。人は何時この世界から去るのかは、誰人も予想し得ない事なんですが、必ず亡くなってしまう存在だと言うことを改めて考えさせられます。
仏教ではこの世界は苦悩の世界だと説いていまして、それは四苦八苦と言っています。ここで言う四苦とは「生老病死」の4つを言いますが、思うにすべての苦悩の一番の原因とは「この世界に生まれ出ること」から始まるのではないでしょうか。
この生苦ですが、これは生きること自体の苦悩という解釈もありますが、やはり「産まれる」という観点もあるのかと私は思っています。この世界に生まれでてから、人は「死」へ向かい進み始めます。そして死苦という事から派生しているのが、病苦であり老苦になるのではないでしょうか。人は病になり苦しむのも、老いにより苦しむのも、その先には「死苦」というのがあって起きるものだと思うのです。
こんな事を考えていると、ふと「キサー・ゴータミーの説話」を思い出していまいます。
この説話は、このブログでも過去の記事で少し触れていますが、振り返りで少しご紹介します。
釈迦が生きていた頃のインドで、キサー・ゴータミーという母親がいました。彼女は自分の子供が死んでしまった事に大変狼狽えていて、何とか子供を生き返らせたいと彷徨っていましたが、ある時、釈迦が近くに居ることを聞いたそうです。
「ブッダならば子供を生き返らせる事が出来るのかもしれない」
ゴータミーは必死の思いで、釈迦の元を訪れて、自分の子供が亡くなったこと、それが如何に辛く苦しいことなのかを訴え、何とか子供を生き返らせてほしいと懇願しました。
それを黙って聞いていた釈迦は語りました。
「わかりました。それでは子供を生き返らせてあげましょう。但しそれには一つお願いしたいことがあります。それは芥子の実を持ってきてほしいのです。但しその芥子の実は、今まで死者の出た事のない家に有るものでなくてはなりません。持ってきてもらえますか?」
これを聞いたキサー・ゴータミーは大変に喜んで、必ず芥子の実を持って来ることを約束して、街の中に飛び出していきましました。
キサー・ゴータミーは街にある一軒一軒、芥子の実を探して歩きました。当時のインドでは芥子の実は珍しいものではありません。どこの家にもあるものです。しかし歩けど歩けど、訪れる家々では必ず誰かが亡くなっていました。中にはキサー・ゴータミーの状況を聞き、励ましてくれる人も居たようです。
そしてゴータミーは「死者の出ていない家にある芥子の実」を必死に探す中で気付いたと言います。それはどの様な家であっても、必ず身内の誰かが亡くなっているという事、そして人は必ず死ぬという事だったと言います。そして自分が子供を亡くしたことも、何も特別な事ではなく、人生の中で出会うべき苦しみであったことを気付いたと言います。
ゴータミーはその後、釈迦のもとに戻り、その自身が気づいた事を釈迦に語り、そこで出家して後、釈迦の下で悟りを得たと言われているのです。
多少のディテールの違いは有るかもしれませんが、キサー・ゴータミーの説話とはこんな内容だったと思います。
仏教には様々な宗派や教団があります。そしてそれら教団では様々なご利益を述べています。病が治る、若く生きていける、命を長らえる等など。
私が一時期活動していた創価学会でも「功徳」という言葉や「宿命転換」という言葉で、これに似たことを述べていました。
しかし仏教には本来、そんな奇跡体験の様な功徳やご利益を求めてはおらず、この四苦(生老病死)の克服を求めていると思うのです。そしてこの克服とは、何も神通力によるものとか、何か超絶的な力(ちから)に依るものではないと、私は理解しています。
先のキサー・ゴータミーの説話でも、子供の死に苦しむ母親に対して、釈迦は「死者の出たことのない家にある芥子の実」を探すことを提案し、ゴータミーはその提案を受け入れ必死に人々と語り合う中で、「死」という事を理解して受け入れる事が出来ました。そしてそれによって人生の苦悩から脱却した(悟りを得た)と言うのです。
この世界に生まれ出たのであれば、様々な悩みや苦しみに逢うのは当たり前であり、これは誰人も避けることが出来ません。
大事な事は、そんな様々な苦悩から逃げることや忘れることではなく、その苦悩を正面に捉えながら、その苦悩の本質を理解することなのでは無いかと思うのです。
苦悩があるから理解できることもある。そして苦悩を乗り越えるというのは、その苦悩により経験できる出来事の本質を理解する事なのかもしれません。
法華経の如来寿量品には「衆生所遊楽」とこの世界については述べています。ここで言う「遊楽」とは、気楽に遊び楽しむところという事ではなく、苦悩を通じて人生の意味を一つ一つ理解する事なのではないでしょうか。私はキサー・ゴータミーの説話を思い返したときに、そんな事を思いました。
人生はヤモすると「永遠に同じ状況が続く」「終わりの無い世界」と誤解しがちですが、誰にも必ず終りが来るモノであり、その途上には病や老い等に悩まされ、時には苦しむものなのでしょう。だからこそ、よくよく思索をしていきたいものですね。