ベトナム漁船が仰天、目の前に中国原潜が突如浮上
ベトナムの漁業関係者がソーシャルメディアに掲載した情報によると、先月、多数のベトナム
漁船群が操業していた西沙諸島周辺海域で、ベトナム漁船のまっただ中に中国海軍原子力潜水艦が
突如浮上した模様だ。
ツイッターに掲載された写真が事実であるならば、ベトナム漁船群の直近に姿を現した潜水艦は
中国海軍094(09-Ⅳ)型弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(いわゆる戦略原潜)である。
An unverified photo of a Chinese Type 094 (Jin-class) nuclear-powered ballistic missile submarine (SSBN) surfacing beside a Vietnamese fishing vessel. The photo's reportedly taken by a Vietnamese fisherman near Paracel Islands in the South China Sea in September 2019. pic.twitter.com/Vb5CH3o6Dz
— Duan Dang (@duandang) October 16, 2019
原潜の浮上は異常事態
第1次世界大戦や第2次世界大戦で用いられた潜水艦は、敵から身を隠す必要がある場合に
「海中に潜航することができる軍艦」であった。つまり、基本的には海面を航行し、必要に応じて海中に
身を隠して行動する仕組みとなっていた。
これに対して現代の潜水艦は「海中に潜航することができる軍艦」という位置づけではなく、
基本的には「海中で作戦行動を継続する軍艦」という位置づけになっている。すなわち、基地周辺海域
などでは海面に姿を現したまま航行するものの、ひとたび海中に姿を消すと、帰投するまで海中を
潜航し続けて行動することになるのだ。
通常、原子力潜水艦は出動すると2カ月は海中に留まり続けている(原子力潜水艦の場合、
理論的には無限に潜航し続けることができるのだが、生身の人間が乗艦しているため潜航期間は
2カ月ほどが限界になる)。
したがって、ベトナム漁船群が操業している海面に中国海軍原潜が姿を現したという「謎の浮上」は、
世界の海軍関係者にとってはまさに「極めて異常な事態」ということになり、その原因に関して
さまざまな憶測を呼んでいる。
政治的理由ではないかという憶測
本コラムでも繰り返し取り上げてきているように、中国は南シナ海の大半を囲い込む「九段線」内
海域を「中国の主権的海域」であるとしている。アメリカはそのような主張は国際海洋法上容認
できないとして、軍艦や爆撃機を南シナ海、とりわけ中国が軍事拠点を手にしている西沙諸島周辺海域と
南沙諸島周辺海域に送り込んで中国を牽制する「FONOP」(公海航行自由原則維持のための作戦)を
断続的に実施している。
中国で発行されている南シナ海地図。赤色点線が九段線
中国は、アメリカのFONOPに対して不快感を示しているが、これまでのところ、軍事的な反撃
(軍艦や戦闘機を繰り出して米側を牽制することは別として)は行っていない。
そこで今回、西沙諸島沖合で原潜を浮上させることによって「南シナ海は中国の海である」という
中国の立場を目に見える形で示そうとしたのではないか、という憶測もある。
これと似通った憶測として、近頃ますますベトナム漁船と中国当局の間でのトラブルが頻発している
西沙諸島周辺海域で、ベトナム漁船群を脅かしつけるために、巨大な戦略原潜を漁船群のまっただ中に
浮上させたのではないか、というものもある。
(かつてベトナムが実効支配していた西沙諸島は、1974年にベトナム戦争の混乱に乗じて中国軍が
侵攻しベトナム軍を撃破して占領して以来、中国が実効支配を続けている。現在も、中国とベトナム
そして台湾が西沙諸島の領有権を主張している。)
戦略原潜は絶対に姿を見せてはならない
だが、中国の主権を主張するために原潜を浮上させた、という政治的理由に帰するこれらの憶測は
、おそらくは誤りであろう。なぜならば、各種潜水艦の中でもとりわけ戦略原潜は「浮上してはならない」
潜水艦であるからだ。
核弾頭を装着した弾道ミサイルを搭載した戦略原潜の役割は「敵に自国が核攻撃された場合に、
その敵に対して海中から核ミサイルを発射して報復攻撃を実施する」というものである。極言すれば、
その目的だけのために存在するのである。
そのため、戦略原潜は絶対に敵側に存在を探知されないように海中を潜航し続けていなければならない。
結果として、察知することができない戦略原潜による核報復攻撃の恐れが存在することは大いなる
核抑止力となる、と考えられているのだ。
したがって、自らの位置を絶対に知られてはならないことが何にもまして重要な戦略原潜が、わざわざ
政治的メッセージをアメリカやベトナムに突きつけるために、自ら姿を海面に現すことなどあり得ない
のである。
政治的行動ではないとすると
・故障説
予定された政治的行動でないとするならば、何らかの深刻な故障、あるいは故障の疑いが生じて、
多くのベトナム漁船が操業している海域であるにもかかわらず緊急浮上せざるを得なかったという
憶測が成り立つ。
中国海軍が強くあってほしくない人々にとっては、このような推測は支持したいところであろう。
しかし、浮上した094型戦略原潜に救援船がやってきたような目に見える形での事実が確認されない
限り、故障説の真偽を確かめることはできない。
・漁網説
故障説とともに成り立ちうる憶測は、中国原潜がベトナム漁船の漁網を引っかけてしまったことに
気がつき、状況を確認するために緊急浮上した、というものである。
これまでにも潜水艦が、トロール漁船などの漁網を引っかけた事故はたびたび発生している。
そして、漁船が沈没してしまった重大事故も発生している。ただし、いかなる国といえども潜水艦の
作戦行動は極秘事項中の極秘であるため、表面化していないこの種の事故は少なくないものと考えられる。
しばしば発生する漁船(漁網)と潜水艦の事故に対処するため、たとえばイギリス海軍では
「万が一にも漁網と衝突(接触したり引っかけたりした場合を含む)したような場合には、直ちに
潜水艦周辺海面を確認し、場合によっては浮上して漁船の状況を確認せよ」と規定されている。
しかし、なんといっても隠密行動に従事している潜水艦である以上、規定どおりに事が運ばない
ことが多い。最近発生した潜水艦が漁網を絡めた事故でも、以下のような状況である。
[2015年3月] スコットランド沖合でトロール漁船が潜水艦に漁網を引っかけられて引きずられてしまった。運良く漁船員たちが漁網のケーブルを切断して沈没は免れたが、潜水艦は立ち去ってしまった。イギリス海軍とアメリカ海軍の調査によると、漁網を引っかけたのはおそらくロシアの潜水艦ではなかろうか、ということである。
[2015年4月] NATOが演習をしている海域に近接する海上で、トロール漁船が潜水艦に網を引っかけられ引きずられ沈没寸前になった。漁船はなんとか沈没を免れたが、潜水艦は停止せず立ち去った。当初はNATOの演習を偵察していたロシア潜水艦の仕業と考えられたが、実際にはイギリス海軍攻撃原潜アートフルが引き起こした事故であったことが判明した。
[2016年7月] NATOの演習中、ポルトガル海軍潜水艦トリデンテ(比較的小型の通常動力潜水艦)が漁船の網を引っかけた。この状況に気がついた潜水艦は直ちに停止し浮上したが、漁船と衝突してしまった。しかし双方ともにダメージはなく、負傷者も生じなかった。
もし今回の「謎の浮上」が、中国戦略原潜が漁網に接触したことに気がつき潜水艦周辺海上で
操業中の漁船に異常がないかどうかを確認するために浮上したのならば、中国海軍が核抑止よりも
人道的行為を優先させたことになる。
そして、基準排水量2020トン全長67.7メートルのトリデントと違って水中排水量1万1000トン
全長133メートルという巨体の094型戦略原潜を無事にベトナム漁船群のまっただ中に浮上させた
中国潜水艦のシーマンシップには脱帽!? せざるを得ないことにもなる。
真実は分からない
いずれにせよ、潜水艦それも超極秘扱いの戦略原潜の行動に関して中国当局が真相を発表することを
期待することはできない。また、アメリカ海軍などが何らかの情報を握ったとしても、こと中国潜水艦に
関する情報である以上、それが明かされることはあり得ない。結局「謎の浮上」は謎のままということに
なるであろう。