自燈明・法燈明の考察

宇宙人ユミットからの手紙から

「宇宙人ユミットからの手紙」という本があります。これはフランス学士院の会員である科学者、ジャン・ピエール・プチ氏の本で、そこには「ウンモ星人」から届く手紙についての事が書かれており、内容に対する考察等がさなれ、表題に感じる胡散臭さとは別に、中々面白い本でした。

 宇宙人は居るのか、居ないのか。それは議論の別れる処で、私は個人的には既に居るとか居ないの次元の話しではないと思いますが、それはまた別の機会に。
 今回は、この宇宙人ユミット(ウンモ星人)の死生観について書かれていた事を元に、少し話を進めてみたいと思います。お暇のある方はお付き合い下さい。

◆「死」に対する概念
 日蓮も「臨終正念」という言葉を御書の随所に残していますが、その死に対する考察の記録は殆どありません。「生有(誕生)」「本有(生きている時)」「死有(臨終)」「中有(臨終から次の生までの間)」というサイクルが仏教では説かれていますが、日蓮の語っているのは「本有」であり、それ以外は殆ど語られてません。それが何より証拠には、日蓮正宗では「臨終用心抄」というものがありますが、殆ど他宗派の僧侶の言葉の引用でしかないのです。

 恐らく日蓮の死生観とは、鎌倉仏教当時の死生観と何ら変わるところでもなく、また彼の教えも「本有(生きている間)」に焦点を当てたものであり、殊更死有を取り上げるという必要も無かったと考えられるのです。
 しかし昨今の社会では、臓器移植や高齢化により、以前よりも死という事も目を向け始めている事もあるので、その事についても、宗教では考える必要がある時代となってきています。

 では死とは何かと言えば、言葉でいうと生(生きる)の状態に不可逆(戻ることのない)状態だと言われています。心臓も止まり呼吸も止まり、脳死の状態へと移行します。脳死になると当然、意識も無くなるはずですが、最近言われている臨死体験の体験談では、意識があり自分の臨終の姿を第三者の視点で見ていたという話が多くありますので、このあたりは実の処は不明です。
 また死により、その人の持つ経験や地位、名誉や財産は意味を成さなくなります。よく言いますが、これらの事を死んだ後に持っていくことは出来ません。仏教で説く、三途の川にいる「奪衣婆(だつえば)」という老婆は、死んだ人の身ぐるみ全てを剥ぎ取り裸にすると言われていますが、それはこの死という姿を表しているのでしょう。

◆ウンモ星人の考える死
 ここでいきなりウンモ星人かと思われると思いますが、少し話を紹介します。
 ウンモ星人の社会では、人々は大きな宇宙意識がこの世界に現れてきていると捉えている様です。そして人々の脳内の視床下部には微量の「希少金属」があって、この希少金属が宇宙意識と個人をつなぐ役割を果たしていると述べています。
 宇宙意識とは、例えばアメーバーの触手のように伸びては、この現実世界に「生物」として誕生し、この現実世界で様々な事を経験し、それらの情報はその生き物(人など)を通して情報が宇宙意識に送られると言います。そして肉体の老化や病気、また不慮の事故等で生きることか困難になると、脳内希少金属とのリンクを切断、これが彼らのいう「死」という事だそうですが、そこに伸びていた宇宙意識の触手は、また元の本体に戻っていくと言うのです。

 これはこれでとても興味深い説ですよね。何れ照会したいと思いますが、例えば彗星ハンターの木内鶴彦氏の「死後体験」や、アメリカ人の脳外科医で臨死体験をした、アレクサンダー・エベン氏の臨死体験にも、この話しと親和性のある経験が語られています。

 一見すると、フランスのウンモ星人の説と、木内氏やアレクサンダー氏は場所も時間も異なるのですが、そこで語られている内容は、互いに親和性を持つ体験を語っているのですから、これらをあながち否定して、単なる戯言だと片付けられない様にも、私は考えているのです。

 この事については、引き続きこのブログでも書いていきたいと考えています。



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