自燈明・法燈明の考察

第二次宗門問題の本質

 テレワークをやっていると、仕事に煮詰まれば煮詰まるほど、ブログには手が回らなくなってきます。これは長時間、パソコンの前で書類作りに唸り、電話会議に呻吟していると、もうそこでパソコンに向かう気力が萎えてしまう為なんだろうと思ってます。

 今日は久しぶりに通勤電車で移動しているので、その時間を使い、少し記事を書いてみます。

 いやね、普段Twitterを見ていて思うんですが、創価学会の活動家と思われる人達の発言の質が、否応なく劣化している事を、最近になって実感しています。何か私が男子部時代に良く相手していた、法華講や顕正会の彼らに近しい状態だと感じているのです。


 いまから十年ほど前に、青年部幹部が聖教新聞紙面の発言で「御遺命」という単語を使っている事にも大きな違和感を感じていましたが、最近になり御書読むのは「我見」という発言を見たりして。正直、この言葉は私が対論した正宗寺院の法華講幹部と同じ発言です。

 だいたい「御遺命」なんて単語、私が男子部の頃には顕正会しか使わなかった単語ですからね。

 最近になり、度々思い出す事が二つあります。一つは第二次宗門問題が勃発した当時、地元の男子部の先輩で、信濃町の中央幹部の幾人かが後輩だという人が居ました。当時の地元の男子部の会合に幾人かの全国幹部が来た事が当時あったのですが、それらは全てその先輩の人脈によるものでした。

 私が創価班になり、広宣部になって間もなくの頃、ある用事でその先輩の自宅を訪問した事がありました。先輩の自宅には富士宗学要集全巻、また様々な御書講義録等があって、かなり教学を学んでいる人だというのがわかります。そこで私は弘安二年の大本尊の事、また創価学会や宗門のあまり表には出ていない歴史の話を沢山聞く事が出来たのです。

「斉藤くんは広宣部だけど、今回の宗門問題について、どんな意義があるか知ってるか?」

 その先輩からこの様に聞かれたので、私は当時の広宣部の先輩から教えられた事を答えました。それは「池田先生の仇うつ戦い」という事、そして「創価学会の正義を宣揚する事」、と言った内容だったと記憶しています。すると先輩は言いました。

「うーん、確かにそれも間違いでは無いけど、実はそれよりも大事な事が有るんだよな。」

「それより大事な事って何ですか?」と私。

 すると先輩は宗門の問題点について、かいつまんで語りだしました。それは閨閥主義であったり、代々坊主の温床である寺族の問題、あとあったのが権威主義やご供養のお金に纏わる問題でした。

「実はこれらの問題だけど、全くおんなじ問題が、今の創価学会の中にそのまんま内在しているんだよ。だから対宗門を相手にして、同じく創価学会の中に内在する問題を、浮き彫りにして行く。これが本当の意義なんだ。解るか?」

 当時の私はそう言われても、イマイチ理解できませんでした。だって私が目の前で見ている創価学会とは、地区部長や地区担(今の婦人部長)。あと男子部では部長や本部長くらい。そんな人達の組織の中に、そんな宗門と同じのがあると言うのが解らなかったのです。

「ははは、今は難しいかもしれないが、よく覚えておきなさい。」

 これが当時の先輩の言葉でした。

 もう一つですが、これも創価班広宣部関係の事です。私は三十代で区広宣部長になりました。そして日々、宗門だ顕正会だ、極たまに妙観講だと駆けずり回る日々でした。
 この広宣部では、常に部員に対して勉強会を行っていました。理由は創価学会の歴史や宗門の歴史、そして教学的な事について、広宣部はしっかりと理解をしておく必要があったからです。だから毎週ペースで深夜、勉強会を持っていました。

 ある日の事、勉強会が終わってから、本部長と区主任部長、あと広宣部長の私の三人で、創価学会や宗門の歴史の振り返り雑談をしていたのですが、そこで21世紀になって、宗門も下火になった後、出てくる「敵」は、どこに現れるのか。そんな話題になっていました。

 この時、三人とも同じ結論となったのですが、それは敵は「信濃町」から出て来るだろう、と言う事でした。

 先の先輩の言葉ではありませんが、宗門の歴史を見ても、結局はその中枢部に問題があったから、富士の清流ではなく、富士の濁流になってしまった。また創価学会の過去の歴史にしても、けして胸張れるものばかりではありません。この事は広宣部をやっている中で身を持って感じていました。
 表向きには、絶対にそんな事を当時は言いませんでしたし、おくびにも出しませんでしたが、信濃町周辺で臭うことは、けして芳しいものではなかったのです。そしてその事が広宣部をやる上で、喉に刺さったトゲの様に感じていました。

 創価班では区広宣部長とは言っても、組織では副本部長兼任の部長でしたのて、やはり忸怩たる思いは常にありました。でも県幹部の先輩にその事を話しても言われた事はこうでした。

「斉藤くんは真面目だな。いいかい、そんな事なので創価学会では師弟が大事になってくるんだ。特に役職が上がれば上がるほどだ。信心の軸である池田先生との師弟関係を握りしめていれば、幾らそんな遠心力が起きようと、絶対に退転しない不動の信心になるんだよ!」

「ふーん、結局は人に依るのか」と私。

 考えてみたらこの相談した県幹部も、信濃町の外郭団体の職員で、要は「出家者」。だからこんな言葉を平気で吐くことが出来たのでしょう。

 だから当時の広宣部のメンバーには、自分たちが壮年部になる頃には、もしかしたら信濃町や公明党関係で、とんでもない状況になるかもしれない。だからその時には、何が正しくて何が間違っているのか、自分自身の頭でしっかりと考えられる人間を目指して、日々の研鑽や活動に取り組むことを合言葉にしていました。

 そして、そんな若き日の語らいから二十年ほど立ちました。

 当時の広宣部の仲間や後輩達の多くは、いま地元組織の中で支部長や本部幹部、区幹部として振る舞ってます。しかし近年の創価学会の、例えば会則改正に伴う教義変更や、安保法制の問題、そして自公連立政権に見える様々な政治的課題が有るにも関わらず、それぞれが条件反射の様に「選挙戦」と言っては、様々な組織の責任者の立場で公明党の選挙活動を鼓舞していたり、新聞購読数の積み上げに励んています。

 彼らに何を言おうが、どの様な事実を突きつけようが、彼らは創価学会の信濃町から打ち出しされた事を、いかにこなしていくのか、そしてそれをこなし消化していく事が、信心に取って一番大事な事だと信じているのです。

 若き日に語らった内容を、幾ら話しても、彼らは今の創価学会の打ち出しこそが信心であり、それが仏法だと信じて疑うことすらありません。むしろ活動を止めた私は異端であり敗北者としてしか映らなくなっています。

 こんな組織であれば、初めにも紹介した様に、ネットで垣間見える活動家達のレベルも理解できる気がします。

 私が若き日を過ごした創価学会。これはこれで問題がありましたが、今の創価学会はその根本的に染み込んでしまった毒気にやられ、戻ることすら出来なくなった。要は第二次宗門問題では、本当の意味での敗北を喫していたという事なのでしょうね。


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