今回はこの事について、法華経にある久遠実成という観点から考えてみたいと思います。まあ私の勝手な考えなので「こんな見方があるのだな」程度に読んでもらえたら幸いです。
◆久遠実成の釈迦
仏教は言わずと知れたインドに誕生した釈迦が語った教えを元に出来た宗教です。王子という身分を捨て、家族を捨て、苦行林で壮絶な修行を行い、周りの仲間は「ああ、釈迦はこのまま死ぬのだろう」とまで思われたほど行い、結果、それでは答えが得られぬと知ると苦行を止めて体調を整え、菩提樹の下で瞑想し、悟りを得たことになってます。
しかし法華経如来寿量品において、地涌菩薩からの弥勒菩薩の問に対して、この菩提樹の下で悟りを得たという事をひっくり返して、自分自身が元来から仏であった事を明かすのです。そうなると釈迦がこの世界に誕生し、四門出遊と言われる様に人間の苦悩を考え苦しんだ事も成仏していた釈迦の姿になるし、苦行林で死ぬほど苦行した釈迦も成仏していた釈迦となります。そして過去世において、雪山童子や薩多王子が法を求めたのも成仏した後の釈迦の姿になるのです。
これだけでも「成仏」という事についての、大きな転換なのですが、如来寿量品では以下の事を語りました。
「善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき。」
ここで言う燃燈仏とは、釈迦の前世の姿で儒童梵士という時に、この修行によって来世は釈迦仏になると語った仏ですが、ここでは燃燈仏も儒童梵士も、共に久遠実成の釈迦の姿だとなります。
法を説く方も、教えられる方も、共に五百塵点劫の昔に悟りを得た釈迦であるとは、どういう事なのでしょうか。
◆私達の意識について
先日、AIの専門家ベルナルド・カストラップ博士という人が、とても興味深い仮説を語りました。それは「宇宙意識とは解離性同一性障害の様なものである」という事です。ここでいう解離性同一性障害とは、知られた言葉で言えば多重人格です。
この仮説では、元々は宇宙にあった意識(心)とは一つであったが、その心が人格的に別れ別れて、私達の一人ひとりの心(人格)となっているというのです。この説についての細かいことは、ここでは割愛しますが、これは久遠実成の釈迦という話と、とても親和性我あると思います。久遠に悟りを得た釈迦、そしてそれが燃燈仏でもあり儒童梵士でもある。根本は久遠実成の釈迦なのですが、現れ方が全く異なった人格です。
この様な事を考えていくと、法華経とは「全ての人に尊極なる仏性があり、一人ひとりが尊い存在である」という事から発した「人間主義」という展開は、かなりミスリードがあったと思うのですが、それは脇に置いておきます。
つまり久遠実成から見えるのは、この世界の全ての生き物は同一の意識体を根本として、そこから分割された一つ一つの意識(心)を持った存在ではないかと言うことです。それはまるで大海の海水をそれぞれ形の違う水槽に分けた様な存在であり、その持ち合わせる成分等は、まったく大海と異なるものではないという事なのかもしれません。
「久遠実成は一切の仏の本地譬へば大海は久遠実成魚鳥は千二百余尊なり、」
(聖密房御書)
これは日蓮の言葉ですが、実は日蓮もこの法華経から同等の事を考えていたのかもしれませんね。
◆ここから理解すべき事
さてこの久遠実成の理屈は理屈として、それらは自身の日常生活に展開出来なければ、単なる空理空論ともなってしまいます。ここから私達は何を理解しなければいけないのか。先の燃燈仏を明かした後、経文には以下の言葉が書かれています。
「是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」
これらは全て仏の方便によって、立て分けられ、示されていると言うのです。つまり悟りを得させる為の方便として、この様な姿を示したと言うのですが、要は全てか心の本質を理解させる為の方便だと言う事です。
私達の日常にも様々な出来事がありますよね。喜怒哀楽、悲喜こもごも、それぞれの人がそれぞれの立場で悩みを抱えたりもしています。しかしそれらが全て、自分自身の心の本質を理解するための方便だとしたらどうなんでしょうか。
私達、姿形や立場は異なりますが、そこにある心の本質は「大海」とは寸分違わぬものをもっていて、違いがあるのはその海水を入れている水槽の形や置き場所が違うだけだという前提が理解できれば、自ずと生き方も異なると思うのですが、いかがでしょうか。
仏教でよく言う「得道」とか「悟り」なんていうのも、そういう心の本質について理解すること(知る事)なのかもしれませんね。
とまあ、こんな事を久遠実成から考えてしまいました。でもこんな事から考えると「五百塵点劫の当初(そのかみ)」とか「日蓮本仏論」なんて、なんかちゃちな理屈に思えてしまうのは、僕だけなのかもしれませんね。