自燈明・法燈明の考察

憲法記念日に思う事

 このゴールデンウイークは結構ノンビリ過ごさせて貰ってます。職場からも有給休暇取得を勧められている事もあって十連休を取り、日々好き勝手に生活しています。

 しかし世界に目を向けると、ウクライナ紛争の先行きが全く見えず。一部では先日、キーウ(キエフ)のアメリカ大使館が再開されたとの報道もあり、それはアメリカが第三次世界大戦を視野に入れ始め、その情報収集をする為の大使館再開とも言われています。

 日本で生活していると、今のウクライナ紛争が第三次世界大戦に繋がるという実感がイマイチ持てないのですが、ヨーロッパを中心にして、その危険性が高まり始めているという認識なのかもしれません。

 もしロシアがウクライナに対して化学兵器か核兵器を使用したら、第三次世界大戦になるとも言われていますが、それ以外にも中国が極東アジアで台湾に軍事侵攻をした場合にも、同様に第三次世界大戦の引き金になるとも言われており、第二次世界大戦が終わってから七十年を経過した現在、戦後の世界は大きな緊張感に包まれているようです。

「いやしくも、私の弟子であるならば、私の今日の声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたいと思うのであります。
 それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。
 それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。
 なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔物であり、サタンであり、怪物であります。」

 これは創価学会第二代会長の戸田城聖氏の言葉で「原水爆禁止宣言」と言われている中の一文ですが、これを受け継いだと自称している創価学会では、こんな世界情勢になっていても、未だにこの世界に対して有用な発言すらしていません。私も一時期、創価学会に関わり、そこで「世界平和」なんて安易にも語っていましたが、ウクライナで起きている事に対するこの組織としての姿勢に改めて、創価学会の云う「世界平和」とは絵に描いた餅であることを実感しています。

 この事を一番感じていないのは、当の創価学会の活動家幹部なんですけどね。

 日本では、このウクライナ紛争によってNATO(北大西洋条約機構)に加盟するという話が出てきたり、自民党内ではこれみよがしに「敵基地攻撃能力」だとか「核兵器共有」という話題も出てきたり、その事もあって、憲法改正論議が湧き上がってきています。



 しかし何度も言いますが、正直今の日本では憲法改正の議論は時期尚早であり、国民自体が本気でその議論をする為には、多くの課題があると考えています。今のまま、自民党や一部権益者主導で憲法を改正してしまっては、先々の日本人に対して大きな禍根を残す事になる事を懸念しているのです。

 私は今の日本国憲法について、不磨大典の様には考えていません。歴史を振り返ってみると、連合国に敗戦した当時の日本では、連合国の求めている憲法草案を考える事さえ出来なかったのです。

 そもそも日本が太平洋戦争に負けた根本には、当時の世界情勢を掌握出来ていないという事がありました。日本は明治維新以降、当時の世界列強が帝国主義であった事もあり、その事から日本も同じく帝国主義国家を目指しました。そして日清・日露戦争に勝利する事で、結果として国際社会で「五大国」と言われる地位を得る事が出来ました。
 しかしその後世界は、帝国主義から民主主義へと移行を始めていたのですが、その事を当時の日本は理解していませんでした。そんな状況で連合国から徹底的に戦争で負け、その相手国から「早急に憲法を制定せよ」と言われたところで、当時の日本の法学者は帝国憲法の焼き直し程度しか出来なかったのです。

 戦後、連合国(特にアメリカ)では、日本を立憲民主主義のモデル国へと作り変える事を考えていた様です。その為の憲法をマッカーサー司令長官は考えていた事が、戦後、日本の憲法制定までの歴史を振り返ると表れています。

 結果として「アメリカから押し付けられた憲法」と迄は言いませんが、連合国の意向を強く受けた現行憲法が制定されるに至ったと、私は考えています。

 この日本国憲法ですが、良いにつけ、悪しきにつけ、その議論の的となるのは「第九条」です。

第九条〔戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認〕①日本国民は、正義と秩序を基調とする国 際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国 3 際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、 これを認めない。 

 しかし私は、そもそも基本理念を語る前文にも、大きな問題があると考えているのです。この憲法の前文には以下の言葉があります。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚す るのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持 しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に 除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、 全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すること を確認する。 」

 ここでは「平和を愛する諸国民」を信頼して、日本の「安全と生存を保持しようと決意した」とあります。確かに何れの国であっても、そこに住む国民は等しく平和を希求していると思います。誰も好き好んで大殺戮の行為である「戦争」を求めてはいないのです。そういう観点からすれば、この文書は至極真っ当な事を語っています。

 問題は、国民ではなく国家なのです。

 例えば中国人と日本人では、個人対個人では信頼関係を結び、仲良くする事も出来るでしょう。しかし戦争行為は国家間の行為でもありますが、中国人の国家と日本人の国家となると、互いに「国家としてのエゴ」が出てきますし、それにより戦争という事は発生します。
 だから戦争を望まない「平和」を考えるのであれば、まずは国家間でどの様な外交に務め、その上で国際社会でどの様な理念を日本は掲げ、どの様な立場を目指すのかを語り、そこに国家の生存を求める必要があると思いますが、今の憲法では「平和を愛する諸国民」とあり、そこに日本の国家としての「安全と生存を保持しようと決意した」と言うのです。
 例えば中国人や北朝鮮、韓国人の一人ひとりが「日本とは仲良くしたい」と考えていても、問題は「相手国の政府」がどの様に「日本国および日本政府」を捉えているのかが戦争の要否を握っていますが、そういった事を抜きにして、(日本以外の)諸国民によって安全と生存を保持できるものなのでしょうか?

 こんな前文の先に「戦争放棄」で戦力放棄を謳っていては、今の人類社会の中で日本という国家は生存出来ません。戦後七十年に渡り、そんな日本が一応「国家」として残れたのは、単に「アメリカ軍(太平洋軍)の傘の下」に居たからであり、それは日米安保と日名合同委員会に顕れている「アメリカの属国」という姿であったからに過ぎないのではないかと、私は考えています。

 近年では立憲民主党や共産党などでは、この日本国憲法をロシアやウクライナに提示する事で、平和を実現できるという様な、まるで国際社会の現実から目を背けた様な言動が為されていますが、そういった「憲法九条を安眠枕にした平和主義」が、結果として日本国を衰微させているのでは無いかとも思うのです。

 憲法記念日である日に、日本人がそれぞれ今の憲法について思索して、考えていく必要がある時代が、いよいよ来ていると私は考えているのですが、皆さんは如何思いますか?


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