自燈明・法燈明の考察

成仏という考え方

 今日も暑い一日でしたね。
 私は在宅勤務で、日がな一日、家に籠っていますが、昼食などは買いに出て行かなければならず、その際には近所のスーパーまで十分ほど歩いて行かねばならなのです。今日はそれだけで全身が汗だくになってしまいました。

 そんな陽気の日々ですが、海外の気象ニュースサイト「The Weatchers」の9月3日付の記事によると、学術誌「Temperature」にイギリスのノーザンブリア大学の数学・物理学・電子工学の専門家であるヴァレンティナ・ザーコバ教授の話として、すでに太陽が大極小期(Grand Solar Minimum)に入った事を述べています。


 記事によれば、一般的に太陽活動は11年周期で変動していると言われ、活性が最も停滞する時期が太陽活動極小期と呼ばれるそうです。ザーコバ教授によれば、太陽背景磁場の分析から350年~400年の大周期が存在する事を発見し、その大周期が2020年から始まり、2053年まで続くというのです。

 とはいえ、近年では日本近海の海水温は極めて高く、その影響で巨大で強い台風が日本を掠めている状況を見ていると、何とも信じ難い話です。
 最後に大極小期があったのは400年前の「マウンダー極小期」と言われ、当時はイギリスのテムズ河も凍結し、日本でも冷夏と火山噴火などで大飢饉のあった時代です。

 果たしてその様な状況がこれから来るのでしょうか、少し心配ですね。

 さて今日の本題です。このブログの過去記事に「成仏とはなんだろね」という事で少し書き下しをしてみました。




 前の記事の内容もそうですが、今回も「成仏」という事で、私の私見について書かせてもらいます。

 この成仏とは、一般的に言えば「仏と成る」という事を指していて、これを典型的に語るのであれば、釈迦が菩提樹の下に結跏趺坐して瞑想し、魔を降してのち、明けの明星を見た時に「悟りを開いた」という様な事でしょう。つまり「何かしらの真理を悟った」という事で、この時を「仏に成った=成仏」という事だと言います。

 何かしらの瞬間に「悟り」を開いて、それ以降は「仏」として人生を生きて行く。つまり「成仏」とは人生の大転換のポイントの様なものと、多くの人は考えているのでしょう。その昔、男子部時代にある先輩が「成仏とはどういう事なんだろう」と考え、結論として「宇宙のどこかへピューっと飛んでいく様なもの」と例えていました。これは極端に下らない例ですが、多くの人が考えているのが、こういった事ではないでしょうか。

 確かに原始仏教では「全ての煩悩や執着を断ち切り」「無我の境地を得て」、そこに平穏な境地を得る事を指して「悟り」を得たという様な話もありますが、大乗仏教ではその境地を「阿羅漢果(二乗の悟りの境地)」として、実はそれは仏教(釈迦)の目的ではないという事にしています。

 創価学会の言う「宿命転換」も、この成仏に似たような思考であり、人生のどこかのタイミングで大変化が起きて、それ以降は「悠々自適」は人生を歩めると教えています。そしてその為に「選挙だ!」「新聞啓蒙(拡販)だ!」「折伏(新規会員の勧誘)だ!」と、会員を活動に走らせるわけです。
 だから自分達の宗派に従順でない人や、創価学会では活動しない人、組織にたてつく人は「あれじゃ成仏できやしない」なんて言葉も出てくるわけです。

 その昔、法華講から私も言われましたよ「成仏叶わぬ身」とかいう言葉。

 仏教に対して良く言われる指摘で「仏教は成仏を説くが、では仏になる際に悟る事とは具体的には何なのか」という事があります。原始仏教などでは「灰身滅智(一切の煩悩ぼんのうを断ち切り心身を全くの無に帰すこと。 小乗仏教の理想とする涅槃ねはんの境地)」という事を「悟り」として示したりしていますが、大乗仏教に於ける悟りの内容については、具体的な記述が実は無いのです。

 何故なんでしょうね。

 幾度も書きますが、大乗仏教の最高経典と云われる妙法蓮華経では、二乗作仏と久遠実成を示しています。そして天台大師智顗はそこから一念三千を抱いてたと言いますが、これを要約すると「私達は元来、仏である」という事を述べていると私は考えています。

 前にも話をしましたが、多くの仏教では「仏=修行のゴール」という事なのですが、法華経の観点からすれば「仏=自分の本質」という言い方も出来るでしょう。それは単純な「ゴールの姿」では無いのです。
 私達の本質が「仏」であるとすれば、そこに「悟り=開悟」という概念は存在しなくなります。この開悟が存在しないという事になれば、仏に成るための「悟り」という事も存在しなくなるのです。

 大乗仏教に於いて、悟りの内容が具体的に示されていないのは、実はこういった理由があるのではないでしょうか。

 こういった事を言うと「それは本覚思想だ!」という指摘が上がってきたりします。本覚思想とは「如来蔵や仏性をさとりの面から言ったものと考えられる。 平たく言えば、衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっている(悟っている)ことをいう。」という事であり、全ての人は始めから仏だという思想です。

 こういう本覚思想では「凡夫の身で仏という事であれば、悟りを目指す為の修行という事も不要となり、仏という存在自体、無意味になる。これは仏教破壊だ」という批判も過去にありました。

 しかしそもそも「仏」という実像も、果たして伝説に残されている釈迦の高貴は姿なのでしょうか。それこそ神羅万象全てを知悉し、大指導者の風格を備え、三十二相八十種好とやらに示された姿をする存在であり、私達は人生の苦悩を逃れる為に、そういった理想的な大人格者を目指さなくてはならないのでしょうか。

 私は、そういう事は違うと思うんですけどね。

 私達の心とは、奥底の深い部分では「共通の基盤」ともいえる意識があると思うのです。法華経ではそれを「久遠実成の釈尊」として表現し、日蓮はそれを天台大師の解釈を借用して「九識心王真如の都」とも「阿摩羅識」とも呼びました。
 恐らくその「共通の基盤」のところでは、宇宙の成り立ちから私達の存在の本質、そして人生の意味や目的を私達は理解しているのでしょう。そしてそれが大乗仏教で言う処の「仏」なのではないでしょうか。

 ただし人の心とは重層的な構造であり、その働きも多岐に渡ります。

 重層的な事については天台大師は「九識論」で表現し、近年の心理学者のカール・グスタフ・ユングは「深層心理」と表現しました。また働きの多岐に渡る事を、日蓮は「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて」(開目抄)と表現し、天台大師は「一念三千」として表現したのでしょう。

 心とは奥深い構造であり、且つ常に目まぐるしく活動をしています。そんな私達の日常の精神活動では、その本質を覚知する事はできません。だから私達は自分自身が本源的に求めている事を理解出来ないという事なのではないでしょうか。
 こういう事は、少し心を考えた事がある人であれば理解できるはずです。最近良く行われる「心理テスト」でも、そういった事を垣間見る事も出来ますよね。質問に答えた結果、自分の隠れた本音が出てきたりして。

 ある意味で、その昔、創価学会で表現した「仏を開く」という表現が、本来の成仏という概念に近いと思いますが、私達が理解する必要がある事とは、この「心の奥底にある本質」の存在であり、仮にそれを「仏」と呼んでも良いかもしれませんね。

 恐らく自分の「心の奥底にある本質」を理解出来れば、私達が生活する上でである様々な出来事について、本当の意味も理解する事が出来るし、それにより「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり」(四条金吾殿御返事)という自分自身になって行けるのかもしれません。

 以上、私が最近考えている事を、つらつらとまとめてみました。

 でもこういう事を理解すると、宗教団体に依存するとか、ある特定の人物の言葉に依存して人生を歩む必要なんて無くなってしまいます。それはそれで宗教団体には都合悪い話ではありますけどね。

 創価学会で会員に思考の暇を与えず、強烈な「正義感」で心を縛り、独善性を強固にして視野狭窄にするのも、こういった事を理解させない為かもしれません。

 よくよく考えてほしいものですね。



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