自燈明・法燈明の考察

【私の近代史観】日本国憲法について考える④

 今日は約一月ぶりに事務所に出勤しました。朝の通勤模様は、人が多いとは言え、満員電車というほどでは無く、私も自宅の最寄り駅から会社のある最寄り駅まで、座って行く事が出来ました。

 現在の日本の状況は、今までで一番悪いのではないか。最近、そんな事を感じています。

 東日本大震災で二万人近くの人達が亡くなり、多くの人達が被災して九年、未だに復興は終わっていません。またその後も様々な自然災害があり日本各地で多く被災者が発生しています。そんな世情ですが、消費税も税率も上がり、これによる経済的な打撃はかなりのものです。そこに来て今年は新型コロナウィルスのパンデミックが世界を席巻。日本も例外なく巻き込まれ、追い打ちを掛けるように、国内経済はガタガタ。

 本来、こういう状況であれば中央政府が主導権をとり、国を持ち堪えさせるだけの手を打つべきですが、歴代史上最長の安倍政権がやったのは十万円をばら撒いた事と、布マスクを大量にばら撒いたことくらい。しかも政府の様々な施策には、ある特定企業が寄生虫の如くへばり付き、血税の中から己が利益を取らんと虎視眈々としています。

 一体この国の政府は、日本人をどうしたいのか、この国家を壊したいのでしょうか。何ともやるせなくなってしまいます。しかしこの政府を生み出したのは国民の政治意識であり、そこはやはり国民の中にある国や民族に対する意識そのものが原因なのでしょう。

 さて、前置きはその位にしておいて、今日の本題に入ります。今回も日本国憲法について書いていきます。



 法律もそうですが、大抵、こういうものには序文とか前文というのがあるもので、日本国憲法にも前文というのが書かれています。そこには憲法制定に向けた、当時の人々や社会の思い、国家としての思いが書かれているものです。

 日本国憲法の前文には、以下の言葉が書かれています。

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

 この部分を読むと、やはり戦争直後の日本では、当時の帝国政府によって戦禍が起きたと猛省したのかと感じます。しかしよく考えてみれば、戦争というのは自国の決意や行動だけで防げるものでは本来無いのです。戦争というのは、国と国との間で利害がぶつかり、外交交渉だけではケリがつかなくなった時に発生します。つまり常に「相手国」があって起きるのが戦争なのです。

 だから国際社会の中では、各国が未だに軍隊という組織を持ち、在外公館にはそれぞれ駐在武官を置いて情報収集したりしている訳です。軍事とは外交オプションという事ですね。

 未だ人類とはこの様な武力保持や力の行使を容認している国際社会の中にいるわけですが、戦後の日本はこの様な国際社会の中で、外交のオプションともいうべき「戦争」という行為を破棄する事を決意したという事が書かれています。

 前文は続きます。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

 この前文について、私は二つ程、思う所があるのです。

 まず一つ目。
 ここでは日本の安全と生存を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」する事で保持する事を述べています。確かにこれはとても志高いものですが、果たして「国と民族の生存」を「諸国民」に委ねて良いのでしょうか。国が相手をするのは国家であり、そこの諸国民の中に「公正や信義や信頼」を求めたとしても、その国民が集う国家となった場合には、その行動が異なる事は当たり前の事です。
 例えば中国人や韓国人。個人で付き合うと何も問題が無い人が多く、一人ひとりが信義や友情に厚くても、そんな彼らが国家という集合体になった場合、取ってくる行動というのは異なります。何故ならば国家は国民の権利を守るという側面が強くあるからなのです。
 この様な事に日本という国の安全と生存を委ねるという事は、果たして正しい事なのか、そこは良く考えなければならないと思うのです。

 そして二つ目。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会という箇所ですが、今の国際社会は圧迫と辺境を地上から永遠に除去しようとしているのでしょうか。
 人類史の中、国際社会は常に国家のエゴがぶつかり合う社会でした。これは何も現代に限った事ではなく、常に人類の歴史の中で国家というのは、そういう姿を晒して来ています。だから「歴史とは戦争の歴史」と言われるのではないでしょうか。現にこの憲法を起草した時、国際社会ではアメリカとソ連が来たるべく「東西冷戦」に向けて着々と手を打ち始めていました。そして日本はアメリカ主導の下、極東の「防共の砦」にするという構想もあった様です。
 太平洋戦争とは国際社会の趨勢を見誤るという事も、その要因にあったのですが、この憲法前文には、それに近しい感じを私は受けてしまうのです。

 とまあ、ここまで書いてきたのは私の「屁理屈」の様な内容です。当然、私は法学者ではありませんので、正式に憲法論を語れる立場ではありません。しかし今の日本国憲法の成立過程を見ても、あまりに短期間であり、且つ憲法を必要とした当事者民族である日本人の政治的な意識が高まりもしない中、GHQ主導でマッカーサーの理想が色濃く反映されており、改めて読むと、どうも地に足が着いていない憲法の様な感じがしてしまうのです。

 確かに今の日本国憲法には、国家としてとても重要な事が書かれていると思います。それは基本的人権の事であったり、民主主義国家の基本的な事であったり、大日本帝国憲法では規定されてもいない大事な事が随所に書かれていると思います。

 しかし一方で、今の日本人の中に、この日本国憲法が根付いていないのは、そもそも成立の過程にも、大きな問題があったのではないでしょうか。

 太平洋戦争で敗戦直後の日本人社会は明治時代から打ち続く戦争に疲弊している処もあったのでしょう。自分達が加担した(させられた)戦争の総括すら日本という国の中で為されておらず、連合国軍とは本来「占領軍」としてきたものを、当時は「進駐軍」と呼んで受け入れ、一方的に時の政府が悪役であり、日本は開放されたと思い込んだ節もある様に思えます。要は自分達が近代国家になってから、何か正解で、何が間違いだったのか、理解をする暇を与えられずに、今度はGHQ主導で「民主主義国家」へと変わってしまったのです。

 こういう所に、未だ日本国憲法が「自主憲法ではない」という理屈が再燃する火種がある様に、私は感じているのです。

 だから近代史を改めて読み直す事が、本来、憲法改正の前には必要なのではないでしょうか。



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