さて、木絵二像開眼の事について続けます。
◆背景と大意
この御書には真筆は存在せず、かつては身延にあったものと言われています。文面には「文永元年」とありますが、その外にも文永十年(1273年)、弘安五年(1282年)に著述されたという説も存在してますが、この御書が弘安五年に著述されたという事も考え難く、また文永十年は佐渡滞在記である事から、その時期に著述されたという事も考え難い事から、文永元年という説が一番妥当だと思われます。
またそのような真筆も存在していない事から、対告衆がだれなのかも明確ではなく、そういう事から完全な真跡であるという観点で捉える事も困難な事と思うのですが、日蓮が釈迦仏造立については四条金吾に対して文永七年に御書を認めている事から、日蓮の教義とは大きな乖離もあるとは考えずらく、また内容についても「開眼」という事について主眼を置いている事から、日蓮がその開眼についてどの様に考えているのかを読み取るための文献としては、意味があるものと考えています。
またそのような真筆も存在していない事から、対告衆がだれなのかも明確ではなく、そういう事から完全な真跡であるという観点で捉える事も困難な事と思うのですが、日蓮が釈迦仏造立については四条金吾に対して文永七年に御書を認めている事から、日蓮の教義とは大きな乖離もあるとは考えずらく、また内容についても「開眼」という事について主眼を置いている事から、日蓮がその開眼についてどの様に考えているのかを読み取るための文献としては、意味があるものと考えています。
◆開眼について
この御書では開眼について無分別な開眼を許していない事が述べられていますが、そもそも開眼とは何かについて、仏教一般の視点から見直してみたいと思います。
開眼(かいげん)とは、大きく二つの意味が存在します。
開眼(かいげん)とは、大きく二つの意味が存在します。
(wikipwdia「開眼」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%9C%BC)参照)
①新たに作られた仏像や仏画などを堂宇に安置して供養する際に行う儀式のこと
②智慧の眼を開くこと。真理を悟ること。
②については「悟達」についての言葉である事から、この御書でいう「開眼」とは①の意味である事となりますが、仏教では正法時代と言われる時代には仏像が無かった事から、像法時代、いわゆるガンダーラ文化以降、仏教の中に本尊として仏像が成立して以降に確立された考え方であると捉えるのが妥当だと思います。
では具体的にどの様な事を開眼と言うかと言えば、仏像づくりの段階において、大部分が完成した後、最後の段階で仏像に目を書き込む事をしますが、その際に行う儀式を「開眼法要」と呼び、これを持って仏像に魂が宿り、仏像が完成すると考えられていたのです。
①新たに作られた仏像や仏画などを堂宇に安置して供養する際に行う儀式のこと
②智慧の眼を開くこと。真理を悟ること。
②については「悟達」についての言葉である事から、この御書でいう「開眼」とは①の意味である事となりますが、仏教では正法時代と言われる時代には仏像が無かった事から、像法時代、いわゆるガンダーラ文化以降、仏教の中に本尊として仏像が成立して以降に確立された考え方であると捉えるのが妥当だと思います。
では具体的にどの様な事を開眼と言うかと言えば、仏像づくりの段階において、大部分が完成した後、最後の段階で仏像に目を書き込む事をしますが、その際に行う儀式を「開眼法要」と呼び、これを持って仏像に魂が宿り、仏像が完成すると考えられていたのです。
◆本文について
ではこの仏像と開眼について、日蓮がどの様に考えていたのか、早速、御書の本文を読み進めて行きたいと思います。
1.仏像の前に経典を置く意義
(本文)
木絵二像開眼之事 /文永元年 四十三歳御作
仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳方等般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経金剛頂経蘇悉地経等の仏眼大日の印真言は名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云、故に普賢経に法華経の仏を説て云く「仏の三種の身は方等より生ず」文、是の方等は方等部の方等に非ず法華を方等といふなり、又云く「此の大乗経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得る」等云云、法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり、
木絵二像開眼之事 /文永元年 四十三歳御作
仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、十善論と云うを置けば帝釈とひとし、出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし、華厳方等般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、大日経金剛頂経蘇悉地経等の仏眼大日の印真言は名は仏眼大日といへども其の義は仏眼大日に非ず、例せば仏も華厳経は円仏には非ず名にはよらず三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云、故に普賢経に法華経の仏を説て云く「仏の三種の身は方等より生ず」文、是の方等は方等部の方等に非ず法華を方等といふなり、又云く「此の大乗経は是れ諸仏の眼なり諸仏是に因つて五眼を具することを得る」等云云、法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらはしぬれば顕形の二色となれるなり、滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり、
(現代語訳)
木絵二像開眼之事 文永元年 四十三歳御作
仏には三十二相というものを有するが、それは色法(この世界に現れた姿)の事である。この三十二相とは千幅輪から終わりの無見頂相に至るまでの三十一相は見る事が可能であり、有姿の事であれば書いたり作ったりする事が出来るが、梵声相という事については、見る事が出来ないし、姿の事では無いので、書いたり作ったりする事が出来ないのである。
仏滅後は仏像と仏画の二つがあるが、これ等には三十一相があっても梵音声が欠けている事から、それは仏では無いし心法(心の働き)が無い事から、生身の仏と仏像や仏画の仏には天地雲泥の差がある。だから何故、涅槃の後には生身の仏と仏像や仏画の仏が功徳が等しいと言えるのであろうか、また大瓔珞経には仏像や仏画は生身の仏には劣っていると説いているのである。
仏像や仏画の前に経典を置けば三十二相が具足するのである。ただし心が無ければ三十二相を具足したとしても、それでは仏にはならない。それは人天にも三十二相が具わっているからである。
仏像仏画の前に五戒経を置けば、その仏像仏画は輪王と等しいのである。十善論を置けば帝釈天王と等しく、出欲論を置けば大梵天王と等しいが全く仏とはならない。また仏像仏画の前に阿含経を置けば声聞と等しく、方等般若の中の一時一会の共般若を置けば縁覚と等しいのである。華厳方等般若の別教や円教を置けば菩薩に等しくなるが仏では無い。大日経や金剛頂経、蘇悉地経等の仏眼大日の印真言の説かれた経典を置けば、名前は仏眼大日とは言ってもそれら経典の義は仏眼大日では無いのである。例えば仏と云っても華厳経では円仏ではないのである。三十一相の仏像仏画の前に法華経を置く事で純円の仏となるのである。だから普賢経に法華経の仏の事を説いて「仏の三種の身は方等より生ずる」と述べている。この方等とは方等部の方等ではなく法華経を方等というのである。また「この大乗経はこれ諸仏の眼なり、諸仏は是によって五眼を具える事を得る」ともある。法華経の文字は仏の梵音声が見えないし、姿の無いものを文字として形に顕したのであるので顕形の二色となり、滅した梵音声をかえって形に顕して文字となって衆生を利益するのである。
木絵二像開眼之事 文永元年 四十三歳御作
仏には三十二相というものを有するが、それは色法(この世界に現れた姿)の事である。この三十二相とは千幅輪から終わりの無見頂相に至るまでの三十一相は見る事が可能であり、有姿の事であれば書いたり作ったりする事が出来るが、梵声相という事については、見る事が出来ないし、姿の事では無いので、書いたり作ったりする事が出来ないのである。
仏滅後は仏像と仏画の二つがあるが、これ等には三十一相があっても梵音声が欠けている事から、それは仏では無いし心法(心の働き)が無い事から、生身の仏と仏像や仏画の仏には天地雲泥の差がある。だから何故、涅槃の後には生身の仏と仏像や仏画の仏が功徳が等しいと言えるのであろうか、また大瓔珞経には仏像や仏画は生身の仏には劣っていると説いているのである。
仏像や仏画の前に経典を置けば三十二相が具足するのである。ただし心が無ければ三十二相を具足したとしても、それでは仏にはならない。それは人天にも三十二相が具わっているからである。
仏像仏画の前に五戒経を置けば、その仏像仏画は輪王と等しいのである。十善論を置けば帝釈天王と等しく、出欲論を置けば大梵天王と等しいが全く仏とはならない。また仏像仏画の前に阿含経を置けば声聞と等しく、方等般若の中の一時一会の共般若を置けば縁覚と等しいのである。華厳方等般若の別教や円教を置けば菩薩に等しくなるが仏では無い。大日経や金剛頂経、蘇悉地経等の仏眼大日の印真言の説かれた経典を置けば、名前は仏眼大日とは言ってもそれら経典の義は仏眼大日では無いのである。例えば仏と云っても華厳経では円仏ではないのである。三十一相の仏像仏画の前に法華経を置く事で純円の仏となるのである。だから普賢経に法華経の仏の事を説いて「仏の三種の身は方等より生ずる」と述べている。この方等とは方等部の方等ではなく法華経を方等というのである。また「この大乗経はこれ諸仏の眼なり、諸仏は是によって五眼を具える事を得る」ともある。法華経の文字は仏の梵音声が見えないし、姿の無いものを文字として形に顕したのであるので顕形の二色となり、滅した梵音声をかえって形に顕して文字となって衆生を利益するのである。
そもそも仏像や仏画はどうして造られたのでしょうか。その根底には人々の「仏を恋慕する心」というものがありました。釈迦滅後、約千年間の間、この恋慕の対象となったのは「獅子座」と言われる台座であり、人々はその台座に釈迦の姿を観て、そこで修行に励んだり、また仏舎利塔(ストゥーパ)に釈迦を重ね思い、修行に励んでいました。恐らくその時代には仏像も無ければ、当然、開眼供養と言った儀式も必要が無かった事でしょう。
しかし当時、ギリシャ人がアレキサンダー大王の東征もあって中央アジアに進出、そこには「ヘレニズム文化」があった事から、恐らく仏教が伝播する中でギリシャ人が仏典に触れ、ギリシャ人が釈迦を恋慕し釈迦の実像を仏像として偶像化し、また仏画として絵画に顕した事から、そこに生身の「釈迦」を再現するために、儀式として開眼供養という形式は発生したものと思われます。
ここではまず日蓮は、そういった歴史的背景を触れる事なく、仏像と経典の関係、また本尊としての形式の意義について述べています。
先にも取り上げた御文ですが、唱法華題目抄にある以下の文。
「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし」
ここで本尊を法華経として、仏像を左右に立てるという形式を何故述べたのか、それはこの御書に書かれている意義から来ているのが解ります。
「三十二相」というのは仏の姿や特徴を顕すものですが、そのうちで「梵音声」という事以外は、全て仏の姿や相藐を指し示すものであり、これらは見える内容である事から仏像や仏画として顕す事が出来るが、その声に関しては仏像や仏画で表現する事が出来ず、それが欠けた姿では仏像や仏画とは言っても、それが即ち仏の姿と等しいとは言えないという事をここで述べています。そして経典とは仏の説いた声を見える形として作られたものであり、仏像や仏画の前に法華経を安置する事で、その仏像や仏画は仏と同じ姿の三十二相を具え、それは力を有するという事であり、そこから言えば先の唱法華題目抄の本尊の意義も完成するという事なのでしょう。
2.読経の意義
しかし当時、ギリシャ人がアレキサンダー大王の東征もあって中央アジアに進出、そこには「ヘレニズム文化」があった事から、恐らく仏教が伝播する中でギリシャ人が仏典に触れ、ギリシャ人が釈迦を恋慕し釈迦の実像を仏像として偶像化し、また仏画として絵画に顕した事から、そこに生身の「釈迦」を再現するために、儀式として開眼供養という形式は発生したものと思われます。
ここではまず日蓮は、そういった歴史的背景を触れる事なく、仏像と経典の関係、また本尊としての形式の意義について述べています。
先にも取り上げた御文ですが、唱法華題目抄にある以下の文。
「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし」
ここで本尊を法華経として、仏像を左右に立てるという形式を何故述べたのか、それはこの御書に書かれている意義から来ているのが解ります。
「三十二相」というのは仏の姿や特徴を顕すものですが、そのうちで「梵音声」という事以外は、全て仏の姿や相藐を指し示すものであり、これらは見える内容である事から仏像や仏画として顕す事が出来るが、その声に関しては仏像や仏画で表現する事が出来ず、それが欠けた姿では仏像や仏画とは言っても、それが即ち仏の姿と等しいとは言えないという事をここで述べています。そして経典とは仏の説いた声を見える形として作られたものであり、仏像や仏画の前に法華経を安置する事で、その仏像や仏画は仏と同じ姿の三十二相を具え、それは力を有するという事であり、そこから言えば先の唱法華題目抄の本尊の意義も完成するという事なのでしょう。
2.読経の意義
(本文)
人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の
思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法声は色法心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり
人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の
思を声にあらはす事ありされば意が声とあらはる意は心法声は色法心より色をあらはす、又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり
(現代語訳)
人が声を出す事にも二つある。一つは自身で思っていない事だが人をだぶらすために声を出す事で、これは隋他意の声である。自身の思いを顕す事があるが、そうであれば心で思っている事が声を顕れ、声は心法となりここから色法を顕すのである。また声を聴いてその心を知る。色法が心法を顕すのである。色心不二が故に二つで現れて仏の御意として顕れ法華経の文字となっているのである。文字が変じてまた仏の御意となる。であれば法華経を読む人は文字と思ってはいけない。これは即ち仏の御意なのである。
人が声を出す事にも二つある。一つは自身で思っていない事だが人をだぶらすために声を出す事で、これは隋他意の声である。自身の思いを顕す事があるが、そうであれば心で思っている事が声を顕れ、声は心法となりここから色法を顕すのである。また声を聴いてその心を知る。色法が心法を顕すのである。色心不二が故に二つで現れて仏の御意として顕れ法華経の文字となっているのである。文字が変じてまた仏の御意となる。であれば法華経を読む人は文字と思ってはいけない。これは即ち仏の御意なのである。
ここでは仏像仏画の前で経典を読む事の意義について述べていると思います。
人間は声を出して語る際には、自身の思っている事とは違う事を語る事がありますが、それらの言葉について、ここでは「隋他意(他者の想いに従った言葉)」としています。
法華経は「随自意(自身の想いに従った言葉)」なのであり、法華経とはそのような仏の本意の言葉を文字として見える形でまとめたものなのです。だからこの経典の文字を読む声を聴いた時に、それは仏の御意であるとして聞かなければならないし、経典を読む人は、その経典の文字を単なる文字として捉えるのではなく、仏の御意として捉えるべき事をここで述べています。
仏像仏画の前で経典を読む。これは修行の方法で「勤行」という事に該当すると思いますが、それは仏の「梵音声」として声を出して読むという意義があるのでしょうし、そうであれば法華経を読誦する人は、そういった意義を踏まえる必要があるのではないでしょうか。
人間は声を出して語る際には、自身の思っている事とは違う事を語る事がありますが、それらの言葉について、ここでは「隋他意(他者の想いに従った言葉)」としています。
法華経は「随自意(自身の想いに従った言葉)」なのであり、法華経とはそのような仏の本意の言葉を文字として見える形でまとめたものなのです。だからこの経典の文字を読む声を聴いた時に、それは仏の御意であるとして聞かなければならないし、経典を読む人は、その経典の文字を単なる文字として捉えるのではなく、仏の御意として捉えるべき事をここで述べています。
仏像仏画の前で経典を読む。これは修行の方法で「勤行」という事に該当すると思いますが、それは仏の「梵音声」として声を出して読むという意義があるのでしょうし、そうであれば法華経を読誦する人は、そういった意義を踏まえる必要があるのではないでしょうか。
(続く)