妻の生い立ちや、“魂の伴侶”とも言うべき私たちの不思議な出会いについては、もう少し落ち着いてからゆっくり書いていくことにします。毎日毎晩、妻のことを思い返していると、やはり心の中の「喪失感」が強くて私自身が苦しいのです。感情に流されず冷静に書けようになってからにします。
さて、今日は妻がいなくなってからの我が家の現状のお話です。
今は5人暮らしです。私、二番目の娘、その夫、その2歳の男の子、そして高校2年生の息子です。長女は、口では家に帰ってくると言いながら、たまに姿をみせるだけです。
高校生の息子は、妻がいなくなってから車を運転して学校に通っています。2台ある車のうち、小さい方の車です。そのせいで学校が終わってからあちこち行ったり、友達を家に送ったりして帰りが前よりもだいぶ遅くなりました。妻が生きていたら、きっと怒ったでしょう。息子が車を運転すること自体は妻は認めていました。バイクよりも車の方がはるかに安全だからです。それに息子の運転は妻よりも上手です。
二番目の娘の家族は、実は今年に入ってから、3キロほど離れた夫の実家に移っていました。妻がそうさせたのです。でも、妻の病状が悪化してから娘が我が家に泊まり込むようになり、今もそのままです。多分、夫の実家には戻らないつもりでしょう。わが家の方が、住環境としては快適ですから。
妻がいるときの我が家は2つの言語が飛び交っていました。妻と私は常に日本語。私と息子も日本語。妻と息子はタイ語と日本語の両方。でも娘たちはタイ語しかできないので、私が娘たちと話すときは妻が通訳のような役割を果たしていました。つまり、私は家では大体日本語しか話していませんでした。
ところが妻のいない現在は、息子をのぞけば、私は否応なしにタイ語を使わなければコミュニケーションが成り立ちません。家庭内だけでなく、近所の人とももちろんタイ語です。妻のいるときは、ただ黙って聞いていればよかったのに、もうそれは許されません。
昨夜は娘と2歳の子と3人だけで夕食を食べました。
「お父さんはね、誰もいないところではお母さんのことを思い出して泣いてるんだよ。お母さんはずっと子供たち3人のことを心配してたよ。あなたたちが別々に暮らしていた昔も、ずっとそうだったんだよ。3人を本当に愛していたんだよ・・・」
いつもはほとんど会話のなかった二番目の娘と1対1で向き合って食事したのは、昨夜が初めてでした。今月は親戚がたくさん家に泊まり込んでいたので、毎日タイ語を聞いたり喋らざるをえませんでした。そのせいで、だいぶタイ語を思い出すことができました。
19歳の娘は私の話を聞いて目を真っ赤にしました。そして涙がポロポロと溢れてきました。「お母さんに会いたい!」そう言ったきり、もう言葉が出なくなりました。私と二番目の娘の心が初めて通い合ったような気がしました。昨日は、そのあと夜10時すぎに娘が私の部屋を覗いてこう言いました。
「お父さん、まだ疲れているでしょうから、もう寝てくださいね。」
娘が私にこんなことを言ったのは初めてのことでした。
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そうですね。嫌だったことは忘れるわけではないですが、亡くなった後は、嫌な思い出でがなくなるのかもしれませんね。
妻とは日本にいるときも、チェンマイでもよく喧嘩しました。私がいじめた訳ではないときでも、妻はよく泣いていました。子供を叱りつけた後も、いつも泣いていました。
その泣き顔を、笑い顔よりもよく覚えています。それは、思い出したくない妻の顔ではなく、ある意味では一番愛しい妻の顔です。その涙は、彼女は悲しくて流していたのかもしれませんが、私には、心の純粋さの現れのようにも思えます。
確かに、全部が良い思い出になるから不思議ですね。
Kojiさんと、Kojiさんのご家族のご多幸をお祈りします。
このたびの奥様の訃報に接し、初めて投稿させて頂きました。
今までの記事を読んでいて周りの人を思いやり、とても明るく、笑顔を絶やさない奥様のお姿が脳裏に浮かびます。
自分も30歳の時に父親が胃癌で亡くなりました。
父親とは色々あり学生の時から衝突していたので18歳で家を離れて働きだしたので親孝行と言える事は何も出来ませんでした。
父親が元気な時はかなり恨んでいたのですが、亡くなってからは不思議と父の悪い事は一切思い出さず、数少ない楽しかった事が脳裏に溢れてきて自然と涙が出ていました。
自然と葬式の時に父の遺影に向かって謝罪と感謝の気持ちを言ったのを思い出しました。
この度の奥様の死を日々感じ、悲しむ気持ちは、遺族特に家族しか分かり合えないと思うので家族みんなで一緒に悲しみを分かち合い癒し合って下さい。
心の傷が治る時間は人それぞれなので決して無理をなさらないで、ゆったりと心を癒してください。
最後に、ご遺族の皆様に心よりお悔やみ申し上げるとともに、故人のご冥福をお祈りいたします。
私は妻は別として、彼女の親戚を心底支援したいと思ったことは一度もありません。タイ人だから親を助けるのは仕方ないなとは思っていました。ですから、妻が亡くなってからも金銭的に支援するつもりはありません(小遣い程度は別ですが)。
私からの支援がなくなると、妻の妹2人の負担が一気に増えるでしょうね。でも私はきちんと割り切って対処するつもりです。ブログからの印象とはかなり違って?私もそれほどのお人好しではありませんのでご安心ください(笑)。
妻の遺言は2つあって、弁護士に頼んで文書にした遺産相続のことと、もうひとつは、私たち2人だけで交わした、今後の私のことです。「いい人を見つけて再婚してください」というのが妻の正真正銘の本音であったかどうかは、実は分かりません。というのは妻は心の奥底で思っていることの反対のことを口にすることも多かったからです。つまり、強がりでそう言ったのかもしれません。
でも、彼女が私の今後のことを真剣に考えれば考えるほど、(妻の連れ子に囲まれていたとしても)私が一人で老後を過ごすのは酷だと思ったとしても、全然不思議はありません。死期が迫っていることを自覚していた妻が悩みに悩みぬいた末に、そう言ったのだと思います。
ですから、諸条件が許せば、妻の言ったとおりにしようとは思っています。本当は、妻は悲しむかもしれないので、ハイよっとはいきせんが、少し時間をかけます。
長女が妻の実家の親戚たちにどんなに爪はじきされていても、私は彼女を理解しようとするので、彼女も私とは心が通じていると思っているかもしれません。実際、みんなの前でそう言っていました。だからと言って、決して甘やかすつもりもないですが、彼女は亡くなった妻の長女ですから、人が何と言おうと、大切にしていきます。
私自身は、お葬式そのものにはあまり関心がありませんでした。もともと儀式的なものが好きではないからかもしれません。
私の父と母は実はキリスト教徒で、私も20歳すぎまでは父母以上に熱心な信者でした。小さいときからそういう環境だったので、妻のような清らかな心をもった人間は、神様から見れば、本当に愛すべき人間だったと思います。その魂の平安を祈るのみです。
私も一人で車を運転しているときに妻のことを思い返し、こっそりと泣くことが多いです。実は、亡くなる数か月前からそうでした。密室にいるから、そうなるのかもしれませんね。人前では、亡くなった日も、今も平気です。
次は長女と対話してはどうでしょうか。
息子さんの車の運転心配です、技術より交通ルールとマナーを日式で教えてください。
出しゃばりご容赦願います。
今晩は
お寂しくなられたと思います。
でも、お子様がおられた良いですね。
葬儀の時のブログ拝見していました、田植えをしていて多忙なためコメントできませんでした、やっと田植えが終わりコメントできます。
私の妻も花が好きで、花の祭壇で飾りました。
実は、私の妻の葬式の時一回だけ、涙を流しました。
お葬式に来てくれたお客様に、謝辞を言うとき、皆様に参列のお礼と、妻に「30年間有り本当に有り難う」の自分の言葉に涙を流しました。
私は、妻を妻の母が連れて行ったと、魂が上がるときに諦めました。実は、妻に母が亡くなるときに何度も「娘を返した下さい」と言われ、母が連れて行ったのだと諦めました。
私は57歳を過ぎて、父を亡くし、妻を7年前に亡くし、母を5年前に亡くしました。
私は、57歳までの自分の人生が如何に幸せだったと思っています。
次の葬式は私であって欲しいと思っています。
やはり、亡くなるのは歳の順番が良いですよね。
先を越すのは、不条理を感じます。
でも、ご先祖差が迎えに来るのでしょうが無いですね。
運命は、神様、仏様が決める事なのでしょうが無いです。
私は、お墓に花のある時期は花を供える様に、お墓も綺麗な方がいいですよね。
日本の仏教と、タイの仏教多生違うところがありますが、元は同じですので、大きな違いはありませんね。
でも、今の日本のお葬式は、で葬儀を出すと言う考えで無く、家庭葬と言う家族で見送ると言う考えに変わってきているようです。
身内を亡くすと、時間の経過で当初よりも時間が経っての喪失感が強くなりますよね。
私は、母を亡くして1年間は、車の運転中によく泣いていました。
仕事をしているときは、忙しさで忘れられます。でも、気が抜けると駄目でした。
娘さんと心通じ会う時間が得られて、奥さまは微笑んで見守っているでしょうね。