自燈明・法燈明の考察

世界は緩やかで大きな変化の時代を迎えている

 今日は日曜日。

 ノンビリ布団から抜け出して、嫁の入れてくれたコーヒーを飲みながら、ボーっとテレビから垂れ流れてくるさまざまな報道を眺めていました。
 私は以前に創価学会で活動家として生きてきた事は、このブログでも書き綴ってきました。学会二世として生まれ、二十歳から創価学会の中で班長という役職を皮切りにして活動してきましたが、そこで常に聞かされてきたのは「希望の二十一世紀」という話でした。

 二十一世紀は「生命の世紀」となり、素晴らしい時代になる。いや、していかなくてはならない。

 その様に先輩諸氏から教えられ、若い頃の私はその先輩諸氏の言葉を信じて、創価学会の組織の発展、思想の流布を信じて組織の活動に明け暮れてきたのです。

 今でも覚えているのは2001年9月11日に、アメリカで発生した「同時多発テロ」の事です。当時、私は区男子部長という役職で、男子部の本部長と一緒にテレビで煙の湧き上がるワールド・トレードセンタービルを見ていました。その年の5月3日には信濃町の接遇センターに行き、創価学会の池田名誉会長が提唱しつづけていた「2001年5月3日」という日付に自分なりにケリをつけてきていました。

 しかしその二十一世紀にはじまったのは、世界各地のテロ活動の活発化でした。

 池田名誉会長は常々「平和・文化・教育」という三本柱で日蓮仏法というのを社会に展開する事を主張していました。そしてそのうちの「文化」というのは「諸刃の剣」である事も述べていました。つまり文化の対立で戦争が起きるという事です。
 二十一世紀にはじまったのは、この「文化の対立」の一つである「民族・宗教の対立」による混乱であり、その現象の端緒として起きたのが、この世界のテロ活動。そして同時多発テロとはそういった事のシンボルとしての動きの様に思えました。

 その事件が起きてから間もなく。創価学会の本部から発信され始めたのは「池田哲学」という事であり、日蓮の仏法を世界に開いた思想が「池田哲学」であるという事。そして当時の青年部は「本門の弟子」「師弟不二の弟子」で、その思想を受け継ぐ立場であるという言動でした。

 私はそれから数年後、壮年部に移行しましたが、実際の創価学会の現場で行われていた活動というのは、そんな私が聞いていた事が全く通じない「下らない活動」にうつつを抜かす幹部たちや、そんな幹部たちの「指導」に唯々諾々と従う組織の実態。だから私は創価学会の活動を止める事にしたのです。

 組織から離れ、第三者の目から創価学会を見ると、結局は「組織の思想」が「張りぼて」であった事。まさに戦後日本の中で発生した「大きなジョーク」であるという現実です。

 そして次に起きたのは2011年3月11日の「東日本大震災」。約二万人の人達が亡くなる大惨事であり、福島第一原子力発電所の原子炉建屋が爆発してしまいました。この当時、会社の同僚と「日本の終焉の様な光景だ」と語り合いました。この震災関係の傷跡は九年経過した今でも、結して癒えたとは言い難いものです。東北地方の被災地の人達は、必死に生き抜こうとしています。しかし福島の原発周辺ではいまだ高線量を観測している状況なのか、YouTubeでも多くの測定動画が物語っています。

 それだけではありません。
 各地で異常気象を切っ掛けとして河川の氾濫、大地震も頻発しています。

 昨年の台風19号の被害に至っては、正直、私の人生の中であれほどの被害を見た事がありません。そして今年になって「新コロナウィルス」の流行に伴う社会的な混乱。

 ここまで日本国内の事を語ってきましたが、何も日本国内だけで様々な問題が発生しているわけではありません。世界に目を向けても、今世紀に入って様々な出来事が起きています。細かい事は割愛しますが、少なくとも若い時代に二十世紀を生きてきた私にとって、経験した事のない出来事が、この二十一世紀には起きてきています。

 この状況の中で、日本政府は「東京オリンピック」というお祭りを全面に掲げる事を止めません。まあ動き出した世界的な大きなお祭りを止める事は不可能なのでしょうか、このまま「東京オリンピック」というお祭りを出している意味を、私は未だ理解できずにいます。

 世界は緩やかに大きな転換期に入っている。
 これは間違いないでしょう。

 こういった時代を迎えている現在、人々には一体、何が必要なのでしょうか。この点について、やはり「価値観の大転換」が求められているのではないかと、頭の悪い私なんかは考えてしまいます。そして「価値観の大転換」のためには、新たな思想潮流が必要になると思います。そういう点では、過去に創価学会が提唱していた事の「ごく一部」は正しい事ではないかと思うのです。

 ちなみに創価学会での間違いは、その思想を日蓮正宗の教義をベースとした事。そして「創価(価値を創る)」という事により展開してしまった事。また「折伏」という言葉に象徴される「思想の独善性」を多くの人達に刷り込んでしまった事ではないかと思うのです。ここを脱却しない限り、創価学会は民衆を利用し、搾取する組織から脱却する事は出来ないでしょうね。

 私は個人的には創価学会がどうなろうと、それは知った事ではありません。

 ただ今の人類という「大きな視野」に立った場合、この価値観の転換を図るための思想のヒントは「法華経」にあると思うのです。この人類が経験している「緩やかで大きな変化」の中で、人類として生き残るのであれば、やはり法華経の中で示される哲学は重要な示唆があると思うのです。

 つらつらと、こんな事を考えたりしています。


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