もう今年も九月の半ばになりました。思い返して見れば、今年初めの頃に、新型コロナウィルスのパンデミックが発生し、この様な社会になるとは考えてもいませんでした。
これだけ短期間に世の中の価値観が変化する事に、自分も驚いています。昨年には考えなくても生活出来ていた事が、今の生活ではMUSTで考えなければならなくなっている事、注意すべき事は結構ありますからね。
良い悪いはありますが、これから先も、もしかしたらこの様な大きな変化を私達は経験して行かなくてはならないのかもしれません。時代は大きな変革期にきている様ですから。
さて今日の本題です。
この間まで、このブログでは「心のかたち」として少し書き下しをして来ましたが、大乗仏教と近年欧米で進んでいる臨死体験学や、一部のニューエイジの思想は親和性が高い様に、私は考えています。
その中で、私達がこの世界に生まれてきた目的というのが、しばし語られたりしていますが、ニューエイジの思想の中では「この世界とは学びの世界であり、私達は魂の成長の為に学びに来ている」という話題があります。
仏教ではどの様に捉えているのか、そこには様々な観点もありますが、自称・仏教団体の創価学会では、法華経にある「衆生所遊楽」という言葉を取り上げて、私達はこの世界に楽しみに来ていると言っていました。
因みにバラモン教では、この世界は苦しみの世界なので、そもそもこの世界に転生しなくなる事を解脱と呼び、それを目指してこの世界では修行するとか、大乗仏教では法華経で久遠の釈尊が「我本行菩薩道」と説かれている様に、この世界に仏は常にあって、法を説き、人々を救うべく菩薩行を行っているともありました。
「私達はどこから来て、何処へ行くのか」
これについては、過去から様々な思想や哲学で扱われている大命題ですが、そこには様々な観点や考え方があるようです。
では私はどう考えているのか、その事について少し書かせてもらいます。
私の考えですが、以前の記事にも書いたように、法華経の如来寿量品で明かされている「久遠実成の釈尊」の観点から考えるならば、私達一人ひとりの心の奥底は、共通した心があると考えています。そしてこの奥底にある心とは、それこそ宇宙の始まりから終わりまで続くものであり、生まれるとか滅するという存在ではなく、仏としてこの世界の全てを理解していると言います。そして私達の意識とか、自我という心も、この心の奥底にある「久遠実成の釈尊」から派生していると言います。
天台大師はこの心のかたちを理解するための修行法として摩訶止観で観心行を語り、その手ほどきとして一念三千という法門を教えたのではないか、そして日蓮はこの奥底にある心の本質を「九識心王真如の都」と呼び、心のかたちは一念三千という天台の教えを前面に立て、「法華経を身読する」という事によって、この心のかたちを理解する。そこにこだわったのかもしれません。
まあぶっちゃけ、悩みがあれば人は嫌がおうにも思索を深めていきますからね。思索が深まれば理解する事も出来るでしょう。
近年、欧米などて語られるニューエイジ思想の中の「神」という存在も、実はこの法華経にある久遠実成の釈尊という事に近いのではないでしょうか。例えば前に紹介したニール・ドナルド・ウォルッシュ氏が、筆談を経て語り合った「神」というのは、その様なものかと思うのです。
この「神との対話」で語られているのは、宇宙の始まりにあったのは一つの意識であり、その意識が自分を理解するために、自分を分割して同質のものを創造した。それにより第三者としての視点を獲得し、自分という存在の理解が出来た。そして私達の住んでいる三次元の宇宙とは、この初めにあった意識が作り上げたもので、そこで多くの経験を得るために、意識はさらに分割されたていったと言います。そしてこの分割された意識とは、初めに存在した意識と同質なもので、同じ力を持っている。その様に、このニール氏が対話した「神」は語っていました。
「あなた達と神は同じなのだ」
この事は臨死体験者のアレクサンダー・エベン氏が臨死体験の中で、この世界には高度な精神世界の存在している言い、次の様に語っています。
「そこで学んだ事柄を解き明かす作業は、この先の一生に加えてさらに時間をかけなくてはならない大仕事になるだろう。」
これは心の本質にある知識や智慧というものが、時間的にも空間的にも私達が想像するレベルではないという事を明かしていると思うのです。近年言われているアカシック・レコードもその一分なのかもしれません。
この様な事を示す証言というのは非常に多く、私達の心というのは、実は宇宙の始めから終わりまで存在するもので、そこには膨大な知識や智慧を持ち合わせていると言うのです。その事から考えてみると、人生とは「学ぶ」という事ではなく、心の奥底にあるこれら智慧や知識を元に、より多くの事を「経験」をする為に、私達はこの世界に生まれ出て来て生きているという方が、とてもしっくりと来るのです。
人生、生きていれば苦もあれば楽もあります。そしてその出来事は、実は経験をするための「業=カルマ」と考えるのであれば、そういった出来事の一つひとつに対する捉え方も、自ずと変わってくると思うのです。
ここまで書かせてもらったのは、飽くまで私の個人的な私見です。
しかしこの様に考える様になると、創価学会で教えられてきた「御利益信心」とか「池田哲学」という事には、あまり興味もなくなってくるんですよね。