自燈明・法燈明の考察

創価学会の仏の考え方

 今日は月曜日、朝から2つの会議をこなし疲れました。週明けはいつもモチベーションが低く、特にテレワークになってからは、ここダダ下がりのモチベーションを上げるのは毎回努力が必要になっています。仕事をするにも一人で部屋にいますから、これも「新しい働き方」の課題かと個人的に思ってたりします。

 さて昨日は創価学会の非核に関する自己矛盾というか、不整合な事について記事を書きました。今回は似たようなもので、仏という事について少し書いてみたいと思っています。

 お時間のある方はお付き合いください。

 創価学会はよく「人間主義」という言葉を使用しています。そしてその根拠にしているのが、一念三千を解釈した言葉で「全ての人たちには尊極の仏の生命があるからだ」という事になっています。つまり一人ひとりが仏であり、宝塔で表現される尊い生命だから、けして粗雑に扱ってはならないと云う事なのです。



 この観点自体には特に異論はありません。ただ私は法華経にある久遠実成の釈尊という概念には、「人は元来から仏である」という事と共に、一人ひとりは共通である仏の生命から派生した存在であるという観点も、実はあるのでは無いか。そんな事を思うのです。その根拠として如来寿量品の以下の経文があります。

「我成仏してより已来、復此れに過ぎたること
 百千万億那由他阿僧祇劫なり。
 是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。
 亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。
 諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、
 又復其れ涅槃に入ると言いき。
 是の如きは皆方便を以て分別せしなり。」

 ここでは釈尊が成仏してから、長遠の時間が過ぎている事を宣言していますが、その長遠の間、釈尊は常に娑婆世界にあって法を説き、数えきれない人々を導いてきたと言うのです。そしてその中では久遠実成の釈尊は、自身を燃燈仏等と説いたり、また涅槃に入るとも説いてきたと言うのです。

 つまり五百塵点劫の遥か昔に開悟した釈尊とは、常にこの娑婆世界(現実世界)の中で説法を続けてきたと言う事であり、その姿は燃燈仏であったり、様々な仏の姿として現れ、また涅槃に入るという姿を示して来ましたが、それらは全て人々を化導する為に、方便を用いてきた姿だと言うのです。

 法華経もそうですが、大乗仏教というのは「ジャータカ伝説」という、釈尊の過去世の因縁物語をひな形として発生したとも言われています。この伝説では過去世の釈迦は多くの仏の下で、様々な姿をしながら修行をしてきた事を物語として書かれています。
 如来寿量品のこの言葉を元に考えると、釈迦(この場合インド応誕の釈迦)が過去世に教えを請うた仏(例えば燃燈仏)も、実は「久遠実成の釈尊」が娑婆世界に出現し、説法した姿であるという事になります。そしてこの場合、過去世の釈尊が師事した仏も、またそこで修行した過去世の釈尊も、共に「久遠実成の釈尊」の姿になるという事になります。

 つまり久遠実成の釈尊も、その釈尊が化導してきた人々も、共に同じ「久遠実成の釈尊」の姿であるという事ではないのか、そう私は思うのです。しかしこれを考えると、この様に思われるのではないでしょうか。

 「自分で自分を化導する?意味わからん」

 同じ姿と言っても、意識(自我)は異なります。そこで「仏」と「衆生」の意識(自我)の関係について、以前にこのブログでも紹介しましたが、近年になり発表された以下の記事の内容がヒントになります。


 これは「意識」を巡る論争の中で提唱された新説ですが、この宇宙も元は「一つの意識体」であったものが、さも「解離性同一性障害(多重人格)」の様に、その一つの意識体が分裂する中で、個々の意識は派生したのではないか、という説です。

 これからは私の仮説です。

 「久遠実成の釈尊」とは、元々のこの宇宙に存在した「単一の意識」であり、私達はその単一の意識から分裂して派生した「意識」を持ち生きています。これはまるで「24人のビリー・ミリガン」の主人格とそこに同居する人格たちの様な関係です。分裂して派生した人格は、自分自身が派生した要因も判らず、時には迷走しますが、その派生した人格に対して主人格にあたる「久遠実成の釈尊」が教導している。

 その様な事ではないでしょうか。

 実はこう言った事については、臨死体験の体験談や、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の著述した「神との対話」、またフランス学士院会員のジャン=ピエール・プチ氏の著作である「宇宙人ユミットからの手紙」にも同様な記述があります。(こういった事はブログカテゴリ「心のかたち」の中でも書いています)

 もしこの考え方であった場合、「仏の考え方」についても、単に「一人ひとりが尊極な存在」という事だけではなく、自分と他者の関係性も示す事として、再度考え直さなければならなくなります。

 それは「他者も自分と同様に、同じ心(意識)の存在」という事であり、ここから考えると、自分と自分以外の他者との関係について、「分断・差別」とは別に「理解・容認」を求める思想になるのではないでしょうか。

 もっと具体的に言うのであれば、「私は尊い存在」「貴方も尊い存在」と認め合うだけではなく、「私も貴方も同じ存在であり、且つ尊い存在」という思想という事かと。ここでは言葉で淡々と書いていますが、仏教を学ぶ上でも、人生、生きる上でも、こういった基本的な思想を元に、その教義については捉えなおす必要があるのかもしれませんね。

 ちょっと考えてみた事ですが、皆さんの思索の糧として。

PS:あー、ちなみにこの考え方からしても「創価学会仏」というのは、極めて異端である事だけは述べておきます。



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