「東京から南に連なる島同士の、つながりは強い。」と、感じることがあります。
祖父はケータ島(婿(「むこ」は婿の俗字の方の「知」のしたに「耳」)島)の出身です。父島の北方の島で、小笠原丸の到着の前に見ることができますし、父島からのツアーでも行くことができる島のようです。現在は人は住んでいません。
96歳の祖母は、八丈島から、硫黄島の祖父に嫁ぎました。
硫黄島には、八丈島に多い姓の人が多く住んでいて、
今も硫黄島在住だった方で、、親類が伊豆諸島に住んでいる人が多くいます。
私の祖母の親類も八丈島に多く住んでいます。
戦前、同じ小笠原村の父島、母島と、硫黄島との人の移動、交流が多かった
ことは地理的に、当然のことと思われます。
父島と硫黄島民との、親戚、姻戚関係が多く、
風土や文化もかなりの部分が共通しているのは、近くて移動が楽だったから
でしょう。
地図を見て、ふと、不思議に思いました。
疑問に思ったのは、
父島、母島などの小笠原諸島と、
硫黄島(北硫黄島、南硫黄島と火山列島を構成しています。)との
距離は比較的近いですが、
八丈島、大島など伊豆諸島までの距離は、極めて遠いということです。
関東と伊豆諸島というまとまり と
小笠原諸島と火山列島というまとまり の間の距離があまりに離れているのに、
伊豆諸島と、小笠原諸島、硫黄島との間に、親戚、姻戚関係、食文化などの
共通点が多いのは、なぜなのか、ということでした。
伊豆諸島、小笠原諸島、それぞれに歴史があって、距離が離れているだけでなく
民俗学的な差異も大きいと思うのですが、
きっと、舟で移動する「島民」という共通点があるために、
八丈島から硫黄島に嫁いだり、という人的交流が盛んだったのでは
ないかと思います。大島や八丈島は、関東地方、東京に近いですから、
距離だけで考えると、小笠原諸島、硫黄島との関わりの深さ、濃さが、
伊豆諸島と東京とで、そんなに差がないのではと思われるのですが、
やはり、「島同士」という、つながりが、関係の濃密さの違いに
現れたのでないか、と推論をしました。
今年は小笠原返還40周年でした。
「1968年に、返還されて、日系一般住民の小笠原への帰島が始まった。」
そうです。
戦前、父島や母島に住んでいた人たちも、
1968年までは、戦争によって疎開させられ、
故郷を離れていたのです。
1968年の返還で、父島、母島には、帰ることが許されましたが、
同じ小笠原村でも硫黄島には、帰ることが許されませんでした。
戦前に硫黄島に住んでいた方の中には、小笠原返還後に、
硫黄島には戻れなかったので、父島に戻った方がいらっしゃいます。
今年の6月の硫黄島訪問の時に同行していたNHKが取材して、
首都圏ネットワークのシリーズの最終回(6月27日放送)で、
父島に戻られた方を紹介していました。
(前にこのブログの中の記事で、「自衛隊輸送機で行った回に、
厚生館での昼食の時に、甘い果実、アナナを差し入れて下さった。」
と書きましたが、その差し入れをして下さった方です。)
今年の6月の硫黄島訪問について、
昨年との違いなどを中心に、「島民の集い」の紹介もはさんで
気まぐれな更新頻度で、紹介させていただいてきましたが、
行きと帰りに寄った父島について、
何回か紹介させていただきたいと思います。
父島と硫黄島、伊豆諸島などの位置関係などについての
前置きが長くなりましたが、
父島で過ごした時間も、今年は昨年とは違うところがありました。
今年一緒に行った親類に「釣りきち」がいたので、
私自身はほとんど、釣りはしないのですが、父島で釣りをする
ことになりました。
小笠原は、釣りファンたちの憧れの場所でもあることが、
小笠原丸に乗り込む乗客に、立派な道具を持ち込んでいる方々がいる
ことからも分かります。
前に行った時にも、父島や、昨年の兄島近くへのツアーの船上から、
最初に硫黄島に行った時に停泊小笠原丸で宿泊した夜に、
船の灯りに集まる魚の多さに驚いたこと、などから、美しい魚たちが豊富な
ことは知っていましたし、お刺身でいただいたりもしていました。
釣り好きと同行ではありましたが、
硫黄島墓参・帰島目的ですので、竿を持ち込むほどまでに釣りを目的に
してはいませんでしたので、現地で竿を借りれるお店を、
インターネット検索で、調べてありました。
「小笠原釣具センター」が、「ボニンコーヒー友の会」と一緒であることも
知っていました。
行きの父島停泊で、島についてすぐに、釣具屋さんに行きました。
本格的に船を出したり、島の特別なポイントに移動したりする時間
はありませんでしたので、釣具店の方々と話して、
村役場からも近い、大神山公園(お祭り広場)を抜けた先の
青灯台の堤防 と決めました。
竿もレンタルより、堤防で釣り糸を垂れるのでしたら、
買った方が安いという物がありましたので、人数分の3本購入しました。
釣具屋のお二方とお話をした時に、
硫黄島出身の方だとお聞きしました。
私どもが、硫黄島に行くこと、祖父の名前や戦前の場所などを
お伝えしたりして、お話をしました。
「墓参訪問の結果、様子を、帰りに寄った時に知らせる。」と、
申し上げておきながら、
帰りには、乗船のための集合ギリギリまで、別のアクティビティで
過ごしてしまい、立ち寄ることができずに、失礼をしてしまい
本当に申し訳なく思っております。
もっと、硫黄島の話をしたり、コーヒーも飲ませてもらったり、
買ったりしたかったです。
来年、寄ってお話できることを、今から楽しみにしております。
しばらく、「エンジョイ!島ライフ」さん日記を
見に行っていなかったら(こちらも、大変失礼なことをしてしまい
申し訳ございません)、たくさん記事更新をしてもらっていて
・明日と明後日(11月22日、23日)、
池袋サンシャインシティ文化会館で、アイランダー2008という
イベント
http://www.i-lander.com/index2008.html
があり、小笠原からフラと南洋踊りが出演するという情報
・第17回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『戦後は終らない ~硫黄島・日米元兵士たちの証言~』
(制作:長野放送)という番組が11月15日の深夜に放送されたという
情報 (硫黄島の番組なのに、全然知らずに、すっかり見逃してしまい
お恥ずかしい限りです。再放送されますよう期待します。)
を載せて下さっているのを読みました。テレビは間に合いませんでしたが、
サンシャインには行って、大好きな南洋踊りを見たいです。
(池袋サンシャインシティでは、ナンジャタウンには、何度も行っていますが、
これまでには、餃子スタジアムにばかり行っていましたが、
先日、「りらくの森」の中に初めて入って、どれも、個性的なマッサージ
の中からハワイアンの「アロハガーデン」というのを見つけたので、
15分コースの頭と肩のマッサージをしてもらいました。
心地よくて寝そうになりました。)
祖父はケータ島(婿(「むこ」は婿の俗字の方の「知」のしたに「耳」)島)の出身です。父島の北方の島で、小笠原丸の到着の前に見ることができますし、父島からのツアーでも行くことができる島のようです。現在は人は住んでいません。
96歳の祖母は、八丈島から、硫黄島の祖父に嫁ぎました。
硫黄島には、八丈島に多い姓の人が多く住んでいて、
今も硫黄島在住だった方で、、親類が伊豆諸島に住んでいる人が多くいます。
私の祖母の親類も八丈島に多く住んでいます。
戦前、同じ小笠原村の父島、母島と、硫黄島との人の移動、交流が多かった
ことは地理的に、当然のことと思われます。
父島と硫黄島民との、親戚、姻戚関係が多く、
風土や文化もかなりの部分が共通しているのは、近くて移動が楽だったから
でしょう。
地図を見て、ふと、不思議に思いました。
疑問に思ったのは、
父島、母島などの小笠原諸島と、
硫黄島(北硫黄島、南硫黄島と火山列島を構成しています。)との
距離は比較的近いですが、
八丈島、大島など伊豆諸島までの距離は、極めて遠いということです。
関東と伊豆諸島というまとまり と
小笠原諸島と火山列島というまとまり の間の距離があまりに離れているのに、
伊豆諸島と、小笠原諸島、硫黄島との間に、親戚、姻戚関係、食文化などの
共通点が多いのは、なぜなのか、ということでした。
伊豆諸島、小笠原諸島、それぞれに歴史があって、距離が離れているだけでなく
民俗学的な差異も大きいと思うのですが、
きっと、舟で移動する「島民」という共通点があるために、
八丈島から硫黄島に嫁いだり、という人的交流が盛んだったのでは
ないかと思います。大島や八丈島は、関東地方、東京に近いですから、
距離だけで考えると、小笠原諸島、硫黄島との関わりの深さ、濃さが、
伊豆諸島と東京とで、そんなに差がないのではと思われるのですが、
やはり、「島同士」という、つながりが、関係の濃密さの違いに
現れたのでないか、と推論をしました。
今年は小笠原返還40周年でした。
「1968年に、返還されて、日系一般住民の小笠原への帰島が始まった。」
そうです。
戦前、父島や母島に住んでいた人たちも、
1968年までは、戦争によって疎開させられ、
故郷を離れていたのです。
1968年の返還で、父島、母島には、帰ることが許されましたが、
同じ小笠原村でも硫黄島には、帰ることが許されませんでした。
戦前に硫黄島に住んでいた方の中には、小笠原返還後に、
硫黄島には戻れなかったので、父島に戻った方がいらっしゃいます。
今年の6月の硫黄島訪問の時に同行していたNHKが取材して、
首都圏ネットワークのシリーズの最終回(6月27日放送)で、
父島に戻られた方を紹介していました。
(前にこのブログの中の記事で、「自衛隊輸送機で行った回に、
厚生館での昼食の時に、甘い果実、アナナを差し入れて下さった。」
と書きましたが、その差し入れをして下さった方です。)
今年の6月の硫黄島訪問について、
昨年との違いなどを中心に、「島民の集い」の紹介もはさんで
気まぐれな更新頻度で、紹介させていただいてきましたが、
行きと帰りに寄った父島について、
何回か紹介させていただきたいと思います。
父島と硫黄島、伊豆諸島などの位置関係などについての
前置きが長くなりましたが、
父島で過ごした時間も、今年は昨年とは違うところがありました。
今年一緒に行った親類に「釣りきち」がいたので、
私自身はほとんど、釣りはしないのですが、父島で釣りをする
ことになりました。
小笠原は、釣りファンたちの憧れの場所でもあることが、
小笠原丸に乗り込む乗客に、立派な道具を持ち込んでいる方々がいる
ことからも分かります。
前に行った時にも、父島や、昨年の兄島近くへのツアーの船上から、
最初に硫黄島に行った時に停泊小笠原丸で宿泊した夜に、
船の灯りに集まる魚の多さに驚いたこと、などから、美しい魚たちが豊富な
ことは知っていましたし、お刺身でいただいたりもしていました。
釣り好きと同行ではありましたが、
硫黄島墓参・帰島目的ですので、竿を持ち込むほどまでに釣りを目的に
してはいませんでしたので、現地で竿を借りれるお店を、
インターネット検索で、調べてありました。
「小笠原釣具センター」が、「ボニンコーヒー友の会」と一緒であることも
知っていました。
行きの父島停泊で、島についてすぐに、釣具屋さんに行きました。
本格的に船を出したり、島の特別なポイントに移動したりする時間
はありませんでしたので、釣具店の方々と話して、
村役場からも近い、大神山公園(お祭り広場)を抜けた先の
青灯台の堤防 と決めました。
竿もレンタルより、堤防で釣り糸を垂れるのでしたら、
買った方が安いという物がありましたので、人数分の3本購入しました。
釣具屋のお二方とお話をした時に、
硫黄島出身の方だとお聞きしました。
私どもが、硫黄島に行くこと、祖父の名前や戦前の場所などを
お伝えしたりして、お話をしました。
「墓参訪問の結果、様子を、帰りに寄った時に知らせる。」と、
申し上げておきながら、
帰りには、乗船のための集合ギリギリまで、別のアクティビティで
過ごしてしまい、立ち寄ることができずに、失礼をしてしまい
本当に申し訳なく思っております。
もっと、硫黄島の話をしたり、コーヒーも飲ませてもらったり、
買ったりしたかったです。
来年、寄ってお話できることを、今から楽しみにしております。
しばらく、「エンジョイ!島ライフ」さん日記を
見に行っていなかったら(こちらも、大変失礼なことをしてしまい
申し訳ございません)、たくさん記事更新をしてもらっていて
・明日と明後日(11月22日、23日)、
池袋サンシャインシティ文化会館で、アイランダー2008という
イベント
http://www.i-lander.com/index2008.html
があり、小笠原からフラと南洋踊りが出演するという情報
・第17回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『戦後は終らない ~硫黄島・日米元兵士たちの証言~』
(制作:長野放送)という番組が11月15日の深夜に放送されたという
情報 (硫黄島の番組なのに、全然知らずに、すっかり見逃してしまい
お恥ずかしい限りです。再放送されますよう期待します。)
を載せて下さっているのを読みました。テレビは間に合いませんでしたが、
サンシャインには行って、大好きな南洋踊りを見たいです。
(池袋サンシャインシティでは、ナンジャタウンには、何度も行っていますが、
これまでには、餃子スタジアムにばかり行っていましたが、
先日、「りらくの森」の中に初めて入って、どれも、個性的なマッサージ
の中からハワイアンの「アロハガーデン」というのを見つけたので、
15分コースの頭と肩のマッサージをしてもらいました。
心地よくて寝そうになりました。)