自燈明・法燈明の考察

心のかたちについて-意識について①

 今日の午前中には、私は嫁と近所を散歩しました。約3キロから4キロ程度を1日のノルマとして実は私は散歩をする事を私自身、心がけているのですが、やはりこの酷暑の中で歩くと体力は消耗してしまいます。そのせいか、帰宅してから気が付いたら2時間程度、昼寝をしてしまいまして、先ほど目が覚めました。

 唐の沈既済の小説『枕中記』の故事の一つに「邯鄲の枕」という話があります。日本国内では「一炊の夢」という名前で知られています。この物語は以下にリンクを貼っておきますので、お時間があれば読んでみて下さい。

 (中国故事街:一炊の夢)

 昼寝が覚めた時、実はこの私の人生と思っているのも、もしかしたら高校生の私が昼寝をしている間の夢だとしたら、どうなのだろうか。そんな事をふと思ったりしてしまいました。

 さて、今回は「意識」という事について、私がこれまで考察してきた内容について、少しまとめてみたいと思います。お時間のある方はお付き合い下さい。



◆法華経に説かれる事
 私は過去に創価学会で活動をしていました。今はもう活動を止めて居ますが、身内や親族で創価学会で活動している人が多い事から、私は脱会はしていません。まあ創価学会のネット上の活動家等からは「さっさと出ていけ」とか「末路が楽しみ」とか言われて、蔑まれていますが、今の私からすれば、既に創価学会という組織には興味もありませんし、組織の自身の去就について人にとやかく言われる筋合いなんてないのです。

 まあそんな事は置いといて。。。

 創価学会で活動し、そこで仏教に触れた事から、私は法華経については個人的に興味があります。この法華経という経典は、大乗仏教の最高経典と云われていますが、その経典の成立は釈迦滅後500年頃と言われていて、釈迦が直接説いた経典ではないという事が言われています。

 この法華経が何故、大乗仏教で最高経典なのかについては、チベット仏教や中国の仏教においても法華経が大事に扱われてきた事から判る事なのですが、理論的にその事を構築したのは、天台大師智顗という、中国天台宗の開祖です。智顗は「小釈迦」と呼ばれるほどに評価が高い人物で、日蓮という鎌倉時代の僧侶も法華経を宣揚する時に展開した理論は、この智顗によるものが大きく、彼も数多で引用しています。

 ただこの智顗の構築した理論の中で法華経を宣揚するのに「無量義経」という経典を引用し、そこの経典の中で「四十余年・未顕真実」という言葉を引用しています。つまり法華経こそ真実の教えであり、それ以前の経典は真実ではないという事なのです。
 しかしそもそも「無量義経」という経典自身、サンスクリット版の経典が未だに発見されておらず、後世の偽作という事が言われる経典ですので、実は智顗の構築した論理というのも疑わしいのでは無いかという説も、昔から言われている事なのです。

 しかしそうは言っても、やはり法華経の評価というのは下がる事はありません。それはそこに説かれている「仏」という姿にあると、私は考えています。

 大乗仏教の中で、仏というのは釈迦一人を指し示す言葉ではなく、そこには様々な仏が説かれています。有名なところでは阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、燃燈仏、大通智勝仏、等々。それは数多な数に上ります。そしてその仏は「三世(過去・現在・未来)十方(全方位)」に存在すると言うのです。
 仏は三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑」を断じ、この宇宙の成り立ちや人々の心の事など、全てを知り尽くして、人々を悟りに導く存在と言われています。そして人々(衆生)はその仏に帰依する事で、悟りを得る事が出来て自らも仏に成れると説かれています。

 しかし法華経に於いて、釈迦自身の姿を述べながら久遠実成を明かします。

「汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。
 一切世間の天・人及び阿修羅は、
 皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、
 道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。
 然るに善男子、我実に成仏してより已来
 無量無辺百千万億那由他劫なり。」

 ここでは釈迦自身が「釈迦は王宮を出てから遠からず、菩提樹の下で瞑想して悟りを開いたと人々は思っているだろうが、実は私は想像も超えた遠い過去の時に既に成仏していたのである」と説いています。

 この事により何を指し示す事になるか、それは成仏という事について、大転換が行われたのです。

 仏教において釈迦は釈迦族の王子として生まれ出て、この世界の様々な苦悩の事を知り、自身の感じている苦悩から人々を救済したいと修行に励み、悟りを開いたと言われていますが、実は人々の苦悩を知った事、また自身も大きく悩み苦悩してきた事、また様々な困難にあった事も、全ては仏と成った後の姿であったと言うのです。

 仏とは苦悩を断じた存在であるはずが、釈迦は自身の出家前の姿を含めて、それもすべては成仏した後の仏の姿であったというのです。

 またそれだけではありません。

「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。
 亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。
 諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、
 又復其れ涅槃に入ると言いき。
 是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」

 先の内容もこの内容も、ともに如来寿量品という法華経の内容ですが、ここでは釈迦は遥か遠い過去に成仏してからも、この娑婆世界(現実世界)の中で人々に常に法を説いて導いてきた事を明かします。そしてその間には「燃燈仏」という仏の姿であった事を明かしたのですが、ここで少し考えなければならない事があります。

 ここでいう「燃燈仏」ですが、これはインドに生まれた釈迦が前世で修行した時の師匠である仏の名前なのです。前世において(前世の)釈迦は、燃燈仏から「お前は仏となり、未来に釈迦仏と呼ばれる様になる」と言われたと言うのです。

 そうなるとインドで悟りを開き、法華経で久遠実成という成仏観を説いた釈迦も、燃燈仏という釈迦の過去世の師匠の仏も、そして燃燈仏のもとで修行した前世の釈迦も、共に同一な存在であるという事になります。

 これは例えば教師も生徒も、実は同一人物であるという事に等しい事を述べた事になるのです。いや、同一人物という表現が適切かどうか、そこは考えなければならないのですが、共に「久遠実成の釈迦」が娑婆世界に出現した姿であったという事になります。

◆「神との対話」に見る神という存在
 さて次に、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏が「神との対話」という著書の中で、彼に対して語り掛けて来た神が、神とニール氏等、人々との関係を語っている部分を紹介します。

 「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
 このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。
 自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
 あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ。同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。」

 ここで語られてる事は、神とニール氏、また他の人々もすべては「本質が同じ」だという事です。「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれる」と言うのは、キリスト教の一文だと思われますが、このニール氏に語られる内容というのは、「久遠実成の釈迦と仏と衆生」の関係性に、極めて近しい内容である事が理解できます。

◆この段階の考察

 どうでしょうか。
 この他にも、今まで紹介した以下の臨死体験も、近しい事を語っていると思うのです。

「中間世の状態では、俗に言う「善悪の判断力」が拡大して、心のイメージですべてを見通す力がさずけられるため、人間存在の意味と目的をはっきりと理解できるようになる。ホイットン博士はこの並外れた知覚状態を「超意識(メタコンシャスネス)」と名付けている。」
(輪廻転生ー現代の驚くべき神話 ホイットン博士の考察)

「つまりどういうものかというと、もの凄い天才になったような気がするんですね。すべてを知り尽くす。それを膨大念識って言ってるんですね。私は、産まれて現在までの意識は要するにこの意識、自分の意識。ところがそれ全体の記憶が同時に存在してるんですよ。その世界ってのは何かって言ったらこの宇宙もすべてその意識によって作ってるんですね。」
(木内鶴彦氏の臨死体験の証言)

「私はその場所で、無数の宇宙に豊かな生命が息づいているのを見た。その中には人類よりはるかに進歩した知性を備えるものたちもいた。数限りない高次の次元があることも知った。高次の次元は、その中に入り、直接体験するかたちでしか知る方法がないこともわかった。低次の次元空間からは、高次元世界は知る事も理解することもできないのだ。因果の関係は高次元にも存在しているが、この世界の概念とは異なっている。またこちらの世界で体験されている時間空間は、いくつもの高次元に複雑なかたちで密接に織り込まれている。言い換えれば、高次元の世界はこの世界と完全に隔絶しているわけではない。あらゆる世界がそれらをすべて包み込む神聖な「真理」の一部分を構成しているのである。そして高次の世界からは、こちらの世界の時間や場所に自由につながる事ができるのだ。」
(エベン・アレクサンダー医師の証言)

 チベット仏教では「死の瞬間に、自分という存在の二つの相-究極の本質と世俗の本質、真の在りようと今世での在りようーが明らかになるということだ」と死者の書で述べていますが、これらの証言を考えてみると、私達の意識の根源には、この様な存在、法華経で言えば「久遠実成の釈迦」と言われ、ニール氏のいう「神」という存在、ホイットン博士のいう「超意識」という存在、そしてチベット仏教でいう「究極の本質」というものがある事は、ほぼ間違いないと思うのです。

(続く)


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「心のかたち」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事