発掘から41年間、金生遺跡の遺跡公園化で、隠され続けて来た縄文時代の秘密
金生遺跡の大配石で日の出を検討した結論は、縄文時代には立春、立夏、立秋、立冬の日の出の観測は、現代の太陽暦と一致することが判明した。同じ正確さで観測していた。
このことから縄文時代には、現代と同じ太陽暦を持っていたことが証明されるものと考える。
古代文明の何処にもこのような太陽暦はないし、太陽観測の遺跡も無い、さらに太陰暦もこの太陽暦にシンクロさせていたことが推察できるので、太陰暦もこの正確さと同じものを持っていたと考える。
冬至の日の入りについては、それが甲斐駒が岳のピークにあることから、縄文時代や金生遺跡に興味を持つ人々にはよく知られてきたことである。冬至にはそうした人々が集まり、その際の記事や、入り日の写真などもインターネットには数多く投稿されてきた。
何故なのか、これまで誰一人として見ていなかった、ランドスケープの秘密の開示
金生遺跡・大配石の東側のランドスケープは
↑ ↑ ↑
飯盛山 金峰山 茅が岳
立秋の日の出 林が金生遺跡 立春の日の出
日の出前、シルエットとして見えるときの山脈は、こんな感じである。
春分の日の出位置はこの辺りのセンター↑
富士山を含めた南東方向のランドスケープは下の写真
茅が岳 富士山
金生遺跡
金生遺跡・大配石の立春観測設備は、東側の配石とその中に設置されている石棒である。しかしこの41年間、立春の日の出は、東側に巨大男根状モニュメントと樹木を設置することにより遮られ、大配石には日の出の初光が差し込まないようにそれらの邪魔ものを設置して、観測することができないようにされていた。
立春石棒 ↑ ↑
奥の石棒 ノーモン台
後ろの少し離れた島のように見えている配石に立秋の男根型石棒が立ち、その背後に大きな立石が見えている。
その後、現在は何とか日の出が見えるようになっている。
立春石棒側から見る 茅が岳がその先に薄く見えている
立春石棒 ↑
周りに幾つかある大きな石は、ランドスケープに見えていた山を絵地図として示すための石として置かれているような感じがするので、立春石棒はその石組みで作られた地形図の中に日の出位置を示すように立てられているように感じる。
立秋を示す男根型石棒は、立春配石の後ろに少し離して作られた配石の中に置かれている。
↑ ↑
男根型石棒 大立石
立秋 飯盛山
立秋の影を男根型石棒に落とすノーモンは、立春石棒のある石組みの北東角に置かれている石の位置になる。
飯盛山を背にした方向から立秋男根型石棒を見ると、印が置かれた石がノーモンの位置となる。その先に男根型石棒が置かれていた。
左端に見えているのが立春石棒。
手前の石組は住居跡の壁石と炉の跡。男根型石棒の設置されている配石は、飯盛山のあるランドスケープを示す地形図となっているように感じる。男根型石棒は、飯盛山を示す立石の脇に日の出位置を示すように立てられている。
これが立秋を示す石棒と分ったのは、幸にも遺跡の再整備のためとして、建物が撤去されたのと、日の出方向の生け垣や樹木が刈り込まれたことにより、飯盛山ピークが配石位置から見えるようになり、日の出方向が見通せるようになったことから判明した。
立秋の日の出を観測するのは何故か、暦が半年一年暦であったとすれば、立春が前半の暦の起点 立春正月 としていたのと同じように、後半の半年の暦の起点 立秋正月 を決めて暦を作るためだったのでは無いかと考えている。こうして後半の暦も月の相と太陽暦とを正確に一致させることが出来る。
石棒が示す立春と立秋は、現在の暦に一日の狂い無く一致している。4539年前に作られた太陽暦は、2000年掛けて精度を上げて到達した現代の太陽暦と同じ精度でこの配石で作られていることが判明した。