ここまで読んできて、戸田会長の「生命の本質論」について、どうも特筆すべき内容があるというものでは無いというのが、率直な私の感想です。ネットの中ではこの戸田会長の論文が如何にも素晴らしい内容であるという話もありましたが、今の私がこの論文から何か新たに得たという事はありません。
ただ昭和30年代においては、この論文も先進的な内容であったという事なのかもしれません。しかし時代が経過する中、この内容については陳腐化してしまったという事ではないでしょうか。
今回の部分は「生命の連続・法報応の三身常住」という箇所について読み返してみます。
◆生命の連続
ここで戸田会長は生命は連続であり、死後の世界や輪廻転生について言及しています。戸田会長は「死」について法華経如来寿量品にある「方便現涅槃」という言葉を取り上げ、「死」という事については、方便(仮)として涅槃(死)という姿を示すという事を述べています。
「寿量品の自我偈(じがげ)には「方便現涅槃」とあり、死はひとつの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。
そのように、人も、老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。」
そのように、人も、老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。」
果たして「死」というのはどういった事なのか。医学的に言えば「生に不可逆な状態」という事と言われていますが、これを戸田会長は「生を継続できなくなった場合には、仮に死という事を経て生を継続する」という観点で語られています。
これは確かに視点としてありえる事と思います。ではここまでして継続される「生」の目的とは何か、そこにどんな意義があるのか、そういう事についての言及はこの論文についてはありません。
生命の本質論という割には、そういった根本的な事について論究していないという事に、私はどうも片手落ちの様な気がしてならないのです。
またここの部分では、死後の生命については「冥伏」という言葉で簡単な説明に留めています。
「この死後の大生命に溶け込んだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、しぜんに会得(えとく)するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生命活動となって現れてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、きょうもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は過去の生命の業因(ごういん)をそのままうけて、この世の果報として生きつづけなければならない。」
この論文の他の部分では経典や御書を頻繁に引用していましたが、この部分に関しては「経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、しぜんに会得(えとく)するであろう。」という言葉に留められているのです。
またこの後につづく「法報応の三身常住」という事でも、同じく経典や御書を一切引用する事なく、生命は過去から現在、そして未来へと常住するという事をただただ述べています。
これついては戸田会長の限界というよりも、日蓮の教説の限界によるものではないかと、私は思います。
日蓮の御書の中には仏教でいう「四有(衆生の輪廻転生する過程)」のうちで、「本有」について様々な事が論じられています。しかし「死有」と「中有」については、ほとんど語られている箇所はありません。これは恐らく日蓮の一生の化導というのは「本有(いま生きている過程)」に重点を置いていた事であり、「死有~中有~生有」という過程については、従来の仏教で説かれている事を踏襲して考えていた程度の事だったと思うのです。
ちなみに日蓮正宗では賢樹院日寛師の「臨終用心抄」というのがありますが、これは日寛師の著作では無いと言われていますし、その中身も身延の学僧や禅宗の学僧の論を多用していますが、日蓮正宗としての教学的な論及はなされていません。こういう事から考えてみても、日蓮教学の中には「死有~中有」という事への論究は、あまり為されていなかった事が解ります。
しかし、だからと言って日蓮が「死有~中有」を軽視していたという事ではなく、死有も中有も、本有の生き方で決定されるものだと考えていたのでしょう。
「わづかの小島のぬしらがをどさんををぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき」
(種種御振舞御書)
そして戸田会長は結論として以下の様に述べています。
「生命が過去の傾向をおびて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を集めて肉体を形成する。ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。このように、現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へと溶け込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって、また生命体として発現する。このように、死しては生まれ生まれては死に、永遠に連続するのが生命の本質である。」
つまり生命の本質とは、過去から未来に渡り、娑婆世界の業因業果によって輪廻転生を繰り返すものであると言うのが、戸田会長が「生命の本質」としての結論という事なのかと思います。
しかしこれでは、基本的には釈尊在世の婆羅門の教えと何ら変わる事が無いように思いますが、その点はどうなのでしょうか。この戸田会長の論文では「宇宙」や「大宇宙」という言葉を多用していますが、その思考が近年において創価学会の活動家が語る「宇宙即我」「我則宇宙」という様な、こちらも婆羅門の「梵我一如」の様な言葉に聞こえてしまうのですが、そういう思考の源泉になってしまったのかもしれません。
大乗仏教では、こういった業因業果による三世の生命観を否定していると私は思います。「久遠実成の釈尊」という教理は、それを的確に表しているものと私は考えています。人生において様々な苦悩があったとしても、その人の心の本質に「久遠実成の釈尊」が存在するのであれば、そういった苦悩も実は「願兼於業」という事で、ある意味、その人自身が願って持ち生まれてきた業であるという考え方も出来るのです。
これは飽くまでも私自身が法華経の内容を拝読する中で、理解した事なのですが、戸田会長の「生命の本質論」では、そういった内容とは異なる事が書かれています。しかしこれでは「仏とは生命なんだ」という、当初、戸田会長が主張していた事と相反する様に思えてしまうのは、果たして私だけなのでしょうか。
「仏とは生命だ。しかしその生命は業因業果の中で輪廻転生する」
そういう事に聞こえてしまいます。
何のために私達は生まれて来て、そこにどの様な意義を持つのか。その上に立って仏教の四有のそれぞれにどの様な動きや働きをするのか、そしてその本質は、とういう様な大事な事について、どうも歯抜け的な感想を私はこの戸田会長の論文に対して持ってしまうのです。