今日も「戯言」の様な記事を書きます。
最近、戦国時代関係の書籍を読んでいて「人間」という言葉を「じんかん」と呼ぶという事を知りました。
かの織田信長が平家物語の「敦盛」の抄の一節、「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり」という言葉を好み、良く舞っていたという話を聞いていましたが、これを私は「にんげん五十年」と読んでいました。でもこれは「じんかん五十年」という読み方なのかもしれませんね。
「にんげん」と呼ぶのか、「じんかん」と呼ぶのかで、この敦盛の一節の意味合いも多少異なってくると思うのです。
「にんげん」という場合には、自分自身がこの世界に生まれて、生きていても五十年。その間に自分は何を成し遂げる事が出来るのか、という感じになります。でもこれを「じんかん」と呼んだ場合、「じんかん」とは「人と人の間」、つまりこの人間世界に生まれて来て、様々な人との関わり合いの中で、五十年という年月で何を成し遂げられるのか、という様な意味合いになると思ったのです。
まあ端的に言えば「にんげん」と云う読み方の場合、自分自身としてこの人生を一人称で語る事に対して、「じんかん」と云う読み方では、三人称的な視点で人生を語るという事になるのではないでしょうか。
思うに織田信長のいう人物も、応仁の乱以降の長い間続いた戦乱の世の中を、「天下一統」という事で一つにまとめ上げ、戦乱の世を終結させようと働いた様に思えますので、やはりそういう面でも「じんかん五十年」という読み方だったのかなとも思えます。
ここで少し話題を変えます。
私の仕事では2020年2月から、新型コロナのパンデミックにより「テレワーク」という勤務体制にシフトをしました。もう今年で三年目に突入しますが、このワークスタイルも社会の中では定着している事もあり、今も通常は自宅でパソコンを前に仕事をしています。
ただ先日、仕事で東京方面に行った時、人混みを見てふと感じた事があります。
もう新型コロナのパンデミックも終息方向で、ビジネス街には多くの人達が慌ただしく動いていました。当然、動き回っている人々の一人ひとりは年齢も違うし性別も違います。また仕事内容に拠っては服装や持ち物も異なります。そういった一人ひとりの「差異」を生み出しているのは、紛れもなく、人々が持ち合わせている「業(カルマ)」なのだろうなと、ふと感じてしまいました。
以前にもこのブログの以下の記事で触れた事ですが、
私達が意識するしないに関わらず「自我」として感じている事の根底には、この「業(カルマ)」があるというのが、仏教に於ける視点でもあります。またそれを補完するかの様に、それぞれ個々の人達には「五識(眼識・鼻識・耳識・舌識・触識)」があるので、感じている外界の姿も個々に異なっています。
持ち合わせている「自我」と、認識している自分の心の外の外界の姿も異なるので、一人ひとりが異なる「存在」である事を、誰も疑う事がありませんし、だから人間というのは、より「エゴ」を肯定・増大させてしまっているのではないでしょうか。
この私達の心で感じている「自我」の奥底に、もっと広い「大我」ともいうべき心が具わっていて、人というのは個々が分断した存在ではなく、共通の心の土壌の上に生きている存在だという視点を与えているのが、法華経なのではないかと私なんかは考えている訳です。
そしてそんな一人ひとりが「じんかん」として、織り成して作り上げられているのが、家族であり、地域そして民族から国家、そして人類社会という事なのかもしれません。そして私達はその社会の中で、どの様に人生を生きて行くべきなのかを、考えなければならないのでは無いかと思うのです。
まあそんな事を、ふと感じました。