久しぶりに少し創価学会に関係した内容について書いてみたいと思います。
新型コロナ禍の中、創価学会では「本陣東京の戦い」と言って、活動家に対して友人や知人の自宅を訪問する事による集票活動を指示していましたが、今の社会状況の中で知人に面会に行くなんて言うのはどうなのかと思いました。しかし当の創価学会の活動家達は、こういう活動でも正しい信仰だと信じて動き回っています。
そんな創価学会ですが、以前は日蓮が説いていた「広宣流布」と言う事について、具体的な内容としては、日蓮正宗の持っている文字曼荼羅を人々の間に弘め、それによって教勢拡大を行う事をその様に呼んでいました。具体的には「舎衛の三億」という言葉がありますが、過去の仏教説話の中で舎衛国において仏教が広まり、国民の三分の一が仏教を信じ、三分の一が仏教に理解を示し、三分の一が仏教に敵対していたという逸話を元に、国民の三分の一が日蓮正宗の文字曼荼羅を持つ事を目指していました。
創価学会が日蓮正宗と共にあった時、正本堂を建立した時点で創価学会は公称八百万世帯となりました。この「世帯」という言葉にトリックがあり、当時の日本人の人口は一億二千万人、世帯数では二千四百万世帯とも言われていました。そうなると創価学会の八百万世帯は「日本の総世帯の三分の一」という事になったので、当時(昭和40年代初め)の日蓮正宗の貫首である日達師の発言を引用し、正本堂建立委員会の委員長であった池田大作氏が「正本堂建立趣意書」の中で「実質的な広宣流布の達成」を語り、正本堂建立を宣言したのです。
しかしその後、創価学会では以下の法華経の言葉を以て、広宣流布とは達成点」ではなく、「広宣流布とは流れ」であると意義を変えました。
「我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、
断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に
断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に
其の便を得せしむることなかれ。」
(薬王菩薩本事品第二十三)
ここで「断絶して」とは「流れを途絶えさせる」と解釈、つまり「正しい仏法を弘める創価学会の活動を継続する事」が広宣流布の目的だと読み替えを行ったのです。
そして今まで会員を走らせる目的としていた「数字の達成」、具体的には「舎衛の三億」についても、その通過点の「一つの姿」であるとし、河の水の流れが続く様に継続した活動自体を「広宣流布」と読み替えました。
だから1970年代あたりから「2001年5月3日」が「二十一世紀の広宣流布の山の目標・登攀の日」と言い続けながらも、現在では「創立100周年」を目標と呼び、その為に当に今も「東京都議選」に会員達は必至に駆けずり回っているという訳です。
しかしこうなると、そもそも「広宣流布」というのは何なのか、そこについて考え直さなければなりません。
日蓮は自筆の御書の中の随所で「広宣流布」という言葉を述べていますが、それはどの様な事かと言えば以下の言葉にある様な事を考えていた様です。
「但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。」
(撰時抄)
つまり「法華経の肝心の御題目を、当時の念仏の様に人々に唱えさせる事」を「広宣流布」であるとしていました。では単に「なむみょうほうれんげきょう」と人々が唱える事が広宣流布であったのでしょうか。それでは単に呪文を唱える事を弘めるのが広宣流布となってしまいます。
それとも戦後の創価学会や日蓮正宗が行っていた様に、日蓮の文字曼荼羅を単にばら撒く事が広宣流布になるのかと言えば、これも違うと思います。
極端な例を一つ示します。
過去に池田小学校で小学生の生徒を殺傷した宅間死刑囚の自宅には、日蓮の文字曼荼羅があった事は有名な話です。これは創価学会が彼を入会させた事による事なのでしょう。
単に呪文としての題目や、日蓮の文字曼荼羅に「力用=力」があると言うのであれば、何故、題目を唱え文字曼荼羅を持った宅間死刑囚が、あの様な凄惨な事件を起こしてしまったのでしょうか。
「彼は御題目を唱えていなかった」
「御本尊を安置していただけで、宿命転換が出来るわけではない」
恐らく創価学会や宗門関係者はその様に言うでしょう。そりゃそうです。でも宅間死刑囚は文字曼荼羅を受ける時に、一度は御題目を唱え、そして文字曼荼羅を受けていた訳です。それでもあのような事件を起こしたという事は、単に「なむみょうほうれんげきょう」を唱えたり日蓮の文字曼荼羅を受けたとしても、それを以て法華経にある「悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に
其の便を得せしむることなかれ。」とはならなかった訳なのは自明の理でしょう。まさか唱える数量が足りないからとか、下らない事を言う人は居ないと思いますけどね。もし居るならその人に問いたいのは、それではどれだけ御題目を唱え、文字曼荼羅を授与したら、その様な境涯になるというのでしょうか。
単に唱える数量が足りないというのであれば、例えば鬱病とか統合失調症の人が、沢山の御題目を唱えた結果、まれに一部の人達の中で改善された事例があったとして、何故多くの会員がリバウンド等に苦しむのでしょうか。この事は心療内科医でも「止めた方が良い」という事になっていますよね。
では法華経にある様に、悪魔や魔民が動く事を法華経を弘める事で封じるという事は、法華経にはその封じる力があると言い、そんな不可思議な力が経典に秘められた「力用」が有るとでも考えるのでしょうか?
それではまるでカソリックにある「エクソシスト=悪魔祓い」と同じに思えてしまい、それは仏教からみれば、極めて外道的で滑稽な事であるとしか思えません。日蓮が立正安国論で提唱している内容を見ても、経典に不可思議な力があるというのではなく、経典を正しく理解する事の重要さを語っているではありませんか。
では広宣流布とはなにか。それは確かに「継続した行動」という事は、恐らく間違いではないと思います。しかしそれはなにも教勢拡大を求めたものでは無いのは、法華経の漢訳文を見るに間違いないと思います。ではそれは単純に「経典を人々に知らしめる」という事かと言えば、私的には「経典に書かれている意義を人々に知らしめる」という事であり、重要な事は広宣流布を語る人達が、まずは「経典の意義」を理解する事が必要になると思うのです。
意義を理解している人が居ればこそ、社会の中にその意義を深く広く浸透する事が可能になるというのは自明の理であれば、広宣流布とは、過去から続けられている日蓮正宗の行っていた行動とか、戦後の創価学会が取り組んで来た事は、その取り組み方自体が、大きな間違いであった事が、十分理解できるのではないでしょうか。
そんな状況であれば、「首都決戦、東京都議選の大勝利」なんてのは、どれだけピンボケな行動であるのか、子供でも理解でいると思うのですが、そこはやはり「宗教」という事で、それにハマり込んだ人達には理解出来ぬ事も当たり前だと思います。
法華経を広める広宣流布。
この根本的な意義を考える事から始めない限り、いま東京都議選に駆けずりまわっている多くの人達は法華経の本義すら理解出来ず、無駄な行動に有限な人生の時間を浪費させるだけでしかないとは思いませんか?
少しは考えてほしいものですね。