空白のノーベル文学賞と金子兜太
ノーベル文学賞本来の意味と、スウェーデン・アカデミーの醜聞
私たちは3年前から、アムステルダム・アンネ・フランク・ハウスなどと協力して、金子さんの俳句を、
紛争など互いに対立し合う集団双方の言語に訳して対話と和解を促進するプロジェクトを進めてきました。
その第1弾、正確にはプレイベントとして、99歳のお誕生日に「アラビア語訳」を、シリアの詩人
ムハンマド。オダイマ氏の訳と「朗誦」という予定で進めてきました。
しかし、金子さんご本人は一足先に彼岸へと旅立ってしまわれました。
詩は、人類が文字など作る前から存在していました。
古代ギリシャ社会で市民の基本教養として暗唱された(伝)ホメロスの叙事詩も、
そもそもは「音」として作られ、暗唱され、文字に記されるようになったのは、ペルシャ戦争以降など、
ずっと新しい時代になってからのことに過ぎません。
実際、詩は短く見積もっても8000年、本来は数万、数十万年の人類史を通じて、本質的に「声に出して
朗誦され」て初めて詩として成立します。
逆に言うと、文字だけで訳があっても、それは詩だとは見なせないんですね。
私たちはすでに金子兜太句の、スウェーデン語訳、ノルウェー語訳、フィンランド語訳
(先に北欧を記しましたが)、英訳、独訳、フランス語訳など、多数の言語への訳文をすでに作成しています。
例えば日本語の元の俳句と、韓国語、中国語訳などの対照など、この春すでに法政大学の文芸誌に
部分発表したものもあります。もちろんこういうマス媒体では告知していませんので、ほとんど誰も
ご存じないわけですが。
でも、適切な「読み手」を得て、その言語本来の音で息を吹き込まれて=生きて響いて、
初めて詩であるという、音楽人としての私の考えで進めさせてもらっているため、時間がかかってしまいます。
ようやく、まず「アラビア語」が、空爆に苦しむシリアの詩人の手、そして息と声によって、
最初に実現することになったというのが、今回の行事です。
限定50人のささやかなイベント、入場無料ですが抽選で整理番号を発行していますので、ホームページ(http://mitsishikawa.wixsite.com/musicmanufacture/14-7)をご参考いただいてここ(gakugeifu@yahoo.co.jp)にお申込みください。
訳の言語としてスウェーデン語、ノルウェー語などと記したので、何となくお分かりかと思いますが、
この仕事はストックホルムやオスロの友人たちとも連絡を取りながら進めています。
金子兜太さんにノーベル文学賞、は逝去によって不可能となりましたが、兜太さんこそ、日本人として
ノーベル文学賞を得るべき、歴史的大文学者、人類の至宝と言うべき、世界が誇る大詩人です。
それは本人の生死と別に、文学そのものの命脈がこれから実証していくことで、この仕事も、
兜太さんご自身の「命」の一部として、肉体を越え、時間と国境とを越えて続いていきます。
私たちは2018年のグローバルな文学上の顕彰を、今年は授与されない「ノーベル文学賞」の代わりに、
今年98年の人生にコンマを打った(決してピリオドではない)金子兜太さんに光を当てて考えることを
提案し、ささやかな世界発信を進めています。
そう、今年実はノーベル文学賞が出ないのです。なぜでしょうか?
とんでもない不祥事があって、ノーベル文学賞が出せないことになった、という報告が、5月初頭に
ストックホルムから世界にもたらされたのでした。
選考どころではないスウェーデン・アカデミー事情
日本では連休たけなわの今年5月4日、ストックホルムから衝撃的な情報が全世界に発信されました。
2018年のノーベル文学賞は発表を見送る。今年の分については、2019年に合わせて選考と
発表を行う・・・。どうしてそんなことになってしまったのか?
選考委員の1人で、スウェーデン・アカデミーのメンバーである女性作家カタリーナ・フロステンソン
(1953-) の伴侶である、写真家で、ストックホルムで妻とともに「アートフォーラム」などの
責任者を務めていたフランス人写真家ジャン=クロード・アルノー(1948‐) が、ノーベル賞の発表と
授賞式の間にあたる昨年11月、多数の女性に対する性的暴力事実を、ハリウッド発の
グローバル・ソーシャルネットワーク「Me Too Movement」私もやられた!で告発されたのです。
アルノー氏は18人の女性から「炎上」告発されたのみならず、あろうことか2006年スウェーデンの
次期女王となるはずのヴィクトリア皇太子(女性皇太子)に「おさわり」していたことがスクープされました。
その結果、アルノー氏が芸術家として得ていたありとあらゆる公的補助は打ち切られました。
さらに、夫妻が運営していた「アートフォーラム」でのコンプライアンス違反がありました。
ノーベル文学賞受賞者の名が少なくとも7回、妻から情報を得たのであろうアルノー氏のリークで事前に
マスコミに漏れてしまった事実などが、次々と明るみに出たのです。
スウェーデン・アカデミーは会長が引責辞職、フロステンソン自身を含む4人が辞任、この状態が、
実はアカデミーの内規に照らして、ノーベル賞始まって以来の危機状況をさらに作り足してしまったのです。
というのも「スウェーデン・アカデミー」会員は定員18人、本来終身制で、いったん選ばれれば
通常は生涯その活動を続けられます。
また死亡などで会員が減った場合には、メンバー12人の合議と投票で次の会員を迎え入れることが
できるのですが、今回の大量辞任によって、その定足数12を割ってしまったのです。
具合の悪いことに、アルノー氏の悪癖は大半がこの「アカデミー」の建物の中で行われていたようで、
「ミー・トゥー」で告発した18人の女性のみならず、スウェーデンのヴィクトリア女性皇太子への
乱暴狼藉もアカデミーの行事での出来事であった「らしい」・・・。
世界の「ノーベル文学賞」を選出するはずのアカデミーの中で、これらの事がすべて起きていた
「らしい」・・・
こうなってしまうと、もう賞の選考会どころではありません。その選考主体であるアカデミーの
存続からして怪しいことになってしまい、とてもではないですが、2か月とか3か月といったスパンで
体制が整え直せる状況ではなくなってしまった。
5月の「今年度のノーベル文学賞発表見送り」の背後には、こんな、救いようのないドタバタが
存在していました。
そもそもノーベル文学賞とは・・・
ノーベル賞が、ダイナマイトの発明者で、武器を含む産業で一代にして財を成した
アルフレッド・ノーベルの遺言によって作られたことは、それなりに知られているかと思います。
しかし「ノーベル文学賞」と訳される「Nobel Prize in Literature」は、特に日本国内では
「小説家」に与えられる賞、とりわけ「よく売れた小説家」に与えられる賞であるかのごとき、
大きな誤解が流布しているようです。
これについては10年来、ノーベル賞関連のコラムや本を書く過程で、幾度も指摘してきました。
例えば一昨年ボブ・ディランの受賞を「小説家の賞」と思う人はいないでしょう。
ところが、勘違いも甚だしいことに「これは文学の危機」などと、ディランへの授賞を揶揄する
向きなどもあるわけです。
これはつまり、出版不況の中にあって、小説や「文学」の営利が、がっちりとこの賞の周りに
こびりついていることの、一つの証左と言っていいでしょう。
そこで改めてノーベルの遺言の原文
(の英語訳 https://www.nobelprize.org/alfred-nobel/full-text-of-alfred-nobels-will/)を
見てみると、文学賞こと「リテラチュア」の賞がなんであるかが分かってきます。
「私の遺産については財団を作り・・・その利息は毎年、賞の形で分配することとする。
これは、前年に人類に対して最大の公益を齎した人に対して5等分して分与される」
(the interest ... shall be annually distributed in the form of prizes to those who, during the preceding year, shall have conferred the greatest benefit to mankind. )
ノーベルは「人類全体に対して、最大の公益をもたらした人を顕彰する」と言っているのであって、
特定の出版社に最大の売上高をもたらした作家に賞を出すとは言ってないことに注意すべきでしょう。
物理でも化学でも同じことです。ちなみに「5等分」というのは、ノーベル経済学賞こと
スウェーデン銀行賞が設けられるのはノーベルの没後70年以上経過してからのことだったからに
ほかなりません。
で、肝心の文学賞ですが
「5分の1は、literature のfield において、理想を指し示す方向で最も際立った仕事/作品を
生み出した人物(one part to the person who shall have produced in the field of literature
the most outstanding work in an ideal direction)に与えられる」
とノーベルは遺言しており、この「liteature」はおよそ「小説」ではなく、詩でもよければ戯曲でも
構わないし、ジャーナリズムでも社会評論でも、さらに言えば哲学やノンフィクションでも構わない。
要するに「文筆という領域で」最も「人類全体に公益をもたらした、今後の人類が進むべき理想の
方向性を指し示すような仕事」を成し遂げた人に対して与えられるべきものとして、ノーベル自身が
スウェーデン・アカデミーによる選考を遺言しています(that for literature by the Academy
in Stockholm)。
日本では、川端康成、大江健三郎と作家に対する賞であるような印象を持たれやすいですが、
実際には違います。
例えば、哲学者アンリ・ベルグソン(1927)、政治家として自伝を書いたウインストン・チャーチル
(1953)、受賞を辞退してしまったフランスの哲学者ジャン・ポール・サルトル、
ソ連、ロシア内部でアフガン帰還兵の現実をスクープしたり、チェルノブイリを告発し続けた
ノンフィクションのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ(2015)といった人々が顕彰され続けてきました。
こうした人々すべて「人類全体に to mankind」「進むべき方向を指し示す in ideal direction」
筆耕の人であることは、間違いありません。
私も、今ですからはっきり書いてしまうと、親類縁者に当たる人から、金子兜太さんをノーベル文学賞に
推せないか、と相談を受けたことがあります。
「ノーベル賞を受けるかどうかは別として、審査に当たる人に、80年にわたってこのような
文学活動を続けてきた日本の大詩人がいるということを知ってもらうのは重要なことと思います」と
お答えして、アムステルダムやストックホルム、オスローやヘルシンキ、在米の友人知人と連絡、
相談して、このような取り組みを始めたのにほかなりません。
そんな「人類全体に to mankind」「進むべき方向を指し示す in ideal direction」筆耕の人を
選ぶはずのアカデミーのなかが、蓋を開けてみると「アレ」では・・・。
この騒動、本当の意味で収拾するには、まだ時間がかかるかもしれません。