その婦人部ですが、シングルマザーで、何とか少しでも良い生活がしたいと、転職に転職を重ねていました。
私なんかは創価学会の中では、半ば忘れ去られた存在なのですが、どこをどう聞いてきたのか相談したいと言う事で、連絡をもらったのです。
話を聞くと派遣の仕事を幾つか渡り歩き、やはり安定感と収入を増やすために正社員になりたいと、必死に御本尊に祈ったそうです。それこそ何時間も何時間も。すると不思議と正社員に採用されたのですが、本人曰く、ブラック企業ばかりで録な会社に巡り合わなかったとか。そしてそれを自分のいる創価学会の組織で、幹部に相談すると「お題目が足りない!」「今度の選挙戦で宿命転換しなさい!」とばかり言われ、結果最近になり疲れてしまったとのこと。
「私の何が悪いのでしょうか、この御本尊様は祈りは全て叶うんですよね?」
仕舞には泣き出されてしまい、周囲から見たら完全に熟年の不倫カップルの、四方山話で、私が悪者の様になっていました。
「人生なんて、何とかなるんだから、自信を持って頑張ってください」
僕はそれだけ言って終わりました。
まあこういう場合は得てして話を聞いてやることで、本人が勝手に答えを見つけてくれるので、敢えて何だかんだ言わない方が良かったりするのです。
でも聞いている私の方が憔悴してしまい、家に帰っても全然疲れが取れませんでした。一体彼女の地元の幹部は何を考えているのか。マトモな相談一つも受けられないのか。
最近、私が大嫌いな言葉に「絶対的幸福境涯」という言葉があります。なんですかね?この「絶対的」という「幸福境涯」ってやつは。
「生きている事自体が、幸せで溢れる境涯」
これを言うそうですが、そんな何でもかんでも多幸感感じているのは、脳内麻薬のドーパミンが、だだもれしているだけなんではありませんか?
果たしてそれが本当の幸福というやつなんですかね。
「人は皆、幸福になりたいと思っている」
こんな言葉もありますが、そりゃ生きてれば楽しい方が苦しい方よりいいに決まってますから、そういう見方もあるでしょう。でも人生生きていれば喜怒哀楽のうち、喜とか楽ばかりでは、人生の形は必ず歪になりますよ。そこに怒とか哀があるから、際立って見える出来事もあるし、後々になってそれが喜や楽を呼び寄せる事もありますよね。
かく云う私ですが、今はデカい会社に所属してます。だからここ十年以上、安定してますが、仕事で見たらそれこそ小さい会社を渡り歩き、友人と会社を経営していた事もありますが、倒産してしまったり、あとプラック企業にも勤めた事もありました。でも何だかんだ経て、今の会社でお世話になり、日々仕事に励んでいます。
こんな仕事人生でしたが、幸いなことに必要な時に、必要な知人が現れて、渡り渡って今があります。
私自身、五十代になって思うのは、人生とは流れであり、無理にあがなう事をせず、自分を信じれれば何とか生きていけると言う事です。何か人生とは大枠で筋書きでもあるのでは無いかとも思えたりします。
そんな生き方してたので、それこそ舞い上がる様な楽しい時もありましたし、どん底の地獄の様な時もありました。酷い時には自分が壊れていく事を実感した事もあります。
でも生きていれば、人生とは何とかなる。それを言葉で口ずさみ生きてきましたよ。
先日、夕方に嫁と近所を散歩していた時に、夕焼けが黄金色に映えて、周囲一面に神々しさを感じた時もありました。人生とはこういう様々な経験を積み重ねて生きていく事、それ自体が目的なのではなかろうか。
その時に、ふと自分の中に出てきた言葉です。
下手な宗教に踊らされ、幸福だ宿命だと踊らされていては、実は人生の本質的な事を見逃してしまう。そんな事もあるのではないでしょうか。
幸福って、なんですかね?