さて、今回のでこのタイトルの記事は四回目となります。私が何故、この様な記事を書いているかと言えば、実は創価学会の2014年11月に行った会則改正に伴う教義改正の事も一つの切っ掛けなのです。
当時、原田会長は会則改正の中で以下の様に語りました。
「魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大なる功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。」
これは弘安二年の大本尊を「受持の対象とはしない」という根拠を原田氏が述べた処です。私自身、別に弘安二年の大本尊を信仰の中心にする必要は無いと思っていますが、ただこのその根拠を「絶大なる功徳を受け」と言っている事に大きな違和感を持ったのです。
私の周囲の創価学会の活動家の中で、この言葉を間に受ける人は多いのですが、実際に「絶大なる功徳」なんてものが創価学会の中にあったのか。そもそも日蓮自身も唱法華題目抄において、信じる法の正邪を判断するのに「利根と通力には依るべからず」と警告しているにも関わらず、創価学会の会長が何を言うのか。そもそも宗教の「祈りが叶う、叶わない」とはどういった事なのか、等々。様々な事を考えてきました。
しかし一方で、宗教には「祈りが叶う=御利益」なんて言う話はゴロゴロしています。何も創価学会だけに限った話ではありません。それではこの事をどの様に考えるべきなのかを、私自身が考察してきた内容として、今回、この記事を書き連ねています。
さて、前の記事では「思考の具現化」という事について、その祈る主体の「自分の心」とはどの様な構造なのかを説明し、単に意識上で考えた「祈る事」と、実は深層心理を含めて自分の本心として「祈る事」が違うという事があり、そこから「祈りが叶う、叶わない」という話が出てきている事を説明しました。
簡単に言えば、人は潜在能力として「思考の具現化」は持っていると思うし、実際にこの世界は、人間の持つこの様な能力によって出来上がっている。
ただし人は表面的な意識は認識できても、意識の奥底にある事は認識すら出来ません。また人は社会を構成していますが、私たちの周囲の環境とは、多くの人の思考の上で現出している世界であるのであれば、単に個人が表面的な心で思った事が素直に現実の上で実現するというのは、とても難しい事だと思うのです。
こういった事から、「祈りが叶う、叶わない」という差が出てしまうのではないでしょうか。それが私が現在、この事について考えている結論なのです。
ただこの様に考えてみると、ではそもそも「人の心とは如何なるものなのか」という事、また一人ひとりの心と社会現象はどういった関連性を持っているのか、そこは真摯に考える必要が出てくるのではないでしょうか。
私にとって、仏教とはそこに対する大きなヒントを与えてくれる思想哲学であると考えているのです。
◆諸法実相について
これは法華経に述べられている思想ですが、法華経の方便品第二には以下の様に説かれています。
「唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。」
諸法とは周囲で起きる様々な現象を指し、実相とはその諸法を起こしている根本的なものだと言います。そしてこの諸法と実相の事については、ただ仏と仏が能く究明し尽くしていると言うのです。
「仏様が究め尽くしているという事なんだから、私たちはその仏様の教えを信じて進むしかない」
こんな風にも捉える人もいるでしょう。
でも法華経において「仏」とは、自身の心の奥底にある本質としても説かれています。この事から端的に考えると、実は私達は心の奥底において、自分自身の周囲に起きている様々な事象と、自分自身の心の事を理解しているという事だと、この経文の部分は捉えるべきではないでしょうか。
だから中国の天台宗に於いては「禅宗」とも呼ばれており、修行者の多くは「内観」する為によく座禅を行っていたと言われています。この内観において自身の心の本質を見極めようという事だと思います。
しかし日蓮はこの天台の「内観」は難しいので、その代わりに御題目を唱えるという事を提唱したのではないでしょうか。それは以下の唱法華題目抄の文言から私は読み取っています。
「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」
ここでは題目を唱え、もし余裕があれば経典を読み、助縁として釈迦仏や多宝仏の名前を唱えなさいとあります。ここでは「愚者」と言いますが、天台の教えが理解出来ない人ではれば一念三千の観(内観)を優先せずに行いなさい。そして内観を行いたい人が居たら、まずは習ってから行うべきだ。と述べています。
「祈りが叶う、叶わない」という事は、自身の心への理解を深める切っ掛けにはなるかもしれませんが、本来はそこから自分自身の心と向き合うべきであり、創価学会や宗門が言う「御題目を唱える」という事も、本来はその事を志向しているのであって、単なる御利益の「祈り」の為の呪文では無いのです。